スミダマンのほのぼの奮戦記

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城下町萩を歩く ~その1~

2017-02-20 07:08:13 | 旅 ~国内

国指定史跡の萩城城下町は大きく旧上級武家地と

旧町人地に分かれる。周辺は今も江戸時代の地図がそのまま

使える程町筋がそのまま残っている。江戸屋横町、伊勢屋横町、

菊屋横町と呼ばれる小路があり、この狭い地域に近代日本を

創り上げた先達の生活の場が点在しているのを足で歩いて

直に見ると血が騒ぐ不思議な気持ちに成った。

「伝えたい物語がここにある。」今年3月4日に萩明倫学舎

(本館、2号館)がオープンする。全国屈指の規模を誇った萩藩校明倫館。

その跡地に日本最大級の木造校舎が建ち萩の新たな観光起点に成ろうとしている。

萩明倫学舎隣りの中央公園の一角に、萩が生んだ偉人の一人

山縣有朋の騎馬像がある。この銅像を造ったのは北村西望。

昭和5年に完成し最初は東京霞ヶ関の陸軍大臣官邸に置かれていたが、

上野公園、井の頭彫刻園と場所を替え、平成4年にこの地に移設された。

山縣有朋は1838年(天保9年)に中間(ちゅうげん)の身分である家に生まれた。

低い身分故に藩校明倫館の入学資格はなかった。

そこで学びたい者は誰でも入れた松下村塾で学び、

その後討幕運動、明治維新で活躍し明治、大正時代の軍人として

国軍の父と称され、又政治家として2度内閣総理大臣に就任した。

1922年(大正11年)に小田原の別邸、古稀庵で83歳で没した。

国葬後、護国寺に埋葬された。

同じ中央公園の一番奥に建つ久坂玄端の進撃像。

久坂は1840年(天保11年)長州藩の萩で藩医の家に生まれた。

長州藩における尊王攘夷派の中心人物で、身長は180㎝、

恰幅がよく、声が大きく美声であったという。松下村塾では

高杉晋作と「村塾の双璧」「松門四天王」と言われ

松陰曰く長州第一の俊才であると言わしめた。

1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)にて

鷹司邸内で刺し違え自害した。享年25歳。

玄端が生き長らえていたら明治維新は又別の世界に

成っていたのではと言われる程の逸材であった。

江戸屋横町にある円政寺。高杉晋作と伊藤博文が幼少時代

この寺内でよく遊んでいたと言われている。平成28年

ケネディ駐日大使夫妻も拝観している。寺には長州藩毛利家の家紋

「一文字三星」が掛けられている。一という文字は無敵、

三星はオリオン座の真ん中に位置する「三武」

別名「三将軍」を表現している。

日本屈指の蘭学者、青木周弼の旧宅。青木周弼は、周防大島町の

医家に生まれ、藩主毛利敬親の侍医や医学館の館長を務めた。

日本屈指の医師として全国的にも知られ、多くの弟子を育てた。

村田蔵六(のちの大村益次郎)の親代わりとなり世話もした。

又、実弟、研蔵も長崎で最新の医学を学び、明治2年に

明治天皇の大典医に任命された。

この家は安政6年(1859年)に建てられたものと考えられる。

青木旧宅から木戸孝允誕生地に向かう。

幕末の街並みに現代人がタイムカプセルに乗って

迷い込んだような錯覚におちいる。

維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(桂小五郎)の旧宅。

孫の木戸幸一(最後の内大臣、待従長)より大正15年に寄贈され、

昭和7年に国の史跡に指定された。木戸孝允は天保4年(1833年)に

萩藩医和田昌景の長男として、この地に生まれた。

8歳で桂家の養子になり、17歳の時に明倫館で松田松陰に学んだ。

30歳頃から藩の要職につく一方、京都におもむいて国事に奔走、

慶応2年(1866年)、坂本竜馬の仲介により、薩摩の西郷隆盛らと

薩長同盟を結んだ。明治新政府では特に五箇条の御誓文の

草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くした。

明治10年(1877年)5月26日西南戦争のさなか、45歳で京都で病死した。

木戸は身長174㎝と体も大きく、美男子であったという。

又々、カリスマバスガイドさん。彼女は岩国市在住で

ガイドの節々に山口弁が出て、旅に来ているなーという思いにさせてくれる。

人間の魅力とは顔とか、姿形ではなく内なる心だと感じさせてくれる。

国指定重要文化財の菊屋家建造物。慶長11年に出来上がり

完成祝いに毛利輝元公を招待した。

現存する町屋では全国でも最古に属する建物だ。

呉服商・酒蔵業を営んでいた旧久保田家住宅。

菊屋家の向かい側にあり、幕末から明治前期にかけての建物として、

意匠・構造・技術に優れ、酒蔵業で繁栄した往時の状況も良く伝えている。

幕末頃藩主のかごかき田中家の三男として文久3年

(1863年)、田中義一はここで生まれた。田中義一(1863年-1929年)は

萩の乱に参加、のちに陸軍大学に進学し大正7年陸軍大臣就任

昭和2年内閣総理大臣となった。

萩の街には随所に夏みかんが植えられている。武家屋敷の土塀や

生垣の中にたわわに実る夏みかんの姿は史都萩の魅力の一つだ。

夏みかんは現在も萩のシンボルとして全国に知られている。

この武家屋敷街を歩いていると点々とこの様な洒落たカフェ、

みやげ店がある。シーズンになると観光客が喉の渇きを潤す為に

おみやげを買う為に立ち寄るのだろう。この日は朝、

ここを散策した為、店はまだクローズされていた。

一連の路地通りは「日本の道100選」に選らばれている。

ここが高杉晋作の誕生地。高杉晋作は萩藩士高杉小忠太の

長男として天保10年(1839年)に生まれた。安政4年(1857年)

久坂玄端のすすめにより松下村塾に入門し、吉田松陰の生きた教えを

受けた。騎兵隊の創設、四国連合艦隊との講和談判、

下関挙兵などを行い、明治維新のため力を尽くしたが、

維新の実現を見ることなく、慶応3年(1867年)28歳の若さで病死した。

 

辞世の歌 「おもしろきこともなき世をおもしろく」