スミダマンのほのぼの奮戦記

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徳川慶喜の足跡と渋沢栄一

2021-10-26 06:17:55 | 旅 ~東京

今日のブログが渋沢栄一の足跡を追った旅の最後になります。(とりあえず)

この旅で渋沢栄一を追っていくと

最後の将軍・徳川慶喜との関係、絆は想像を超えるものと改めて感じた。

その最たるものを今回ご紹介いたしましょう。

徳川慶喜終焉の地が、ここ文京区小日向の地(昔は第六天町といった)

だということを最近TVで知り訪ねてみた。

現在は国際仏教大学院大学の敷地になっている。

ご覧のように南東側の正門の所に「徳川慶喜公屋敷跡」の標柱がある。

敷地右手の坂を150mくらい上がった北門の所には「徳川慶喜終焉の地」の

説明板が立っているそうだが、残念ながら知らなかったので行かなかった。

そこには今でも屋敷大銀杏があるそうだ。

慶喜は大正2年(1913年)急性肺炎のため、この地で没した。

享年76歳。

ここには12年間住んだという。

因みにここに移る前は中仙道に面した巣鴨に住んでいた。

しかしここに豊島線目白-田端間(現在のJR山手線)が敷設されたため、

騒音を嫌って引越されたという。

ここには約4年間居住した。

この鉄道建設には渋沢栄一が深く係わっていたとは歴史の皮肉といえる。

これは小日向周辺の案内地図。

この前の巻石通りの所には江戸で最初に造られた神田上水が通っていた。

ここ高源山随自意院本性寺は東本願寺の末寺で

真宗大谷派に属し夏目漱石(金之助)の菩提時である。

夏目家は代々江戸の名主をつとめた。

明治14年に母、20年に長兄、次兄が本寺に葬られ、漱石もしばしば小日向を訪れた。

ここは徳川慶喜とその一族、一橋家のお墓がある谷中霊園。

そしてここには慶喜に最後まで心の中で仕え続けた

渋沢栄一とその家族のお墓もある。

この一枚は谷中霊園の桜通り。

ここを右に入ると渋沢栄一の墓地、左に入ると徳川慶喜の墓地がある。

こちらが德川慶喜公のご家族の墓所。

左側の墓所は公家出身の妻・美賀君。

そして一族の方々の墓。

大河ドラマ「青天を衝け」の影響であろうか、次から次へと墓参りに来られる人がいた。

従一位 勲一等 公爵 德川慶喜公の墓。

慶喜公の遺言により、葬儀は仏式ではなく神式で執り行われた。

これは明治天皇に対する感謝の表れと言われている。

この慶喜公の墓地に辿り着く前に、俗に言う「墓マイラー」

(有名人の墓を尋ね歩く人のこと)らしい2人の年配男性に

いかにも古い大きなお墓の前(この写真実はここは一橋家のお墓)で質問を受けた。

「ここは宇和島藩の藩主・伊達宗城のお墓でしょうか?」

スミダマンも墓マイラーの端くれだが、わからなかったので

「どうなんでしょうか?」と曖昧な返事をして別れた。

そうしたらしばらくして、もう1人の男性を連れてまた慶喜公の墓の前で会ってしまった。

実はこの男性がすごい方で(おそらく谷中墓地のガイドさんか?)

ここから知らない話、ビックリな話を約30分以上聞くことができた。

それは「この説明板のほとんどの事は皆知っている。

重要なのは真ん中あたりに書かれている4行ほどの内容です。」と言う。

それは「明治31年(1898年)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。

明治35年(1902年)には公爵を受爵。

徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され・・・」

この事が慶喜公の墓所がここにあることの理由ですと。

それでは何かの縁ですからご説明しましょうと言って鞄からこの写真集を取り出した。

本来将軍家は、ここ上野の寛永寺か芝の増上寺に埋葬されます。

しかし最後の将軍、言い方を変えれば徳川250年の歴史を大政奉還という形で

幕を閉じた慶喜には窺い知れない深い深い思いがあった。

それをせめて慶喜の子孫だけでも知ってもらいたいという

遺言みたいな気持ちでこの地を選んだ。

その背景には徳川宗家の16代を継いだ徳川家達から徳川慶喜宛の書簡が昨年発見された。

その書簡には慶喜に静岡から東京に3つの条件付で戻ってくるようにとの趣旨であった。

その最大の理由は宗家の財政的負担問題。

慶喜は家達との同居を除き2つの条件はのんで東京に来た。

慶喜と家達とは明治に入って一種の権力闘争が続いていた。

ここで渋沢栄一が時の桂太郎内閣に働きかけて従一位勲一等公爵の地位を獲得した。

このことは大きな意味があって宗家・家達よりワンランク上の立場になった。

明治天皇に謁見する時は慶喜は家達の1歩前に立つことができるということだ。

そして大正2年薨去した折、渋沢栄一が葬儀委員長になり、

寛永寺側と激しい交渉をした。

葬儀は寛永寺横に空いていた土地(今の上野中学の所)に急遽神社を造り、

そこで神式で葬儀を執り行ったという。

これは渋沢が寛永寺の総代を務めていた為、成せた技という。

上の写真はその時の神式の葬儀風景。

大正2年(1913年)11月30日、自宅の小日向邸を13時に出棺して

竹早町、伝通院前、本郷三丁目、元富士前、岩崎邸、

上野広小路、上野公園内を通って寛永寺内斎場に歩いて到着。

埋棺終了は22時ごろになったという。

慶喜は波乱万丈の人生を最終的に天皇家に捧げたと言ってよい。

これによって日本の内戦大混乱は避けられた。

もう一枚は慶喜がもっとも幸せだった時期、

明治35年(1902年)公爵受爵の年の一族との写真だ。

やはり谷中墓地にある(乙11号1側)渋沢家の墓所。

ここには栄一の孫・敬三ご夫婦の墓もある。

敬三は第16代日本銀行総裁、弊原内閣での大蔵大臣も務めた。

他に文化放送会長、KDD社長・会長、日本モンキーセンター会長も歴任。

昭和38年(1963年)67歳で没。

そして江戸時代末期に農民から武士に取り立てられ、

明治・大正・昭和期にかけて活躍した日本の実業家で、近代日本資本主義の指導者。

正二位 勲一等 子爵 渋沢栄一翁のお墓。

雅号は青淵。

天保11年(1840年)2月13日、日本武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)生まれ、

昭和6年(1931年)11月11日、満91歳没。

お墓は栄一の人生を変えた徳川慶喜の墓所に向かって立っている。

まさに青天を衝いた人生であった。

 


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