とんびの視点

まとはづれなことばかり

1.26㈰の東京新聞⑴工場契約社員逮捕⑵NKH新会長問題発言⑶子宮頸癌ワクチン問題

2014年01月27日 | 雑文
2014.1.26㈰の東京新聞から三つ記事をあげる。
⑴工場契約社員逮捕 冷凍食品農薬混入の疑い 群馬県警(一面トップ)
⑵秘密保護法しょうがない・慰安婦どこにもあった NKH新会長問題発言(一面)
⑶子宮頸癌ワクチン問題(こちら特報部)

⑴の記事で考えたこと。一面トップには新聞社が最も重要だと思うものが来るはずだ。確かに冷凍食品の農薬混入はインパクトが大きい事件だった。しかし重要度とはインパクトの大きさだけではない。一見地味でも、その問題を通して社会や時代の問題が見えてくるようなものも重要だ。

この手の事件では、二つのことをうまく切り分ける必要がある。一つは、事件の個別性をしっかり追いかけ、一人の人間がある犯罪を犯すに至った、その道筋を言語化することである。言い方を換えれば「どうして、こういう出来事が起きたのか」を捕まえることである。

「どうして」という言葉はデリケートに扱わねばならない。「どうして」という言葉には「どのように」と「なぜ」という二つの意味が含まれるからだ。「なぜ」という問いに求められるのは、容疑者(犯人ではない)の「意図」である。容疑者が明確な目的を持って計画的に何かを行った。そういう話は理解しやすいし、私たちはそういうものを求めがちである。そんなことを考える人間は(自分とは違う)悪い人間であり、そんなヤツには刑罰を与えれば良い、となるからだ。しかし、往々にしてこの手の犯罪における「意図」は、逮捕後の取り調べで事後的に「言語化」されるものである。(事件前に手記や犯罪計画書が作られていれば別だが)。全体としてつじつまが合うような言語化されたような意図などなかったのではないかと思う。(そのことが犯罪に対する処分を軽くする理由になるとは思わない)。

もう一方で「どのように」ということを考えることが必要だ。ある一人の人間がどのような道をたどって、このような犯罪を起こすことになったのか。それを丁寧にたどるのだ。おそらくであるが、可能性や多様な選択肢をもって生まれたはずの一人の人間が、時間とともに可能性や選択肢が狭められ、最後には追いつめられるように、ある行動に行き着く姿が見えてくるだろう。本人にとっては選びようのない一本道しか見えなかったのだろう。しかしあくまで、本人にとっては、だ。傍から見れば、その途中にいくつもの選択肢が見えたはずである。

つまり、傍から見ればいくらでも選択肢があるにも係わらず、歩んでいる本人は一本道だと思い、悲惨な方向へと突き進む。そんな姿が見えてきそうな気がする。この出来事を、個人の犯罪ではなく社会の問題とするならば、選択肢が見えなくなっている個人に、ほかの可能性を示すような豊かな人間関係が、いまの私たちの社会に存在しているか、という問いになる。

⑵の記事。やれやれ、である。こういう考え方の人がいることは知っている。そして安倍ちゃんと仲の良い人らしい考えであることも分かる。しかし、NHKの会長がこういう発言をすることの意味が分かってるいのだろうか。国内、国外またいろんな反応が来るだろう。この人も「誤解がある。正していく」とか言うのだろうか。

⑶の記事。やはり東京新聞は「こちら特報部」が面白い。ときどき外した企画もあるし、中には粗っぽい記事もあるのだが、ちょっと立ち止まって考えるのに良い記事が多い。子宮頸癌ワクチンを接種した女子中高生に副作用らしい原因不明の体調不良が出ている、ということは知られているだろう。副作用の症状としては、全身各部位の痛み、倦怠感や記憶障害、計算障害など多岐にわたる。年単位で学校にも通えない人もいるようだ。

副作用らしい原因不明の体調不良、と書いたのは、ワクチンによる副作用だという因果関係が証明されていないからだ。もちろん時系列的に事象を並べれば、ワクチンを接種した。その結果、体調がおかしくなった。ということははっきりしている。医者に行っても「精神的なものだろう」とか「ワクチンは関係ないから、忘れなさい」と言われた人もいる。

もちろん個々の医師の多くは、きちんと症状に向き合って対処しているのだろう。(とは言え、副作用と認められないと、医療費とか、症状による学校通学への影響は自己の責任になってしまうだろう)。しかし問題は、副作用問題以後に、医師ら十五人の委員で作る専門部会のメンバーのうち、九名が製薬会社から資金提供を受けていることだ。そして専門部会は「接種時の痛みや不安感が症状として現れたものだ。ワクチンが神経の異常や中毒、免疫反応を引き起こしている可能性は低い」との見解で一致している。

断片的な知識しかないが、水俣病やカネミ油症事件、原発事故後の福島県立医大の健康調査などと、今回の問題も構造的に似ているようだ。冒頭、一面トップではインパクトの強いものが扱われやすいと書いた。日々の出来事を追いかける新聞となると、どうしても出来事の個別性の強さを求めてしまう。しかし、出来事の表面は違うが、同じことが繰り返されているという観点からインパクトを強めることもできるはずだ。そしてそのような「繰り返し」の認識は、出来事の記憶につながり、考えに時間的な広がりを持たせることになる。

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