今さらのようだが、今回の安保法案に反対する理由を簡単に書く。理由は3つ。
1、言葉が機能しない社会になる。2、立憲主義を壊す。3、集団的自衛権はいらない。
1、言葉が機能しない社会になる
言葉は「いま、ここ」にない物事を扱うとができる。日本とは離れた場所で起こっていることを、あたかも目の前で起こっているかのように話すこともできる。過去の出来事を再現することもできるし、未来の出来事を本物のように描くこともできる。それらは実際に自分の目で確認できない。だからこそ、現実と言葉を意図的にずらすことも可能になる。すなわち「嘘をつく」ことができる。
「嘘をつく」とどうなるか。言葉と現実のギャップを埋めようと物事がざわつきだす。それにより言葉と現実のギャップがさらに広がる。ギャップを埋めようと小手先の嘘をつくとさらに物事が暴れ、ギャップはより広がる。そして、言葉は現実に対して無力になる。「いま、ここ」以外のことを話しても誰も信じなくなる。その結果、私たちは「いま、ここ」の目の前に見えるものしか扱えなくなる。そのような社会では、他の場所にいる人たちのこと、過去に生きていた人たちのこと、未来の世代の人たちのことをきちんと考えられない。それはもはやまともな社会ではない。
いま行われている国会の論戦を見てみよ。言葉がまったくかみ合っていない。「問い」という言葉をきちんと受け止めようとしない。自分が言いたい言葉だけを「答え」と称して何度も繰り返す。意味不明なへ理屈を述べる。言っていることがころころ変わる。人と人をつなぐための言葉が人と人を分断する。そして自分のやりたいことを無理やり押し通す。
そんなやり方で物事を決めていくことを、子どもたちに手本として示せるだろうか。そんなやり方で物事が決まっていく社会を次の世代に残すわけにはいかない。だから今回の安保法案を私たちは見過ごすことはできない。そういうものを通してはいけないのだ。「ヤツらを通すな」「ノー・パッサラン」。ギャップを埋めるべく人々は声をあげている。
2、立憲主義を壊す
僕がいまさら言うまでもないことだが、今回の法案は立憲主義を破壊するものだ。憲法学者のほぼすべてが今回の法案に反対していることからもそれは明らかだ。そもそも安倍政権は憲法改正を掲げていた。それが不可能だとわかると憲法改正を規定した憲法96条だけをいじろうとした。それにも失敗した。
すると今度は解釈改憲に打って出た。内閣法制局はこれまでずっと現行憲法下では集団的自衛権は違憲だとしていた。その長官を集団的自衛権を行使容認の長官に交代させた。そして集団的自衛権を違憲ではないと言わせた。安倍首相は内閣法制局が違憲としないことを理由に、閣議決定で解釈改憲を強行した。去年の7月のことだ。
これは明らかに行政が立法権を奪う行為だ。内田樹氏によれば、行政権が立法権を奪った状態を「独裁」と言うそうだ。また憲法学者の石川健治氏によれば、この閣議決定は法学的にはクーデターだそうだ。おまけに安倍首相は、国会で審議する前にアメリカで法案の成立を約束した。
そして今国会において、10本もの改正法案を一括法案とし、新法の国際平和支援法案とセットで「安保法案」として提出。衆議院で強行採決を行った。審議の中身は惨憺たるものである。その無茶苦茶な国会審議をメディアはあまり報道しない。歴史的な転換点になる法案が、その中身も問題点も明らかにならず、十分な国民的な議論もないまま、密室で決めるかのように進んでいく。
立憲主義が音を立てずに壊れていく。崩れた音は時を経て、銃声や爆発音、怒号や悲鳴、泣き叫ぶ声として私たちの耳に届くだろう。こんなやり方で国の形を変えてはいけない。この国に生きるすべての人に関係がある。わかった顔してスルーしてはいけない。「屁理屈言うな」、「憲法守れ」。人々は声をあげている。
3、集団的自衛権はいらない
安全保障や外交に関して云々するにはそれなりの知識が必要だろう。僕が読んだ本はせいぜい20冊。おまけに読んでもすぐに忘れる。その意味では知識は穴だらけだ。しかし今回の集団的自衛権がトンチンカンなものであることはわかる。
例えば、今回の法案の内容はアーミテージ・ナイリポートの内容と一致している。アーミテージやナイはいわゆるジャパンハンドラーだ。ハンドラーとは、馬や犬の調教師のことだ。バカにされたものである。すでにアメリカは今後の何年かで大幅な軍事予算の削減を決めているし、来年度予算は日本で安保法案が通ることを前提として組まれている。この法案は日本の安全保障のためというより、アメリカの世界戦略を金銭的にも人的にもサポートするためである。
法案が通れば、いずれ自衛隊員が戦地に派遣され殺され、殺すことに巻き込まれるだろう。
そうなれば日本国内でもテロが起きるかもしれない。それは日本の安全には繋がらない。何より、アメリカの戦争に巻き込まれて日本人の死者が出ることで、日本人のアメリカに対する印象が悪くなる。反米感情が高まるだろう。長期的に考えれば、それは日本にもアメリカにもブラスにはならない。
中国が攻めてきたらどうするのだ。大丈夫、中国が攻めてきたら個別的自衛権で対処できる。日米安保があるので、あえて集団的自衛権を法案として担保する必要はない。尖閣諸島の問題は海上保安庁のマターだ。相手が軍隊を出していないのに、こちらが自衛隊を出し攻撃でもしようものなら、日本が侵略行為をしたことになる。
そもそも自衛隊は軍隊ではない。軍法会議もないので、かりに戦地で民間人を殺してしまった場合、裁判を受けなければならないことになる。ジュネーブ条約も適用されないので、捕虜としての扱いも受けない。そんな重荷を個々の自衛隊員に負わせようというのか。あるいは、そういう事態が起これば、それこそ軍隊を作れると期待しているのか。
政府の高官や軍需産業やアメリカとつながる人間にはメリットがあるのかもしれない。しかし多くの市井の日本人にはメリットはない。中国の危険を説き人々の不安感を煽る。その不安感を払拭するためには集団的自衛権が必要だと思わせる。マッチポンプだ。長期的には中国との関係に悪影響を及ぼすだろう。
自衛隊員が外国で殺されたり、殺したりする。海外にいる日本人も危険にさらされる。国内でテロが起こる可能性が確実に高くなる。反米感情が高まる(かもしれない)。隣国との関係も悪くなる(かもしれない)。防衛費のためにより多くの税金が使われる。立憲主義も民主主義も平和主義もぼろぼろになる。言葉が機能しない社会になる。賛成などできない。
そもそも安全保障とは、敵を減らし味方を増やすことで自国の安全を確保することだ。その上で、必要な国防を考えるのが筋だ。たしかにそれは日本にとって必要なことだ。だがこの状況であわてて集団的自衛権を法制化する必要はない。集団的自衛権を行使したいのであれば、国民的な議論を深めて、きちんと憲法改正をするべきだ。その手続きを経ないのであれば、日本には立憲主義も民主主義もないことになる。そんな国を次の世代に残すわけにはいかない。「集団的自衛権はいらない」「安倍はやめろ」。人々は声をあげている。
30日は国会前で。
1、言葉が機能しない社会になる。2、立憲主義を壊す。3、集団的自衛権はいらない。
1、言葉が機能しない社会になる
言葉は「いま、ここ」にない物事を扱うとができる。日本とは離れた場所で起こっていることを、あたかも目の前で起こっているかのように話すこともできる。過去の出来事を再現することもできるし、未来の出来事を本物のように描くこともできる。それらは実際に自分の目で確認できない。だからこそ、現実と言葉を意図的にずらすことも可能になる。すなわち「嘘をつく」ことができる。
「嘘をつく」とどうなるか。言葉と現実のギャップを埋めようと物事がざわつきだす。それにより言葉と現実のギャップがさらに広がる。ギャップを埋めようと小手先の嘘をつくとさらに物事が暴れ、ギャップはより広がる。そして、言葉は現実に対して無力になる。「いま、ここ」以外のことを話しても誰も信じなくなる。その結果、私たちは「いま、ここ」の目の前に見えるものしか扱えなくなる。そのような社会では、他の場所にいる人たちのこと、過去に生きていた人たちのこと、未来の世代の人たちのことをきちんと考えられない。それはもはやまともな社会ではない。
いま行われている国会の論戦を見てみよ。言葉がまったくかみ合っていない。「問い」という言葉をきちんと受け止めようとしない。自分が言いたい言葉だけを「答え」と称して何度も繰り返す。意味不明なへ理屈を述べる。言っていることがころころ変わる。人と人をつなぐための言葉が人と人を分断する。そして自分のやりたいことを無理やり押し通す。
そんなやり方で物事を決めていくことを、子どもたちに手本として示せるだろうか。そんなやり方で物事が決まっていく社会を次の世代に残すわけにはいかない。だから今回の安保法案を私たちは見過ごすことはできない。そういうものを通してはいけないのだ。「ヤツらを通すな」「ノー・パッサラン」。ギャップを埋めるべく人々は声をあげている。
2、立憲主義を壊す
僕がいまさら言うまでもないことだが、今回の法案は立憲主義を破壊するものだ。憲法学者のほぼすべてが今回の法案に反対していることからもそれは明らかだ。そもそも安倍政権は憲法改正を掲げていた。それが不可能だとわかると憲法改正を規定した憲法96条だけをいじろうとした。それにも失敗した。
すると今度は解釈改憲に打って出た。内閣法制局はこれまでずっと現行憲法下では集団的自衛権は違憲だとしていた。その長官を集団的自衛権を行使容認の長官に交代させた。そして集団的自衛権を違憲ではないと言わせた。安倍首相は内閣法制局が違憲としないことを理由に、閣議決定で解釈改憲を強行した。去年の7月のことだ。
これは明らかに行政が立法権を奪う行為だ。内田樹氏によれば、行政権が立法権を奪った状態を「独裁」と言うそうだ。また憲法学者の石川健治氏によれば、この閣議決定は法学的にはクーデターだそうだ。おまけに安倍首相は、国会で審議する前にアメリカで法案の成立を約束した。
そして今国会において、10本もの改正法案を一括法案とし、新法の国際平和支援法案とセットで「安保法案」として提出。衆議院で強行採決を行った。審議の中身は惨憺たるものである。その無茶苦茶な国会審議をメディアはあまり報道しない。歴史的な転換点になる法案が、その中身も問題点も明らかにならず、十分な国民的な議論もないまま、密室で決めるかのように進んでいく。
立憲主義が音を立てずに壊れていく。崩れた音は時を経て、銃声や爆発音、怒号や悲鳴、泣き叫ぶ声として私たちの耳に届くだろう。こんなやり方で国の形を変えてはいけない。この国に生きるすべての人に関係がある。わかった顔してスルーしてはいけない。「屁理屈言うな」、「憲法守れ」。人々は声をあげている。
3、集団的自衛権はいらない
安全保障や外交に関して云々するにはそれなりの知識が必要だろう。僕が読んだ本はせいぜい20冊。おまけに読んでもすぐに忘れる。その意味では知識は穴だらけだ。しかし今回の集団的自衛権がトンチンカンなものであることはわかる。
例えば、今回の法案の内容はアーミテージ・ナイリポートの内容と一致している。アーミテージやナイはいわゆるジャパンハンドラーだ。ハンドラーとは、馬や犬の調教師のことだ。バカにされたものである。すでにアメリカは今後の何年かで大幅な軍事予算の削減を決めているし、来年度予算は日本で安保法案が通ることを前提として組まれている。この法案は日本の安全保障のためというより、アメリカの世界戦略を金銭的にも人的にもサポートするためである。
法案が通れば、いずれ自衛隊員が戦地に派遣され殺され、殺すことに巻き込まれるだろう。
そうなれば日本国内でもテロが起きるかもしれない。それは日本の安全には繋がらない。何より、アメリカの戦争に巻き込まれて日本人の死者が出ることで、日本人のアメリカに対する印象が悪くなる。反米感情が高まるだろう。長期的に考えれば、それは日本にもアメリカにもブラスにはならない。
中国が攻めてきたらどうするのだ。大丈夫、中国が攻めてきたら個別的自衛権で対処できる。日米安保があるので、あえて集団的自衛権を法案として担保する必要はない。尖閣諸島の問題は海上保安庁のマターだ。相手が軍隊を出していないのに、こちらが自衛隊を出し攻撃でもしようものなら、日本が侵略行為をしたことになる。
そもそも自衛隊は軍隊ではない。軍法会議もないので、かりに戦地で民間人を殺してしまった場合、裁判を受けなければならないことになる。ジュネーブ条約も適用されないので、捕虜としての扱いも受けない。そんな重荷を個々の自衛隊員に負わせようというのか。あるいは、そういう事態が起これば、それこそ軍隊を作れると期待しているのか。
政府の高官や軍需産業やアメリカとつながる人間にはメリットがあるのかもしれない。しかし多くの市井の日本人にはメリットはない。中国の危険を説き人々の不安感を煽る。その不安感を払拭するためには集団的自衛権が必要だと思わせる。マッチポンプだ。長期的には中国との関係に悪影響を及ぼすだろう。
自衛隊員が外国で殺されたり、殺したりする。海外にいる日本人も危険にさらされる。国内でテロが起こる可能性が確実に高くなる。反米感情が高まる(かもしれない)。隣国との関係も悪くなる(かもしれない)。防衛費のためにより多くの税金が使われる。立憲主義も民主主義も平和主義もぼろぼろになる。言葉が機能しない社会になる。賛成などできない。
そもそも安全保障とは、敵を減らし味方を増やすことで自国の安全を確保することだ。その上で、必要な国防を考えるのが筋だ。たしかにそれは日本にとって必要なことだ。だがこの状況であわてて集団的自衛権を法制化する必要はない。集団的自衛権を行使したいのであれば、国民的な議論を深めて、きちんと憲法改正をするべきだ。その手続きを経ないのであれば、日本には立憲主義も民主主義もないことになる。そんな国を次の世代に残すわけにはいかない。「集団的自衛権はいらない」「安倍はやめろ」。人々は声をあげている。
30日は国会前で。
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