スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

パーソナリティ 大野勢太郎

2018-07-24 09:07:04 | レポ

今年の当社安全大会の記念講演はFMナックファイブ等の

ラジオパーソナリティーとして活躍している大野勢太郎氏に

来ていただいた。氏は昭和22年4月生まれの東京都出身。

早稲田大学政治経済学部卒業後、文化放送アナウンサーとして

放送キャリアをスタート。昭和63年文化放送を退職し、

代表を務める「サンズトラスト」、現在レディオパワープロジェクトを創立。

NACK5を中心に、古巣の文化放送にも多く出演している。

現在はNACK5で土曜日、8:00~「大野勢太郎の楽園ラジオ~

パワー全開!!」のパーソナリティを務めている。

又彩の国さいたま魅力づくり推進協議会委員、

さいたま市サッカーのまちづくり推進協議会委員としても活躍している。

この日の講演テーマは会場の雰囲気、特に年配者と目が合って

大野勢太郎氏の放送人人生の中で古い時代の

話をすることに決めたと言っていた。(本当は人生後半のサッカー

浦和レッズの話を聞きたかったのだが。)

氏の夢は深夜放送をやりたかった。しかし文化放送には

先輩のみのもんた氏が居た。元来、スポーツは全く興味が無かったが、

スポーツアナが足りないのでやらないかと言われて

その道に入った。スポーツは一年中何かがある。

そして休みが無い。スポーツ現場で何か楽しいことがないか。

2月に入るとプロ野球のキャンプが始まる。

長嶋茂雄と直接話せたり、荒川コーチから王貞治の一本足打法の

決めた方などが聞け、その雰囲気の中に居るのが楽しかった。

ヤクルトスワローズのキャンプはヤクルトが飲み放題だった。

入社5年過ぎてデスクから中継アナをやらないかと言われ

どんなスポーツかと聞いたら競馬だった。親からは競馬、競輪には

手を出すなと言われてきたが、仕事とあきらめた。

この世界はすごいブラック、このままではへたなアナウンサーで

終わってしまうと思っていたら、運が良く、明け4歳の

ハイセーコーと出会った。弥生賞から菊花賞まで大野でいくと決まり

目標ができハイセーコーとともに過ごした。

次に文化放送で考えられない新しい編成プロジェクトが生まれた。

それは絶対的なNHKに対抗した大相撲放送だった。

実は相撲は好きだった。相撲界はとても閉鎖的な所で

いわゆる囲みはベテラン記者の独占。そこでどうしようか考え、

その当時まだ脚光を浴び出す前の北の湖につき、

顔を覚えてもらうまで繰り返し通った。北の湖はまだ20歳の小結。

優しく受けれてくれた。そんな時ヤクルトファンの北の湖から

ヤクルトの若松選手と会いたいと言われたのでセットをした。

その日北の湖は現なま100万を持参して銀座クラブに行った。

手取り27~28万のサラリーマンアナウンサーから見れば

一晩で使え切れない金額で銀座のクラブへ。

そこで3万円レミーマルタンのボトルをオーダー。

その午前4時まで叙々苑で付き人と焼肉をもうたくさんと言うほど食べた。

そこで大野氏一生悔まれるスクープを取ってしまった。

悪魔のささやき、功名心で日刊スポーツの向こうを張って

テープを流してしまった。これで一切取材お断り。

とうとう北の湖理事長が死ぬまでディレクターのせいになってしまった。

もし北の湖親方が生きていれば日馬富士の事件は

違う展開になっていたかもしれない。

一流の人は人の倍練習努力している。

次は長嶋茂雄のエピソード。

一時の長嶋は極度のスランプに成った。

それを見ていたニッポン放送の深澤弘氏が

好調の時よりバットのグリップがちょっと下がっているとアドバイス。

その日は快音が鳴った。

すると長嶋は深澤を呼んで試合後、田園調布の自宅に来るように要請。

深夜の0時から午前1時まで庭のケージでバッティング練習。

「わかった」と一言。「深チャンボールは片づけておいて」と

言って寝室に行ってしまった。

それ以降長嶋と深澤は永遠のつながりとなった。


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