今日のランニングは暑かった。久しぶりに暑さでペースが落ちた。土手のアスファルトは太陽の白い粉でまぶしい。白いアスファルトの上には干からびたミミズが何匹もいる。夏を前にして刈られた雑草が土手の斜面を多い、強い緑の匂いを発している。ゆっくりしたペースで1時間半ほどジョギングをする。太陽の光が肌を焼き、額からは汗が流れる。シャツも汗で濡れている。水飲み場ごとに顔を洗い、腕や脚に水をかける。風で乾いた汗がぬめっとする。走りながら去年の今ごろはサロマ湖100kmの準備で必死になっていたことを思い出す。早いものだ。
ここ2週間ばかり次男が続けざまに体調を崩す。先週は風邪で高熱を出す。月曜日だけ保育園に行き、火曜日から金曜日まで全滅。今週は復活したと思ったら、水曜日の夜からオタフクになる。またしばらく保育園に行けない。
子どもというのは高熱を出すとけっこう簡単にうなされる。(わが家の子どもたちだけだろうか?)相方が気づいたことだが、兄弟といえどもうなされ方には違いがある。長男は幻覚系。おびえた表情で空中を見つめながら「怖い、そこにいる。来ないで」というようなことを口走る。次男は幻聴系。「やめて、イヤなことは言わないで」というようにうなされる。
というわけで、次男がいつも家に居る。その分、仕事の作業効率は落ちる。予定していたことが出来なくなる。(子どもの病気だから仕方がないが、)予定していたことが出来なくなるような不測の出来事が起こったら、一般的にはそれを「トラブル」と呼ぶ。
ここのところトラブルを間近で見ることが重なった。眺めていたら「人間というのはトラブルを起しながら前に進んでいく人と、トラブルを解決しながら前に進んでいく人と、トラブルには関わりたくないと思っている人がいる」という言葉が頭に浮かんだ。
こう書くと、トラブルを起す人は厄介な人間で、解決する人は立派な人で、関わりたくない人はちょっと利己的な人と見えるかもしれない。そんなことはない。人間というのは、一方では昨日と同じように今日も過ごしたいと思い、もう一方では昨日とは違う今日になって欲しいと思いながら過ごしている。トラブルを起すのは昨日とは違う今日へのきっかけであり、解決することは昨日とは違う今日の完成であり、関わりたくない気持ちは昨日と同じ今日を求めることだ。
結局のところ、トラブルを起し続けるだけでもダメだし、トラブルがなければ解決することも出来ない。ほうっておいても歳をとるのだから、同じことをずっと続けるのも不可能だ。大切なのは按配である。出来事を変えるきっかけを作り出すこと、きちんと出来事を変えること、出来事をしばらくの間安定させること。状況に合わせてこの3つのスイッチの切り替えが出来ることが個人においても、組織においても必要になる。
一個人が状況に合わせてスイッチを切り替えるのはかなり困難である。困難だからこそ、トラブルを起す人はしょっちゅうトラブルを起すし、解決する人の元にはトラブルが持ち込まれるし、関わりたくない人はいつもトラブルから距離をとっている。そんな人たちが集まって組織ができ上がっていたりする。
組織が求める人材というと、コミュニケーション力があって(人の話をきちんと聴き取ることが出来て、自分の意見を誤解なく相手に伝えられる)、論理的な思考が出来て、計画性があって、リーダーシップがあって……、というようなことがよく言われる。組織に属する人間がすべてこういう人物になることを求めているのだろうか。そんな組織は現実的には不可能だし、何だか気持ちが悪い。(でもそんな基準で個々人を評価していたりする)
按配である。同等の能力を有する人が集まっているのが良い集団ではない。でこぼこな人たちが具体的な課題を通り抜けることで自ずと役割分担が決まって行くような集まりが良い集団である。他の集団であればトラブルを起すような人間がチャンスを作り出す人間となり、トラブルを解決する人間は過去の負の遺産を処理するのではなく新たなものを完成させる人となり、トラブルを避けるだけの人間が安定した日常を維持できるような人間になれる、そんな集団が良い組織である。そしてすべての按配を見るのがトップの仕事である。(なんだ、今日は仕事絡みの文章を書いていたのか。書き終えて気づいたりする。何も考えずに書きはじめちゃったから)。
ここ2週間ばかり次男が続けざまに体調を崩す。先週は風邪で高熱を出す。月曜日だけ保育園に行き、火曜日から金曜日まで全滅。今週は復活したと思ったら、水曜日の夜からオタフクになる。またしばらく保育園に行けない。
子どもというのは高熱を出すとけっこう簡単にうなされる。(わが家の子どもたちだけだろうか?)相方が気づいたことだが、兄弟といえどもうなされ方には違いがある。長男は幻覚系。おびえた表情で空中を見つめながら「怖い、そこにいる。来ないで」というようなことを口走る。次男は幻聴系。「やめて、イヤなことは言わないで」というようにうなされる。
というわけで、次男がいつも家に居る。その分、仕事の作業効率は落ちる。予定していたことが出来なくなる。(子どもの病気だから仕方がないが、)予定していたことが出来なくなるような不測の出来事が起こったら、一般的にはそれを「トラブル」と呼ぶ。
ここのところトラブルを間近で見ることが重なった。眺めていたら「人間というのはトラブルを起しながら前に進んでいく人と、トラブルを解決しながら前に進んでいく人と、トラブルには関わりたくないと思っている人がいる」という言葉が頭に浮かんだ。
こう書くと、トラブルを起す人は厄介な人間で、解決する人は立派な人で、関わりたくない人はちょっと利己的な人と見えるかもしれない。そんなことはない。人間というのは、一方では昨日と同じように今日も過ごしたいと思い、もう一方では昨日とは違う今日になって欲しいと思いながら過ごしている。トラブルを起すのは昨日とは違う今日へのきっかけであり、解決することは昨日とは違う今日の完成であり、関わりたくない気持ちは昨日と同じ今日を求めることだ。
結局のところ、トラブルを起し続けるだけでもダメだし、トラブルがなければ解決することも出来ない。ほうっておいても歳をとるのだから、同じことをずっと続けるのも不可能だ。大切なのは按配である。出来事を変えるきっかけを作り出すこと、きちんと出来事を変えること、出来事をしばらくの間安定させること。状況に合わせてこの3つのスイッチの切り替えが出来ることが個人においても、組織においても必要になる。
一個人が状況に合わせてスイッチを切り替えるのはかなり困難である。困難だからこそ、トラブルを起す人はしょっちゅうトラブルを起すし、解決する人の元にはトラブルが持ち込まれるし、関わりたくない人はいつもトラブルから距離をとっている。そんな人たちが集まって組織ができ上がっていたりする。
組織が求める人材というと、コミュニケーション力があって(人の話をきちんと聴き取ることが出来て、自分の意見を誤解なく相手に伝えられる)、論理的な思考が出来て、計画性があって、リーダーシップがあって……、というようなことがよく言われる。組織に属する人間がすべてこういう人物になることを求めているのだろうか。そんな組織は現実的には不可能だし、何だか気持ちが悪い。(でもそんな基準で個々人を評価していたりする)
按配である。同等の能力を有する人が集まっているのが良い集団ではない。でこぼこな人たちが具体的な課題を通り抜けることで自ずと役割分担が決まって行くような集まりが良い集団である。他の集団であればトラブルを起すような人間がチャンスを作り出す人間となり、トラブルを解決する人間は過去の負の遺産を処理するのではなく新たなものを完成させる人となり、トラブルを避けるだけの人間が安定した日常を維持できるような人間になれる、そんな集団が良い組織である。そしてすべての按配を見るのがトップの仕事である。(なんだ、今日は仕事絡みの文章を書いていたのか。書き終えて気づいたりする。何も考えずに書きはじめちゃったから)。
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