とんびの視点

まとはづれなことばかり

2014.1.29水 東京新聞より 1原発やめると言えぬ 2靖国参拝米の自制要求首相拒否 3領土教育

2014年01月29日 | 雑文
2014.1.29水 東京新聞より

まだ咳と鼻水が少しばかり残っている。風邪を引いてからすでに一週間以上。症状は重くないがけっこうしつこい。明日は合気道の稽古。明日休むと2週間稽古をしていないことになる。何とか風邪を治さねば。

さて、今日も記事を3つ。

1、「原発やめると言えぬ」衆院代表質問 首相、重ねて意欲
2、靖国参拝 米の自制要求 首相拒否 副大統領と先月電話「自分で判断」
3、領土教育 政権「圧力」 指導要領解説書に「尖閣・竹島」 安倍色反映「時代遅れ」

まず、1の記事。これは安倍首相が衆院の代表質問で「化石燃料への依存度が第一次石油ショック当時より高くなっている現実を考えると、そう簡単に『原発をもうやめる』と言うわけにはいかない」といった、という内容だ。しつこいようだが、これに関しては何度も書かねばならない。

自民党が政権復帰した12年衆院選の総合政策集では「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立を目指す」としていた。その後の社会や経済状況に想定外の変化があったわけでもないのに、わずか1年ちょっとで言葉が大きく変わっている。これはよくない。言葉を信頼できなくなってしまう。言葉が信頼できないと社会が劣化する。人々は何を頼りに共通了解を取ればよいのか分からなくなるからだ。

もちろん、言葉を使わなくても理解しあえる。苦しい現場をともに寡黙に乗り越えたときなどだ。残念ながら、私たち市井の民は首相と苦しい現場でともに額に汗することはない。だからこそ、言葉が信頼できなくなると危険なのだ。民は思い思いの行動を始めてしまう。そんなことになれば、治安維持のための措置がとられる。さらに民は……。そういうことが起こる社会がよいはずはない。

2の記事。なるほどそんなことがあったのか。もう少し詳しく記事を引く。「米国のバイデン副大統領が昨年12月12日に安倍晋三首相と電話会談した際、靖国神社参拝問題を取り上げて『行くべきではない』と繰り返し自制を求めていたことが分かった。首相は『自分で判断する』と拒否した。複数の日米関係筋が28日明らかにした」とある。

アメリカが強い調子で「失望した」と言うわけだ。日本の保守の外交方針が「親米」である。そのアメリカをして「失望した」と言わしめるのであるから、安倍首相が「とりもどそう」と言っている日本は、親米ではない時の日本と言うことになる。すなわち敗戦以前の日本である。そう考えると「戦後レジームのからの脱却」というのは、戦前の日本を取り戻そうということになる。アメリカは絶対にこれを認めることはできないだろう。

あるいは、靖国参拝で「失望」させても、親米路線を突き進めると考えているのか。だとすれば、このマイナスポイントを上回る何かをアメリカに献上しなければならなくなる。まさか安倍氏個人のポケットマネーというわけにも行かないだろう。日本の何かを献上することになる。いやな話だ。

最後に3の記事。記事の冒頭を引く。「文部科学省は28日、教員による指導の指針となる、中学と高校の「学習指導要領解説書」を改定し、竹島と尖閣諸島を日本の「固有の領土」と明記、全国の教育委員会に通知した。……」とある。

これにより中学や高校の地理や歴史の教科書の記述が変わるのだろう。そして教員たちも、それに沿った内容を生徒に教えることになるのだろう。僕自身は、竹島と尖閣諸島が日韓、日中間で領土問題となっていることは知っているが、それぞれの歴史的な経緯や双方の主張に関しては、断片的な情報をもっているに過ぎない。

ただ、気になるのは今回の改定で解説書に、尖閣諸島を「我が国の固有の領土」と明記した上で、「解決すべき領有権の問題は存在しないことを理解されることが必要」とあることだ。つまり、尖閣諸島に対しては、領有権問題が存在しない、と子供たちに教えようとしているのだ。その一方で、下村博文文科相は「グルーバル人材を育成する中で、固有の領土を子供たちに教えることは、国家として当然」と強調したそうだ。平たく言えば、「尖閣諸島とは日本の領土である」としか知らない日本人を教育を通して育てよう。そういうことだ。

これは問題だ。尖閣諸島は地理の問題であるが、歴史問題である。歴史というのはデリケートなものだ。出来事は一つだが、記述する立場によってまったく異なった内容を描くことができる。マクドナルドでのハンバーガーの売買と同じだ。ハンバーガーの売買は一つの出来事だが、売り手と買い手はまったく違った説明をするだろう。

日中戦争を一つの出来事として考えても、日本と中国では違ったものを見る。ましてや日中戦争中の一つ一つの出来事を、それぞれが好きに取り出すことができる。両国が描く歴史が異なるのは当たり前である。当然、それぞれの国民の歴史認識は異なる。だから大切なのは、歴史というものは同じ出来事でも書く国によって違ったものになる、という前提を認めることだ。唯一の正しい歴史認識が存在するという前提に立ち、自分と異なる認識を誤りだと言っても仕方がない。

「歴史を知る」のは何のためであろう。グルーバル人材が歴史を知ることが、なぜ必要なのか。おそらく世界で活躍できるためだろう。想像してみよう。日本と中国の間に尖閣諸島をめぐっての領有権問題が存在している、と認識しているグローバル人材と、尖閣諸島に領有権問題が存在していることを知らないグローバル人材では、どちらが世界で活躍できるだろうか。主義主張の内容ではない。政治が教育に手を突っ込むこと事態が危険性なことなのだ。





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