四神相応(青龍、朱雀、白虎、玄武の)1つ
玄武(北の神)の船岡山の中にある建勲神社の入口、大鳥居。
この鳥居は府内最大の白木鳥居で笠木も大きく反り、神域の荘厳な結界を構成している。
この鳥居から右手に末社の義照稲荷社及び命婦元官があり、
左手の石段を3分程登ると別格官弊社 建勲神社に出る。
階段正面が大平和敬神の大きな大神石。
昭和45年11月10日、建立奉納された。
さらに石段を登っていくと前述した義照稲荷社と伏見のお稲荷さんの元官であり、
又秦代の守護神として今日の西陣織の祖神となっている稲荷命婦之宮がある。
これが山城国船岡山建勲神社の境内図。
船岡山は玄武の小山として平安京造営の北の基点となったとされる小髙い丘で
緑豊かな建勲神社の境内からは比叡山や大文字山(如意ヶ獄)など東山三十六峰の眺望が楽しめる。
当社は正式には「たけいさおじんじゃ」というが
地元では「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」として親しまれている。
この船岡山は標髙112メートル(比髙45メートル)と優美な小山で古くは聖徳太子の文献にも、その名が出てくる。
京都が都に定められ、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路があった。
桶狭間の合戦出陣に際し、織田信長公が舞われた「敦盛」の一節を刻んだ有名な歌碑。
当神社は明治2年(1869)、明治天皇の御下命により織田信長公をお祀りする神社として創建された。
明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ、明治13年(1880)新たに社殿を造営し、
明治43年(1910)に山麓から山上へ社殿を移建し、現在に至っている。
本殿(簡明な意匠になる近代本殿の好例)拝殿、社務所、貴賓館などは平成20年、国の登録有形文化財に指定された。
ところで信長公の偉業は戦国時代に終止符を打ち、日本統一の道筋をつけ、民衆を疲弊絶望から救い、
消滅しかけていた伝統文化に躍動の美を与え、遠くヨーロッパ文明に着目し、日本を取り巻く世界情勢を的確に把握し、
富国強兵に努め日本の歴史を中世の混乱から近代の黎明へと導いた。
しかし惜しいことに信長公の偉業は天正10年(1582)6月2日未明の本能寺の変により中道にして倒れた。
秀吉は信長の霊を慰める為船岡山に寺を建立し、信長像を安置しようとしたが、中途に終わり、
その後船岡山は信長公の聖地として大切に保持された。
そして年月は流れ、明治2年(1869)明治天皇により、
信長公の御偉勲に対して神社創立の宣下があった。
拝殿の前には他神社ではあまりお目にかからない祓串(はらいぐし)が
納められており、心を落ちつけて祓串にて左右左とお祓いの上、
参拝して下さいと書かれてあった。
拝殿の内側には織田信長公三十六功臣のうち
十二功臣(羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家など)の額が掛けられていた。