とんびの視点

まとはづれなことばかり

猫のこと

2012年03月26日 | 雑文
我が家には猫が2匹いる。17年前の初夏、荒川の土手で拾った。夜、ランニングに行くと、土手の茂みの中から仔猫の鳴き声がする。のぞき込んでみるととても可愛い仔猫がこっちを見て鳴いている。捨て猫だ。とてもじゃないが自力で生きていける大きさではない。仕方がないので拾って帰ることにした。(茂みの中で見つけたので、あとで「やぶ」と名付けた。)

「やぶ」を掌にのせて遊んでいると、離れたところから、また仔猫の声がする。見ると土の上を鳴きながらこっちに向かって歩いてくる。「やぶ」と同じ模様、明らかに兄弟だ。一回り体が小さく、貧相な顔をしている。可愛さはだいぶ劣る。だからと言っておいて帰るわけにも行かない。これも拾って帰る。(土の上で見つけたので、あとで「つち」と名付けた。)

そんな風にして、猫たちとの生活が始まった。結婚して2ヶ月くらいのころのことだ。夜、土手にランニングに行った夫が「お土産だよ」と仔猫を2匹持って帰っても動じない。たいした奥さんである。時おり小さな病気はしたが、ほとんど獣医にかかることもなく元気に過ごしていた。

ところが1ヶ月くらい前から、「つち」の調子がおかしくなってきた。まず動きが緩慢になった。階段をゆっくりと上り下りするようになった。時おり、階段を踏み外しそうになったり、エサを見失ったりしている。よく見ると、昼間なのに瞳孔が開いている。知りあいなどと話しをして、老齢化に伴う白内障だろうと思った。

ところが。ある朝起きると「つち」の右目が赤くなっている。赤いビー玉のようだ。さすがに変だと思い、相方が医者に連れ行った。高血圧による眼底出血だった。血圧が240という異常な数値だった。血液検査もした。老齢化によって心臓などの機能も落ちているが、何より腎臓がひどいことになっていた。ほとんど機能していない。(人間で言えば人工透析の数値だ)。長期的なケアが必要となった。

動物病院への通院だ。これは辛い。コストがバカにならない。我が家の少数精鋭なる福沢諭吉たちが、1人また1人と動物病院へ吸い込まれていく。福沢たちの献身のせいか、「つち」の血圧も普通の高血圧程度に下がった。見た目にも動きがよくなっている。これで一安心。そう思ったら、死ぬまで水分補給のための皮下点滴をやらねばならない、獣医さんは相方にそう告げた。

1週間に2回か3回病院に行き、1度に2000円くらいの点滴を死ぬまで打ちつづけるそうだ。やれやれ、である。これからどれだけの福沢が動物病院に旅立つのか。そのあたりを察してか、獣医さんが家で自分で点滴をすればコストを半減できると教えてくれた。

家で点滴といえば、当然、僕の出番である。この手のことはたいてい人並み以上にできる。なんと言っても器用貧乏である。そんなわけで昨日の日曜日、相方と一緒に「つち」を連れて病院に行き、点滴の打ち方を教えてもらった。

かつての入院経験から点滴は何度も受けているので、猫も静脈に点滴を打つのだと思っていた。そんな簡単に猫の静脈は見つかるのか?見つかったとしても細い血管にきちんと刺すのは至難の業じゃないか?だからこそ僕の出番なのかもしれない、などと妄想していた。

そうしたら、話しは簡単だった。猫の背中、肩甲骨の辺りのたるんだ皮を引っぱり上げて、1センチくらい刺せばよいのだ。大したことはない。リンゴの皮をつなげたまま剥くほうが大変なくらいだ。獣医さんの前でやって見せたら、問題なくOKが出た。

そんなわけで我が家にはいま、猫用の点滴セットがある。ほぼ1日おきに「つち」の背中に打つことになる。どのくらい続くのかわからない。その間、何人の福沢が我が家から動物病院に旅立つのかわからない。人間の生活にも影響が出るだろう。でも、まあ、いいじゃないか、そんなものだ、と思う。

土手でたまたま出会った。そのまま見捨てることもできた。(当時、公団ではペットは飼ってはいけないことになっていた)。でも拾った。そして17年。少なくとも僕の人生の一部は猫によってかたち作られた。そして振り返ってみればそれはよい思い出だ。この先「つち」の背中に点滴を打ちつづけることで、僕の人生の一部に「猫の背中に点滴を打つ」という新たなページが加わる。せっかくだから長いページになってほしい。
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