道を歩いている。目の前には別れ道がある。右に行けば山へと続き、左に行けば海へと続く。どちらを選んだとしても、再び戻り、違う道を選びなおすことはできない。山を選べば山の民として生きていかねばならないし、海を選べば海の民として生きていかねばならない。
そんなとき、あなたならどうするだろう。立ち止まることもせず、気分やノリでどちらかの道にふらふらと進んでいくだろうか。あるいは、歩みを止め、山の民の世界はどのようなものか、海の民として生きるとはどういうことか、じっくりと考え、どちらかの道を選ぶだろうか。
誰もが立ち止まって考えるだろう。自分はどちらの道を選ぶのか。いや、どちらの道を捨てるのかと。
そういう選択ができるのは、道が分かれていることが見えているからだ。どちらかを取り、どちらかを捨てる決断をしなければならないとわかっているからだ。別れ道が見えなければ、そこで立ち止まることも、考えることも、選ぶこともできない。ただ、一本の「この道」、今まで通りのばすの、でもどこか違うところに行きそうな「この道」を歩むことになる。
いま、私たちはそのような「分岐点」に立っている。今回の参院選のことだ。安倍政権と野党連合が提示しているのは、別々の道だ。私たちはどちらを取り、どちらを捨てるのかを選ばねばならない。経済政策に焦点を当てれば、経済成長という一本の道の歩み方の違いのように見えるかもしれない。しかし、今回の選挙で問われているのは、一本道の歩み方の違いではない。どちらの道を捨てるかなのだ。とくに憲法改正はそうである。
現行憲法の13条と、自民党の草案のそれを比べてみよう。憲法学者によっては、13条は日本国憲法でもっとも重要だという。
(現行憲法)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。
(自民党改憲草案)
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
どうだろう。この2つに違いを見出すことができるだろうか。これが大きな別れ道の選択を迫っていると感じられるだろうか。私たち素人にとってはあまり違いは感じられないかもしれない。しかし『「憲法改正」の真実』という本で、日本の憲法学者の大家、樋口陽一氏と小林節氏は、この変更に大きな危機感を持っていた。
具体的には、現行憲法の「個人」が改憲草案では「人」、「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」と変わっている。「個人」であれ、「人」であれ、その後には「尊重される」と書いてあるから何も違わないのではないか、そう思うかもしれない。このわずかな違いが、何かを決定的に捨てることにつながる。大きな別れ道なのだ。
わかりやすく、僕なりにこの違いを書いてみたい。
自民党の言う「人として尊重する」というのは、こういうことかもしれない。工事現場などで人が10人必要な状況だ。10人いないと仕事ができない。そんなとき、1人が大けがをしてしまう。9人では仕事にならない。現場監督は「この大事な時に1人使い物にならない。大事な人材が1人足りない。困ったものだ。まったくあいつは何で怪我なんてしたんだ。迷惑掛けやがって。とにかく誰か1人連れてきてくれ。怪我したやつ、そんなのは放っておけ。いまは穴を埋められる人の方が大切だ」と言う。
現場監督は、人の重要性をわかっている。そして人を大事だと思っている。しかし、その人は個人ではない。工事を完成させるために必要な10人という意味での人だ。だから、その10人が誰であっても構わない。そして工事中に怪我をするような人間は「迷惑をかけた」人として扱われる。
現行憲法はどうだろう。子どもが小さかったころ、こどもチャレンジを取っていた。「しまじろう」で有名なあれだ。そのときのコピーが「みんないいこだよ」というものだった。糸井重里氏が作ったものだと記憶している。
「みんないいこだよ」というのは、子どもであるだけでみんないいこだ、という意味だそうだ。そこには条件はない。親の言うことを聞くこどもだから、とか、勉強が良くできる子だから、とか、元気ではきはきしているから、とか何の条件もない。さまざまな違いをもった一人ひとりの子どもが、生まれながらにそのままで「いいこ」なのだ。これが、現行憲法の「個人」として尊重するということだ。
端的に言って、自分たちの言うことを聞き、迷惑をかけない「人」は大切にするが、そうでない「人」は大切にしない、というのが自民党の憲法草案がいう「人として尊重される」ということだ。現行憲法でいう「個人として尊重される」というのは、何よりもまず一人ひとりがそのままで大切にされるというものだ。(もちろん公共の福祉に反しない限りとあるので、自由振りかざして好き勝手出来るというものではない。)
国民に対する基本的な考え方が違うのだ。そして、憲法とは国民が国に守らせるべく提示しているものだ。自分たちをこのような存在として認めろと。現行憲法が要求するものと、自民党の憲法草案では、その内容は大きく異なる。
さて、どうだろう。こう書けば、今回の参院選が大きな別れ道の選択だと伝わるだろうか。伝わらないとすれば、それは僕の表現力のなさである。でも、ほんとに別れ道なのだ。どちらを選ぶか。いやどちらを捨てるかをきちんと選ばないと、再び戻ることは出来ないかもしれない。
私たちは選ぶこともできるし、選ぶことを放棄することもできる。そして、その結果は引き受けるしかない。好むと、好まざるとにかかわらず。
そんなとき、あなたならどうするだろう。立ち止まることもせず、気分やノリでどちらかの道にふらふらと進んでいくだろうか。あるいは、歩みを止め、山の民の世界はどのようなものか、海の民として生きるとはどういうことか、じっくりと考え、どちらかの道を選ぶだろうか。
誰もが立ち止まって考えるだろう。自分はどちらの道を選ぶのか。いや、どちらの道を捨てるのかと。
そういう選択ができるのは、道が分かれていることが見えているからだ。どちらかを取り、どちらかを捨てる決断をしなければならないとわかっているからだ。別れ道が見えなければ、そこで立ち止まることも、考えることも、選ぶこともできない。ただ、一本の「この道」、今まで通りのばすの、でもどこか違うところに行きそうな「この道」を歩むことになる。
いま、私たちはそのような「分岐点」に立っている。今回の参院選のことだ。安倍政権と野党連合が提示しているのは、別々の道だ。私たちはどちらを取り、どちらを捨てるのかを選ばねばならない。経済政策に焦点を当てれば、経済成長という一本の道の歩み方の違いのように見えるかもしれない。しかし、今回の選挙で問われているのは、一本道の歩み方の違いではない。どちらの道を捨てるかなのだ。とくに憲法改正はそうである。
現行憲法の13条と、自民党の草案のそれを比べてみよう。憲法学者によっては、13条は日本国憲法でもっとも重要だという。
(現行憲法)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。
(自民党改憲草案)
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
どうだろう。この2つに違いを見出すことができるだろうか。これが大きな別れ道の選択を迫っていると感じられるだろうか。私たち素人にとってはあまり違いは感じられないかもしれない。しかし『「憲法改正」の真実』という本で、日本の憲法学者の大家、樋口陽一氏と小林節氏は、この変更に大きな危機感を持っていた。
具体的には、現行憲法の「個人」が改憲草案では「人」、「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」と変わっている。「個人」であれ、「人」であれ、その後には「尊重される」と書いてあるから何も違わないのではないか、そう思うかもしれない。このわずかな違いが、何かを決定的に捨てることにつながる。大きな別れ道なのだ。
わかりやすく、僕なりにこの違いを書いてみたい。
自民党の言う「人として尊重する」というのは、こういうことかもしれない。工事現場などで人が10人必要な状況だ。10人いないと仕事ができない。そんなとき、1人が大けがをしてしまう。9人では仕事にならない。現場監督は「この大事な時に1人使い物にならない。大事な人材が1人足りない。困ったものだ。まったくあいつは何で怪我なんてしたんだ。迷惑掛けやがって。とにかく誰か1人連れてきてくれ。怪我したやつ、そんなのは放っておけ。いまは穴を埋められる人の方が大切だ」と言う。
現場監督は、人の重要性をわかっている。そして人を大事だと思っている。しかし、その人は個人ではない。工事を完成させるために必要な10人という意味での人だ。だから、その10人が誰であっても構わない。そして工事中に怪我をするような人間は「迷惑をかけた」人として扱われる。
現行憲法はどうだろう。子どもが小さかったころ、こどもチャレンジを取っていた。「しまじろう」で有名なあれだ。そのときのコピーが「みんないいこだよ」というものだった。糸井重里氏が作ったものだと記憶している。
「みんないいこだよ」というのは、子どもであるだけでみんないいこだ、という意味だそうだ。そこには条件はない。親の言うことを聞くこどもだから、とか、勉強が良くできる子だから、とか、元気ではきはきしているから、とか何の条件もない。さまざまな違いをもった一人ひとりの子どもが、生まれながらにそのままで「いいこ」なのだ。これが、現行憲法の「個人」として尊重するということだ。
端的に言って、自分たちの言うことを聞き、迷惑をかけない「人」は大切にするが、そうでない「人」は大切にしない、というのが自民党の憲法草案がいう「人として尊重される」ということだ。現行憲法でいう「個人として尊重される」というのは、何よりもまず一人ひとりがそのままで大切にされるというものだ。(もちろん公共の福祉に反しない限りとあるので、自由振りかざして好き勝手出来るというものではない。)
国民に対する基本的な考え方が違うのだ。そして、憲法とは国民が国に守らせるべく提示しているものだ。自分たちをこのような存在として認めろと。現行憲法が要求するものと、自民党の憲法草案では、その内容は大きく異なる。
さて、どうだろう。こう書けば、今回の参院選が大きな別れ道の選択だと伝わるだろうか。伝わらないとすれば、それは僕の表現力のなさである。でも、ほんとに別れ道なのだ。どちらを選ぶか。いやどちらを捨てるかをきちんと選ばないと、再び戻ることは出来ないかもしれない。
私たちは選ぶこともできるし、選ぶことを放棄することもできる。そして、その結果は引き受けるしかない。好むと、好まざるとにかかわらず。
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