とんびの視点

まとはづれなことばかり

たこ揚げ

2010年05月10日 | 雑文
今月はランニングが好調だ。走行距離は10日現在で75km。月の目標が150kmなのでかなりのハイペースだ。考えて見れば今月に入って運動をしていない日は1日もない。ランニングか合気道かボクシングの練習のおつき合い。何かしら体を動かしている。とくに先月くらいから合気道の基本的な動作を家でも稽古するようにしたので、(ランニングのように)雨だからできないということがない(言い訳が出来ない)。

そのぶんものすごく疲労しているし、全身が筋肉痛だ。ちゃんと睡眠はとっているのだが、目覚めて最初の言葉が「疲れた」だったりする。それを聞いた次男に「起きたばかりで疲れたはないでしょう」と何度も注意される。確かにそうだ。朝から「疲れた」はないだろう。かりに疲れていても、子どもの前では「疲れた」という言葉は口にしない方がよいだろう。親の言葉遣いは子どもにうつるからだ。(子どもが意図的に真似するというよりも自然にうつるのだろう。だから子どもの言葉遣いはほぼすべて親の責任である)

そんな状態でも週末には続けて土手にランニングに行った。土曜日には1人で、日曜日には家族と一緒に。本当は日曜日には体を休めるつもりだったが、天気がよいので子たちを土手に連れていき、凧揚げをした。相方は次男を後に載せた自転車、長男は自分の自転車、僕だけがランニングだ。重い体でドタバタと走る。土手に着きしばらく荒川を上流に。暖かく風もゆるい。ジョギングやバイクの人たちも多いが、土手に遊びに来た家族連れが多い。

広場の所で3人と分かれて僕だけランニングを続ける。いつものように岩淵水門まで行き折り返し、3人が遊んでいる広場まで戻る。少し離れた所から凧が揚がっているのが見える。ああ、いい感じで遊べているのだな、走りながらそう思う。でも、凧は落ちてしまう。いささか風が弱いのだ。

上手く揚がらないんだ、と長男が言う。風が弱いからね、もう少し風が強くなったら揚げるといいよ、という。次男は糸を1メートルくらいにしてとにかく走る。走る勢いで風の抵抗が生まれ凧は落ちない。円を描くようにグルグルと走る。「あがってるよ、あがってるよ」と楽しそうだ。楽しそうだが、だんだんと顔が赤くなり、息もあがってくる。

長男はたこ揚げを一時中止して、地面にしゃがみ込んで何かをやっている。ラディッシュのようなものを見つけたらしい。僕を呼んで地面の隙間から見える、直径1センチくらいの赤い実を見せてくれる。ラディッシュの次はきれいな石を探している。長男は自然相手にいつまでも遊んでいられる。

少し風が吹いてきたので、僕が凧を揚げる。ゲイラカイトというビニール製の凧だ。僕が子どもの頃にも売っていた。当時、ほとんどの凧は紙製の和凧だったが、ゲイラカイトはビニール製のアメリカ凧だ。形も斬新な2等辺3角形。わが家にとっては決して安いものではなく、正月を待って特別に買ってもらった記憶がある。

そんな記憶があったのでネットで買ったのだが、手にしてみると思ったより小さくてチャチなものだった。今なら和紙で作った凧の方が絶対によいものだとわかる。でも当時はそうは見えなかったのだ。そして今の子どもたちにもそうは見えないのだろう。大きくてカラフルで立派な凧に見えているのだろう。

時おり吹く、強い風をつかまえて一気に凧を揚げる。糸を少し送り出しては風を受けとめる。そして凧の高度をあげる。高度が上がったらまた糸を送り出す。風と調子を合わせながらどんどんと凧を揚げる。凧がどんなふうに風を受けているのかを、指先に引っかけた糸を通して感じる。そして凧をコントロールする。

風が止む。一気に凧が落ちはじめる。急いで糸をたぐり寄せる。凧は揚げるテクニックよりも、思った所に落とすテクニックの方が大事だ。ただ落とすだけではない、一気にたぐり寄せた糸が絡まらないようにしなければならない。凧が落ちはじめるまでそんなことは忘れていた。でも、落ちはじめた瞬間にそうやっていた。案外、いろんなことを覚えているものだ。

しばらく待つが、風は吹かない。やっぱり風がないと凧は揚がらないね、また今度にしよう、と言う。「あがるよ」次男は30センチくらい糸を出して走り出す。「ほらね、あがった、あがった」。グルグルと走り回る。顔が赤くなり、息があがってくる。「おもしろいから、やってごらんよ」と僕に凧を手渡す。見ているのは面白いけど、やっても面白くなさそうだな、と思う。でも、次男に言わせれば、凧も持たずに土手をジョギングしている方がよっぽどつまらないかもしれない。

とりあえず、手に持ってちょっとだけ走ってみる。頭のすぐ後にはゲイラカイトの目玉がある。おもしろいでしょ、と次男が嬉しそうに言う。うん、悪くない。確かに、悪くない。ほとんど糸の出ていないゲイラカイトをもって1人で走ってもつまらないだろうが、君と一緒にこういう時間を持つことは何にも増してよいものだよ。僕に向ける君の笑顔を見ていると本当にそう思う。全身の疲労も筋肉痛もどこかに行ってしまいそうだった。

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