先日、長男が「おふじさん」に行ってきた。地元の冨士神社で毎年、富士山の山開きにあわせて開かれる縁日のようなものである。東京北区のホームページには「地元では〈おふじさん〉の名で親しまれています。江戸時代に富士山に行けなかった庶民立ちが冨士塚を築き、富士山に見立てて参詣していました。毎年山開きの日に祭礼が行なわれ、脇の道路沿いには、露店が立ち並び、多くの人で賑わいます。十条冨士塚は北区有形民族文化財に指定されています」とある。
もちろん長男は冨士塚を参詣するために神社に行ったのではない。「おふじさん」が何であるかも知らずに、浮かれ気分で友だちと露店が並ぶ縁日へ遊びに行ったのだ。
夜、仕事から帰ると、長男が不満そうにしている。尋ねてみると、「カメ掬い(金魚すくいのカメバージョン)」に失敗したとのこと。それも5回も連続で。ふむふむ、1回いくらしたのだね、と尋ねると「200円」との答え。一瞬にして1000円を散財したわけである。
1000円も無駄にすれば不満になるのも当然かと思っていたら、そうではなかった。翌日、もう一度トライしたいと母親に訴えたところ却下されたことが不満であったらしい。長男曰く、コツがわかった、次は上手くいくから、翌日にトライしたいとのことだった。どうしてコツが分かったのかとたずねると、露店のお兄さんが「こうやるといいよ」と目の前でやって見せてくれたそうだ。さんざんお金を使わせたあとに手本を見せるとは、長男は明らかにカモにされている。本人はもちろん気づかずに喜んでいる。
子どもが寝てから、相方と子どもの小遣いについて話しをした。今回の長男のお金の使い方に違和感を覚えたからだ。1回200円の「カメ掬い」を5回も連続でやることにショックを受けた。僕なら2回が限度だ。そして2回失敗したら、400円も無駄にしたことに罪悪感を持ったことだろう。どうやら長男にはそれが全くないらしい。何故だろう?
まず根本的な失敗は、上限を確認しないで長男を「おふじさん」に行かせたことだ。カメ掬いと別の「クジ」もやったので、1度に1200円くらい使ったことになる。ほぼ1ヶ月分の小遣いである。使ったお金は週ごとの小遣いを貯めたものなので、長男は特に間違ったことをした訳ではない。問題は「カメ掬い」であっという間に1000円がなくなっても平気でいられるメンタリティーである。
何というのか、お金に対するリアリティーが感じられない。しかしよくよく考えてみると思い当たる節がある。長男の小学校では子ども同士で遊ぶときに小遣いを持ち歩くことを禁止している。つまり日常的にお金を使い慣れていない。1日の小遣いが50円であれば、日々の遊びの中でその50円の使い方を工夫しなければならない。お店にはたくさんの駄菓子やおもちゃがある。50円で買えるものは限られている。当然、買い物も慎重になるし、50円の大切さも身にしみてわかってくる。そういう経験を長男はしていない。
それにも関わらず、僕が子どもの時よりも長男は多くのおもちゃとお菓子を所有している。(お菓子に関しては、お菓子袋などというものがあり、その中には常に何種類かのお菓子がストックされている)。本人が欲しいと言って買ってもらったものもあれば、何かの拍子に誰かがくれたものもある。そこには値段の感覚がない。
日々の少ない小遣いをやりくりし金銭感覚を養うことも、自分が手に入れるものについての値段の感覚もない。だからカメ掬いを5回も続けてやることや、1000円無駄にしてしまったことにまったくショックを受けないのだろう。子どもが小遣いを持って遊ぶことで生じるトラブルを未然に防ぎたい気持ちは理解できる。しかしこのまま6年生まで小遣いを持たずに遊んでいると、等身大の金銭感覚が身に付かないのではないかと心配になる。
お金よりも大切なものがある、僕が子どもの頃には、少なくとも大人たちは建前としてはそう言っていた。現在では何でもお金に結びつけて物事を価値づけようとする。新聞などでスポーツ選手について語る際も、賞金であり、年俸である。技術やパフォーマンスについて語るよりも、より多くの人が関心を持つからだろう。だから子どもにはなるべくお金の話はしないようにしていた。でもその結果、カメ掬い5回連続である。
何でもお金というフィルターを通して物事を価値づけるメンタリティーを身に付けさせたくないが、等身大の金銭感覚は身に付けさせねばならない。そんなことを子どもが眠ったあと相方と話し合った。そんな話しをしたあげく、ふと思いついたことがあった。翌朝、長男に確認したら大当たり。
「君は、カメ掬いがやりたいのかい。それともカメが飼いたいのかい?」と尋ねる。
「カメが飼いたい」長男が答える。
「1000円あればカメはきっと買えると思うよ」やはりそうかと思う。
「カメ掬いの他にカメが売っているの!?」長男驚きの表情。
抜けているのは金銭感覚だけではなかった。金銭感覚を身に付けさせること、カメがお店でも売っているということを教えること。そういうことが親の仕事である。
もちろん長男は冨士塚を参詣するために神社に行ったのではない。「おふじさん」が何であるかも知らずに、浮かれ気分で友だちと露店が並ぶ縁日へ遊びに行ったのだ。
夜、仕事から帰ると、長男が不満そうにしている。尋ねてみると、「カメ掬い(金魚すくいのカメバージョン)」に失敗したとのこと。それも5回も連続で。ふむふむ、1回いくらしたのだね、と尋ねると「200円」との答え。一瞬にして1000円を散財したわけである。
1000円も無駄にすれば不満になるのも当然かと思っていたら、そうではなかった。翌日、もう一度トライしたいと母親に訴えたところ却下されたことが不満であったらしい。長男曰く、コツがわかった、次は上手くいくから、翌日にトライしたいとのことだった。どうしてコツが分かったのかとたずねると、露店のお兄さんが「こうやるといいよ」と目の前でやって見せてくれたそうだ。さんざんお金を使わせたあとに手本を見せるとは、長男は明らかにカモにされている。本人はもちろん気づかずに喜んでいる。
子どもが寝てから、相方と子どもの小遣いについて話しをした。今回の長男のお金の使い方に違和感を覚えたからだ。1回200円の「カメ掬い」を5回も連続でやることにショックを受けた。僕なら2回が限度だ。そして2回失敗したら、400円も無駄にしたことに罪悪感を持ったことだろう。どうやら長男にはそれが全くないらしい。何故だろう?
まず根本的な失敗は、上限を確認しないで長男を「おふじさん」に行かせたことだ。カメ掬いと別の「クジ」もやったので、1度に1200円くらい使ったことになる。ほぼ1ヶ月分の小遣いである。使ったお金は週ごとの小遣いを貯めたものなので、長男は特に間違ったことをした訳ではない。問題は「カメ掬い」であっという間に1000円がなくなっても平気でいられるメンタリティーである。
何というのか、お金に対するリアリティーが感じられない。しかしよくよく考えてみると思い当たる節がある。長男の小学校では子ども同士で遊ぶときに小遣いを持ち歩くことを禁止している。つまり日常的にお金を使い慣れていない。1日の小遣いが50円であれば、日々の遊びの中でその50円の使い方を工夫しなければならない。お店にはたくさんの駄菓子やおもちゃがある。50円で買えるものは限られている。当然、買い物も慎重になるし、50円の大切さも身にしみてわかってくる。そういう経験を長男はしていない。
それにも関わらず、僕が子どもの時よりも長男は多くのおもちゃとお菓子を所有している。(お菓子に関しては、お菓子袋などというものがあり、その中には常に何種類かのお菓子がストックされている)。本人が欲しいと言って買ってもらったものもあれば、何かの拍子に誰かがくれたものもある。そこには値段の感覚がない。
日々の少ない小遣いをやりくりし金銭感覚を養うことも、自分が手に入れるものについての値段の感覚もない。だからカメ掬いを5回も続けてやることや、1000円無駄にしてしまったことにまったくショックを受けないのだろう。子どもが小遣いを持って遊ぶことで生じるトラブルを未然に防ぎたい気持ちは理解できる。しかしこのまま6年生まで小遣いを持たずに遊んでいると、等身大の金銭感覚が身に付かないのではないかと心配になる。
お金よりも大切なものがある、僕が子どもの頃には、少なくとも大人たちは建前としてはそう言っていた。現在では何でもお金に結びつけて物事を価値づけようとする。新聞などでスポーツ選手について語る際も、賞金であり、年俸である。技術やパフォーマンスについて語るよりも、より多くの人が関心を持つからだろう。だから子どもにはなるべくお金の話はしないようにしていた。でもその結果、カメ掬い5回連続である。
何でもお金というフィルターを通して物事を価値づけるメンタリティーを身に付けさせたくないが、等身大の金銭感覚は身に付けさせねばならない。そんなことを子どもが眠ったあと相方と話し合った。そんな話しをしたあげく、ふと思いついたことがあった。翌朝、長男に確認したら大当たり。
「君は、カメ掬いがやりたいのかい。それともカメが飼いたいのかい?」と尋ねる。
「カメが飼いたい」長男が答える。
「1000円あればカメはきっと買えると思うよ」やはりそうかと思う。
「カメ掬いの他にカメが売っているの!?」長男驚きの表情。
抜けているのは金銭感覚だけではなかった。金銭感覚を身に付けさせること、カメがお店でも売っているということを教えること。そういうことが親の仕事である。
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