スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

永青文庫と肥後細川庭園

2022-06-28 05:56:19 | 旅 ~東京

この地は中世室町幕府の管領家の一門であり

肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。

細川家がここに入ったのは幕末で当時は3,000坪であったが、その後少しずつ拡張し、

肥後細川庭園・永青文庫を含む神田上水から目白通りにおよぶ

約3万8,000坪の広大な敷地であった。

この永青文庫は南北朝時代から現代に至る歴代細川家、約700年の間に蒐集された

細川家の歴史資料や文化財、及び21代護立氏が蒐集した

近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年に設立された。

昭和48年に登録博物館になり、一般に展示公開されている。

行った日は「戦後最強の家老~細川家を支えた重臣松井家とその至宝~」

などの貴重な作品が次々展示されていた。

今後の企画展のご案内。

7月30日~9月25日 こどもと楽しむ永青文庫。

10月8日~12月11日 永青文庫コレクション、輝きの名品。

2023年1月14日~5月7日 揃い踏み細川の名刀たち-永青文庫の国宝登場。

館内資料は撮影禁止。

2階で展示していた書状(?)をたまたま撮ってしまった。

小高い山の上の永青文庫からこの石輪のトンネルをくぐっていくと

広大な広さの肥後細川庭園に入っていく。

さらになだらかな坂道を下っていくとよく整理された庭園にたどり着く。

これまでの当園の名称「新江戸川公園」を

平成29年3月18日より「肥後細川庭園」に変更した。

新名称は肥後熊本藩細川家の庭園として成り立ちを尊重し、

応募総数1,257通の中から選定されている。

前述もしたがこの地は江戸時代中期以来、旗本の邸地となった。

江戸末期には徳川三郷のひとつ・清水家の下屋敷となり、

のちに一橋家の下屋敷に転じ、

幕末に肥後熊本54万石の藩主・細川越中守の下屋敷、挹屋敷となった。

第二次大戦後、数度にわたって所有者が変わり、

その後、昭和36年(1961年)9月に都立公園として開園した。

後に昭和50年(1975年)4月、文京区に移管され現在に至っている。

この庭園の特色は地形の変化を巧みに利用して

台地を山として立体的眺望を持っていること。

池泉回遊式庭園で歩道の一部は踏み分け道のようになっている。

やり水形式(平安貴族の寝殿造りの細流)で、大地の湧き水を池に入れている。

当庭園には門外不出の肥後六花といって江戸時代から品種改良を重ねてきた

熊本独特の色「肥後六花」のうち、肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、

肥後山茶花は庭園で見ることができる。

この美しい花は、その1つの肥後芍薬だ。

肥後花菖蒲も一部見られる。

この庭園には他にも色々な仕掛けが施されている。

この「ししおどし」もその1つ。

ししおどしの由来は、昔イノシシやシカなどを追い払うために用いた仕掛けで、

しばらくすると竹筒の水が満杯になって傾き、戻る際に石を叩く音がする。

こちらは「水琴窟」。

柄杓で水門に水を流し、竹筒に耳を当てて音色を楽しむ。

松聲園から庭園を見た景色は目の前に広がる池、

左手の斜面地の林、灯籠の様子など明治期から変わらぬ風情を留めている。

ここ肥後熊本細川候下御殿の面影を残す池泉回遊式庭園は

季節毎に表情を変える美しい庭園である。

この建物は松聲閣と呼ばれ、旧熊本藩細川家下屋敷のあったこの地で、

細川家の学問所として使用されていたようだ。

大正時代に改修を行い、一時期は細川家の住まいとして使用されていた。

現在の建物は歴史性を活かして保存・修復を行うとともに耐震性を確保し、

平成28年にリニューアルオープンした。

1階休憩室(喫茶)椿の間でしばし呈茶のサービスを受ける。

抹茶アイスに古今伝授の間香梅加勢以多の干菓子をいただく。

ここでは都会の真ん中とは思えない、のんびりした時間が流れている。

松聲閣玄関のところには非常に興味あるユニークなアンケート票が展示されていた。

第1問は「どちらからお越しですか?」

1番は文京区、新宿区、豊島区を除く東京都23区、

2番、3番は、やはり地元の新宿区、豊島区、文京区かな?

5番目はどうやら埼玉県のようだ。

細川家の地元・熊本県が3名、北海道はゼロだった。

第2問は「Where are you from?」

コロナ禍の下で韓国が4名、中国が3名、アメリカが2名、オーストラリアが1名で少ない。

これはアンケートとしては価値ある内容だと思う。

今回は永青文庫の裏口から入ってきたが、神田川に沿った方のこちらが正門だ。

玄関までの車寄せも広々としていて余裕がある。

さすが大名のお屋敷跡は大したものだ。

しっかりリニューアル整備された日本壁の塀の日本瓦の上に、あやめの花が咲いている。

なんと風情のある光景なのだろう。

改めてこちらが肥後細川庭園の周辺案内。

秋になるとこの辺は、もみじの紅葉が美しいようだ。

案内図の随所に紅葉の絵が描かれている。

その一方、桜の絵は講談社野間記念館の1本のみ。

実際は何ともわからないが?

また、目白台・関口にはゆかりの人々の建物がある。

この野間記念館は野間清治が収集した美術品や貴重な出版文化資料を広く公開している。

野間清治は群馬県桐生市の出身で講談社の創設者。

明治後期から昭和前後の出版界をリードし、雑誌王と呼ばれていた。

この和敬塾は前川製作者創業者である前川喜作(1895-1896)によって創立された学生寮で、

国内外から集まった学生たちが生活をしていた。

蕉雨園は明治30年に当時宮内大臣であった

田中光顕伯(高知県出身の軍人・政治家)により建設された。

蕉雨園は椿山荘に隣接して約6,000坪の敷地を持ち、

湧き水の溢れる大地と回遊式庭園に囲まれた貴重な建物だ。

目白通りから前述した蕉雨園(元・田中光顕伯邸)と永青文庫(旧・細川下屋敷跡)の間を

神田川の駒塚橋に下る急な坂が「胸突坂」別名「水神坂」といわれている。

 

 

 

 


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