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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

京都の街あれこれPART14

2023-03-15 06:10:59 | 旅 ~京都

城南宮から見た京セラ(株)の本社ビル。

世界に冠たる京セラの本社は京都市伏見区にあるが他にも京都市内には著名な大会社の本社が沢山ある。

任天堂(株)、(株)ワコール、(株)島津製作所、オムロン(株)、(株)堀場製作所、

日本電産(株)、村田製作所(長岡京市)などである。

あの狭いエリアにこのビックカンパニーの数の多さ、なぜだろう?

すごいですネー。

藤森神社で見かけた自販機

さずが勝運の神社。

必勝祈願の白馬が走っている。

京都中華の名店のひとつ祇園の路地に入って突き当りにあった「盛京亭」さんが

なぜか閉店してしまったとのこと。

名物のかやくご飯を一度食べてみたかった。

(2022-4-14番外編384参照)

創業300年近くの京菓子店そして葛切りで有名な「鍵善良房」さん。

古色蒼然として店に入ると左右には鍵善の歴史を見てきた重厚な家具がデンと置かれている。

(2021-5-13付パート5参照)

この鍵善さんの隣りのビル、井澤ビル5階に入居していた

創作フレンチ「祇園呂色(ろいろ)」(2021-8-6付参照)も閉店したようだ。

このコロナ禍で京都の飲食店もさぞ大変な時を過ごしたのだろうとこの看板を見て思った。

黄昏時の祇園花見小路はこの写真を見てもだいぶ人が戻ってきたのがわかる。

弁柄色の壁で有名な祇園のシンボル「一力茶屋」には縁あって

今年6月に宴席を持つ予定でその時詳細にアップするつもりです。

乞うご期待を!

時間調整もありゆっくりと花見小路を散策するとかなりの変化にビックリ。

外観は祇園の和の雰囲気は残しつつもお茶屋(お店)の中はまったく今風でお洒落。

チョコの「LADUREE」さん、デニッシュパンの「グランマーブル」さん、

洋菓子の「ぎをんさかい」に変身している。

これも時代の流れか!

今年いよいよ耐震工事が完了して祇園甲部歌舞練場が完成柿落し公演として

第149回都をどりが4月1日(日)から1ヶ月間実施される。

昨年南座にて華やかな都をどりは見ることができた(2022-5-25付参照)が

TVでもドキュメンタリーで放送されていた歌舞練場は是非一度見学してみたいものだ。

「よ-いや、サァー」

こちらは京都五花街合同公演の「早春夢舞台」のポスター。

2月26日(日)南座で行われた。

ちなみに五花街とは祇園甲部、宮川町、先斗町、祇園東、

そして後日詳しくアップ予定の上七軒の花街を総称して呼んでいる。

その工事で最後の追い込み中の歌舞練場と弥栄会館を全面改修して建設中の帝国ホテルの現場。

2枚目写真の生コン車奥に見える唐破風の屋根の建物が祇園甲部歌舞練場だ。

ここ数年、京都に来ると新幹線の窓越しに気になっていた大工事現場がある。

これは京都市立美術大学(京都芸大)と京都市立美術工芸高校(現銅駝美工)新築工事の現場風景。

設計は(株)内藤建築事務所、施工は(株)竹中工務店だ。

他でも見たが京都では「京都市建築物環境配慮性能表示」が実施されている。

このプロジェクトにはスミダマンの知人も一時参加していて、

このエリアの地権者が京都の長い歴史を背負っていて一筋縄ではいかないと言っていた。

その配慮からか、通常の現場ではほとんど見ない

「暴力団等排除宣言 不当要求断固拒否」の看板が仮囲いに貼られていた。

この現場の前面道路に丁寧な内容の交通標識を発見。

この道は下り坂と上り坂(9%の傾斜度)になっていて追突が多く発生しているのだろう。

慶長19年(1614年)角倉了以によって開かれた京都の中心部と伏見港を結ぶ運河「高瀬川」の記念碑。

1200年の歴史の塊、京都には街を歩くとこのような記念碑が至るところにあって本当に楽しい。

まちなか再発見「下京ぶらり見て歩き」

新日吉神宮(東山区)の祭礼に合わせて崇仁地区から

曳き出される祭屋台の「崇仁船鉾」がビルの一角に納められていた。

明治28年2月1日、日本最初の電気鉄道はこの地(京都駅近く)が発祥の地。

 

 


隨心院門跡

2023-03-09 06:09:20 | 旅 ~京都

紅梅香る小野小町ゆかりの山科区にある古寺、隨心院は六歌仙の1人、小野小町の邸宅跡と伝えられている門跡寺院です。

ここは当院の庫裡。

この古寺に入ったのは閉門間近い16時とあって参拝している人はほとんどなく

ひっそりと静まり返って観光という空気が全く無くなっていた。

この地に語り伝えられる最も有名なものは深草少将、百夜通(ももがよい)の話。

小野小町は夢にしか逢えない人を思い、多くの夢の歌を残し、後世六歌仙の第一人者と評され

小倉百人一首の有名な句

「花の色はうつけにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」

と哀愁に富み、情熱的な歌は華やかな成艶時代を思い、人生のはかなさを歌ったのはあまりにも有名だ。

尚、百夜通の話は後程に。

映画・TVの撮影によく使用される薬院門。

ところで当門跡の由来についてであります。

当山は真言宗善通寺派の大本山にして、弘法大師御入定後、121年、

弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、

一条天皇の正暦2年(991年)奉請して、この地を賜り一寺を建立された。

古くは、牛皮山曼荼羅寺と称していた。

その後、第5世増俊阿闍梨の時に曼荼羅寺の子房として隨心院を建立し、

ついで第7世親厳大僧正が寛喜元年(1229年)後堀川天皇より門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称している。

堂舎も次第に整備され七堂伽藍は壮美を誇っていたが、承久応仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまった。

その後慶長4年(1599年)に本堂が再建され、以後九条二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由緒をもって寄進再建された。

歴史を感じさせる部屋が続く中、ひときは派手で大きな襖絵のある大部屋に出た。

なんと艶やかな絵なんでしょう。

よくよく見るとこの「極彩色梅匂小町絵図」は最近ある民間企業が奉納したようだ。

以前どこだか忘れてしまったが歴史的な建物の中で突然現代音楽を鑑賞できる装置が現れた。

サウンドトリップと称してここでしか体験できない「物語のある音楽」をつくるプロジェクトで

小野小町をテーマとして音楽が流されていた。

重要文化財の本堂は門跡宣旨800年記念事業として改修工事が令和5年5月末日まで行われており

見ることはできなかった。

能の間から見えたまだ新しい建物の小町堂。

小野小町らしき女性画が見えた。

寺院の一室では隨心院の説明、特に小野小町についてのDVDが流されており、

ほとんど観光客のいない中でゆったりと拝見することができ、

知らぬ間に昔の世界にタイムスリップしてしまった。

ところで前述した深草少将百夜の話をしましょう。

小町を慕って小野の里に、雨の夜も雪の夜も通いつづけた深草少将だが、99日目の夜、

降る雪と発病により最後の一夜を前に世を去った深草少将。

この時小町は榧の実にて数を取り後に小野の里に播いたと言われている。

小野小町は平安朝初期、仁明天皇が東宮にあられた時より崩御されるまでお側に仕え、

70才を越えて亡くなったと伝えられている。

拝観入口の所にあった隨心院紀行と称した写真展示。

そして当院の絵馬の像は小野小町となっていた。

 

当院のもう一つの有名なのは隣りにある遅そ咲きで知られている小野梅園。

3月の最終日曜日には「はねず踊り」と称してはねず色(薄紅色の梅の色)の小袖の少女たちが

紅梅を花笠にして舞う。

丁度この梅園には花見の前の最後の手入れで年配の庭師が梅の枝の手入れをしていた。

その光景はまるで映画のワンシーンを見るような素敵な一コマであった。

この梅園の奥に「化粧の井戸」と呼ばれる小野小町の屋敷跡に残る井戸があった。

小町が朝夕この水で化粧をこらしたと「都名所図絵」に記されている。


藤森神社

2023-03-08 06:07:38 | 旅 ~京都

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は平安期以前、

神功皇后が軍旗を樹て兵具を納め塚を造り神祭りしたのが始まりと伝わる。

(創立203年神功摂政3年)

場所は伏見区深草にある。

http://www.fujinomorijinjya.or.jp/

桓武天皇も平安京遷都に際し、弓兵政所とした。

5月5日の藤森祭は朝からみこし3基が氏子(区域)内を巡行し、武者行列を練る。

端午の節句に武者人形を飾る風習はこの行事に由来する。

今日では勝運と馬の神様として競馬関係者(馬主、騎手等)や競馬ファンの参拝者でにぎわっているそうだ。

南門の鳥居から本殿までは長い参道になっていてあまり人の手が入っていない感じで

自然がそのまま生かされているようなとても神社らしい神社だった。

当神社は紫陽花で有名だがさらに藤棚のトンネルを作り令和8年には誕生させるようだ。

この運動は藤森神社の藤に由来しているのかもしれない(?)

参道の途中には参集殿という宝物殿があった。

入場無料ということで入ってみた。

重文の紫絲威大鎧(むらさきいとおどしおおよろい)や様々な武具と馬のミニチュア博物館も併設されていた。

また太刀「鶴丸」の写し刀や太刀「一期一振」の写し太刀も見どころの1つ。

絵馬舎と神馬像。

いかにも当社が馬の神様を祈り勝運の神社といわれるのにふさわしい建物と像だ。

こちらの拝殿は割拝殿といって平安末期頃に現れた拝殿形式で横長の平面の中央を

土間(馬道・めのどう)をとって通路にしたのもで他にはあまり見ないものだ。

本殿は正徳2年(1712年)中御門天皇より賜ったのもで、宮中内待所(賢所)であった。

現存の賢所としては最も古く、その原型をよくとどめていて重要文化財だ。

本殿と拝殿の間にある巨木のクスノキは伏見区民の誇りの木だそうだ。

たぶん御神木にちがいない。

境内内にある藤森稲荷社。

藤森稲荷社の隣りにはかわいらしい藤森七福神の石像が。

なんとも愛くるしく並んでいた。

この御神水「不二の水」は2つとないおいしい水という意味で

武運長久、学問向上、特に勝運を授ける水として信仰されている。

(水六訓)

1、水は尊し

2、水は美し

3、水は清し

4、水は強し

5、水は恐し

6、水は深し

5月5日に斎行される藤森祭は菖蒲節句発祥の祭として知られる

節句に飾る武者人形には藤森の神が宿ると云われており、

その特徴として建立されたのがこの神鎧像だ。

この御旗塚は神功皇后が「いくさ旗」を立てた場所。

当社発祥の地。

側方のいちいの木(切り株)は「いちいのきさん」と呼ばれ、参拝すると腰痛が治るとされ、

幕末に近藤勇が参拝したと伝わっている。

今流行っている御朱印めぐり。

ここは京都刀剣ゆかりの四社めぐりとして粟田神社、建勲神社、豊国神社と当藤森神社となっている。

スミダマンは御朱印帳にはほとんど関心が無いが、

これでこの四社すべてをめぐったことになり、ちょっとした感慨に浸ってしまった。

 


城南宮

2023-03-07 06:11:17 | 旅 ~京都

ここ城南宮は京都の南側、伏見区にある神社で四神相応の地とされる平安京に都が遷った時、

国の安泰と都の守護を願って創建された。

以前から気になっていた神社で今回梅の名所ということでようやく来ることができた。

これが社殿神苑の案内図。

城南宮は引越・工事・家相の心配を除く「方除(ほうよけ)」としても仰がれている。

東の鳥居を入るとこの社務所に出る。

参道を進んでいくと次々に摂社が続く。

真幡寸大神、応神天皇をご祭神とする「真幡寸(まはたきじんじゃ)」、

菅原道真公をご祭神とする「芹川神社(唐渡天満宮)」、

天照大御神をご祭神とする「三照神社」そして絵馬舎だ。

途中、神苑 源氏物語花の庭にあるしだれ梅と椿まつりの看板が。

京都でも有数の梅、特にしだれ梅の名所は現在どんな状態か?

この時点ではとても気になった。

実はここ城南宮では2つの歴史的出来事が起きている。

その1つがこの看板に書かれている明治維新を告げる鳥羽伏見の戦いがこの参道から始まった。

もう1つは昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれていた後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の

北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた承久の乱はここで流鏑馬揃えとして兵を集結させた。

この城南鳥居には孝明天皇から正月・5月・9月の年3回の祈祷に与るなど皇室の尊崇を受け、

菊の御紋と御神紋の三光の紋が輝いている。

境内の神輿舎、神楽殿、拝殿そして本殿と本殿内。

平安時代後期に城南宮を囲むように離宮が築かれ院政の拠点となると、

秋の城南祭が盛大に行われるようになった。

また方位の災いが無いよう願って行う方遠の宿所に離宮の御殿が選ばれることが多く、

熊野詣に出かける際は離宮に7日ほど滞在し身を清め、旅の無事を祈って出かけた。

境内に入るとより具体的な花の開花情報が出ていた。

残念ながら名物しだれ梅は咲き始めであった。

椿は早咲きが見頃。

どうりで境内が空いていること。

満開の頃は周辺道路は大渋滞になるとか。

しだれ梅、椿、三つ葉ツツジが次々に咲く「春の山」エリア。

白河上皇は城南離宮を築く際、源氏物語に描かれた光源氏の大邸宅「六条院」を真似て

春の山や秋の山を築き、四季の景色に優れた離宮を作ったと言われている。

150本のしだれ梅が咲き誇っている時は思わず立ち止まって息を吞むような圧巻の景色だそうだ。

残念!チョット早すぎた。

それでも、一生懸命これから咲こうとしているしだれ梅の美しさをどうぞ!

これが満開のしだれ梅と苔の上に切なく散っている落ち椿の写真を拝借してアップしてみました。

城南宮のもう1つの名所が椿の花。

約60種の椿の花が広い苑内に植えられている。

特にこの時期は苔の上に散り落ちた落ち椿と一斉に咲く華やかなしだれ梅のコントラストが

人生の陰と陽を物語っているようで椿に物悲しい寂しさを感じる。

ゆっくり苑内を散策していたら後ろの方から何やらにぎやかな一団が迫ってきた。

どうやらTVの中継チームのようで1人お笑い系の女性タレントか?

奇声を発していたのでビックリした。

春の山を過ぎると平安の庭になる。

平安貴族の邸宅に作られた庭を写した「平安の庭」。

寝殿造りを採り入れた神楽殿の南に木々が影を映す池が続く。

このエリアでは毎年王朝の雅を偲ばせる「曲水の宴」が行われる苔の庭が広がっている。

次に広がるのが「室町の庭」と「桃山の庭」その中に佇んでいるのが楽水軒。

このエリアは開放的なお庭が展開して広々としてとても気持ちが良い気が流れていた。

 


秋の法然院 Ⅱ

2023-02-01 09:18:02 | 旅 ~京都

(2021-4-19ブログ参照)

ここ法然院は善気山万無教寺と号し、浄土宗系単立寺院だ。

この地はもと法然上人が弟子の住連、安楽と六時礼讃を勤めた旧跡(前ブログ安楽寺を参照)で、

寛永年間(1624~1644)ほとんど廃絶していたのを

延宝8年(1680)知恩院第38世万無心阿上人と弟子忍澂が中興したものである。

本堂までの参道は空気が少しひんやりして、

他の寺院にはないとても気持ちの良い気に包まれる感じ。

また、紅葉も当寺は少し早いようで、まだ真っ赤にはなっていなかった。

逆に緑と黄にもみじの先が赤味がかっていてこのグラデーションが

今まで真っ赤な紅葉をたくさん見てきただけに逆に新鮮に見えた。

法然院のシンボルとなっている茅葺きで数寄屋造りの山門。

前後は石段になっていて少し高い位置に門が造られているのがとてもインスタ映えする。

茅葺きに苔が生え、皆ここで立ち止まって無心にカメラを向けている。

山門をくぐると両側に白い盛り砂がある。

これは白砂壇といって水を表し砂壇の間を通ることによって心身を清めて浄域に入ることを意味している。

この日は水流にもみじが描かれていたが数日毎に描き替えているらしい。

とても京都らしい風情で絵になる。

もとは元禄7年(1694)建立の大浴場であったが昭和52年(1977)に内部を改装し、

現在は講演会、個展、コンサートなどに利用されている。

この日は悲願会と称して法話が行われていたのが参道を歩いていて聞こえてきた。

山門に向かって太陽の光で輝いていたもみじ。

紅葉は太陽の光が射しているのといないのでは大違いだ。

法然院には谷崎潤一郎はじめ、内藤湖南、河上肇、九鬼周造、、濱田青稜、福田平八郎などのお墓もある。

青空の下、きれいに紅葉した木々の下の立つ多層石塔。

その存在感の力に思わずシャッターを押してしまった。

 


安楽寺

2023-01-31 06:00:41 | 旅 ~京都

霊鑑寺の隣りにある安楽寺は紅葉の名所として有名で、

この秋は特別拝観として土日は一般公開していたので是非参拝しなくてはとの思いで行ってきた。

当寺は住蓮山安楽寺と号する浄土宗の寺院だ。

鎌倉時代の初め、現在地より東に約1キロメートルあたりに、

法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人の2人が鹿ヶ谷草庵を建てて人々に念仏を布教していた。

たまたま後鳥羽上皇の官女の松虫姫と鈴虫姫が教化を受けて、密かに出家する出来事があった。

上皇の立腹を受け「専修念仏停止」の宣下によって両上人は死刑、

法然上人は讃岐国に、親鸞聖人は越後国に配流された。

これがいわゆる建永2年(1207)の法難である。

下って室町時代の末、天文年間(1532~1555)に両上人の供養のため、

この地に流罪地から帰京した法然上人が草庵を復興し、

「住蓮山安楽寺」と名付け両上人の追善の寺とした。

石段の上に見える茅葺きの山門は明治25年(1892)に建立されたもの。

境内の美しく紅葉した木々。

確かにここは紅葉の名所といわれるだけの素晴らしい光景が広がっていた。

どこの紅葉名所でもそうだが、

当寺の多くのカメラマンが盛んにシャッターを押している光景が印象に残った。

くさの地蔵菩薩は鎌倉時代、慶派の流れを汲む仏師によって作られた。

古くから病気平癒の地蔵様として信仰を集めた。

そして平成27年5月2日にこの地蔵堂を再建した。

敷き紅葉に囲まれた手水舎。

コロナ禍で手水舎も水をストップしていたところが多かったが、段々再開してきているようだ。

ここのもそうだ。

素晴らしいでしょ。

紅葉風景。

常行三昧堂として使われていた方形裳階造の堂宇を江戸時代後期に移築した本堂の中で

語り部の方が安楽寺の由来、逸話などを上手に話してくれた。

その1つが松虫姫と鈴虫姫が住蓮上人と安楽上人のもとで剃髪染衣を求め出家する経緯が

七五調の句を重ねた美しい調べをもって語られた。

当寺で有名な行事の1つが「中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供養」だ。

毎年7月25日に京都の伝統野菜の1つである瓢箪型をした鹿ヶ谷カボチャを

煮炊きしたものを参拝者に振る舞い、中風にならないようにと願う行事がある。

庭園と紅葉。

2010年夏、境内に美しい客殿が建築された。

東山の木々を借景とし境内の桜やさつき、紅葉を融合するこの建物を「椛 momiji」と命名し、

お寺の公開している日を中心にカフェスペースとして営業をしている。

ちょっと疲れた時、お寺内でお茶できるのはうれしい。

帰路の下り階段の紅葉も良かったですねー。

やはり古都京都には人力車がとてもよく似合う。

そんな1枚です。


霊鑑寺

2023-01-30 06:01:05 | 旅 ~京都

霊鑑寺は臨済宗南禅寺派の禅尼寺で、はじめ南の鹿ヶ谷の渓流沿いに

位置したため、谷御所又は鹿ヶ谷比丘尼御所とも呼ばれている。

承応3年(1654)に後水尾上皇が皇女の浄法身院宮宗澄を開基として創建し、

荒廃していた如意寺の如意輪現音像と霊鑑を併せて祀ったことから霊鑑寺と名付けられた。

貞享4年(1684)に後西天皇の旧殿(今の書院居間)を賜って現在地に移建された。

その後、代々皇女皇孫女が住職となり、明治23年(1890)までは伏見宮の尼僧が門跡として在院した。

京都では1年間各寺で特別拝観をやっているが、当寺では秋の拝観として書院をガイド付きで見ることができる。

又紅葉が美しい庭園も特別公開していた。

現在の本堂は徳川幕府11代将軍・徳川家斉の寄進で、本尊の如意輪観音像の

傍らの不動明王像は伝教大師の髙弟智証大師(円珍)の作といわれている。

又歴代門跡の遺品など皇室ゆかりの寺宝が多い。

それでは本堂、書院の向かい側に小髙い山を周遊する道を歩みながら美しい紅葉を紹介しましょう。

当寺のこの日紅葉はどちらかという散り紅葉、そして敷き紅葉が美しい。

沢山の写真をアップしましたのでじっくりご覧下さい。

又、当寺は京都市天然記念物にも指定されている日光椿をはじめ30種類以上もの

椿を観ることができる椿の名所でもあり、「椿の寺」とも称される。

丁度、植木の剪定をしていた庭師ともお話をしたが、ここに写っているもみじは日本で2番目に髙い木だと言っていた。

さらに回遊式庭園を巡っていくと太陽の光に照らされた言葉にならない程美しい紅葉と青々とした苔の庭園が続く。

夢心地で歩いていくとあっという間に出口に出て来てしまった。

それ位、小じんまりとした霊鑑寺。

しかしその美しさは紅葉の秋を巡った旅の中でベスト3に入る素晴しいお寺であった。

このお寺から京都駅・京都タワー方面を望むとこのお寺の高台にあるのがおわかりでしょう。


京都の街あれこれ PART13

2023-01-28 06:03:27 | 旅 ~京都

紅葉の京都を巡った今回の旅「京都の街あれこれ」シリーズも後半のパート13をお送りします。

早朝散歩で寄ったのは宿泊ホテルの表側にある御旅所(おたびしょ)。

祇園祭の神幸祭において神体を乗せた神輿(神)が巡行の途中、

休憩宿泊する場所で通常はおみやげ売場になっている。

右側には冠者殿社がある。

八坂神社の境外末社でご祭神は八坂神社と同じ。

但しここは荒魂を祀っている。

新京極商店街の歴史はすごい。

昨年で150周年を迎えている。

約500メートルの商店街で昔(明治初頃)は芸居座、浄瑠璃、

寄席などの興業場や飲食店などの店舗が建ち並んだ。

明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに日本三大盛り場として知られるようになった。

現在も修学旅行生など多くの観光客で賑わっている。

この日は早朝(6:20頃)のため人気がほとんどなかった。

道路でおもしろいものを発見。

駐車禁止の警告で「放置自転車はあきまへん!」ですって。

あきまへんは関東人からはすごく新鮮。

鷹(?)の目もインパクトがある。

三井ガーデン浄教寺ホテルの隣りにあった火除天満宮。

慶長2年(1597)にこの地に創建された。

元治元年(1864)の蛤御門の変ではこの一帯だけが奇跡的に類焼を免れた。

これ以降もしばしば火難から免れるなど火除の神として多くの信仰を集めている。

嵯峨野二尊院の近くにある竹・民芸の「定家」さん。

竹の垣根のサンプルはいかにも京都らしい。

人気の香り商品も素敵で外国人観光客に人気があるらしい。

秋の落柿舎。

牧歌的な雰囲気が伝わってきていいですネー。

ポエムですネー。

京都ならではの風習にこの鬼門封じの方位除け。

その最たるものは京都御所の「猿ヶ辻」がある。

ちなみに鬼門とは北東の方角で南西の方角が裏鬼門。

また、京都では鬼門除けの植物として葉のトゲが魔除けをしてくれる柊(ヒイラギ)や前にもアップしたが、

「難を転じる」と同じ音の南天(ナンテン)がある。

南天はいたるところで見たが柊を見つけたのは少なかった。

いけず石のことは以前にもアップしたが、この鉄のポールのいけず棒は今回初めて見た。

なかなかモダンさを感じる。

鷹峯、光悦寺から遠くを見渡すと東急ハーベストの先にお洒落な建物の一部が見えた。

2021年9月に贅を極めたラグジュアリーホテルとしてオープンした「ROKUヒルトン京都」。

是非一度見学に行ってみたいものだ。

1869年に京都の町衆たちの力で開校した番組小学校の流れをくむ明倫小学校が1993年に閉校になった後、

京都市、アーティスト、その他芸術に関する活動を行う者が連携し、

京都市に芸術の総合的な振興を目指して、元明倫小学校の跡地と校舎を利用し、

2000年4月に開設した京都芸術センター。

今京都市内では閉校した学校を利用した施設がどんどん増えている。

このコンテンツがまた京都らしくて素晴らしい。

さずが京都!

京都市役所より徒歩4分、鴨川・高瀬川沿いにある歴史ある料亭。

ここは慶長16年(1611年)、豪商角倉了以の別邸として建築され、

現在の「がんこ高瀬川二条苑」に至るまで様々な著名人、資産家の別邸として脈々と受け継がれてきた。

鴨川の水を高瀬川に引いた歴史的な場所として「ブラタモリ」や他の番組でも度々紹介された。

お世話になったホテルから高瀬川付近に出るとここは加賀藩邸のあった跡。

この高瀬川沿いには多くの歴史の跡の記念碑が建っている。

鴨川には多くの橋が架けられている。

今回、早朝散歩で鴨川の遊歩道をゆったりと散策するのを楽しみにしていたが、

橋の下に数々の江戸時代の絵が資料として掲げられているのを発見した。

「鴨川遊楽図」「四条河原遊楽図屏風」「華洛四季遊戯図巻」「国宝洛中洛外図屏風」などだ。

京都観光スポットの定番、白川と巽橋と辰己大明神。

秋バージョンの写真です。

このエリアに出現したウエイティングの長蛇の列。

上の写真は有名な甘味処「ぎおん小森」、下の写真は祇園麺処「むらじ」。

ともに若い人に人気な店だ。

昨年の都をどり(2022.5.25付ブログ参照)は南座で行われたが、

今年は祇園新地甲部歌舞練場が完成し(大成建設の耐震大改修工事)、

4月1日~30日まで柿落し講演があるようだ。

また、2月26日(日)には南座で京都五花街の合同公演「早春夢舞台」もある。

このポスターを見ると行きたくなってウズウズしてきた。

京都駅構内にあるおみやげ屋さんコーナーの一角で千枚漬の実演販売を土井志ば漬本舗がやっていた。

京都三大漬物の1つ「千枚漬」は聖護院かぶらを薄く切って昆布に漬け込むもの。

他には夏野菜を刻んだ赤紫蘇の葉で塩漬けした「しば漬」、

すぐき葉を伝統的製法で乳酸菌発酵させた「すぐき漬」が三大漬物だ。

悠久の歴史の中で千年の都と京文化を育んできた鴨川。

今も大都市にあって豊かな自然の中で清澄さを保ち、憩いの場として多くの人に親しまれている。

 

 

 

 


建勲神社

2023-01-23 06:02:27 | 旅 ~京都

四神相応(青龍、朱雀、白虎、玄武の)1つ

玄武(北の神)の船岡山の中にある建勲神社の入口、大鳥居。

この鳥居は府内最大の白木鳥居で笠木も大きく反り、神域の荘厳な結界を構成している。

この鳥居から右手に末社の義照稲荷社及び命婦元官があり、

左手の石段を3分程登ると別格官弊社 建勲神社に出る。

階段正面が大平和敬神の大きな大神石。

昭和45年11月10日、建立奉納された。

さらに石段を登っていくと前述した義照稲荷社と伏見のお稲荷さんの元官であり、

又秦代の守護神として今日の西陣織の祖神となっている稲荷命婦之宮がある。

これが山城国船岡山建勲神社の境内図。

船岡山は玄武の小山として平安京造営の北の基点となったとされる小髙い丘で

緑豊かな建勲神社の境内からは比叡山や大文字山(如意ヶ獄)など東山三十六峰の眺望が楽しめる。

当社は正式には「たけいさおじんじゃ」というが

地元では「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」として親しまれている。

この船岡山は標髙112メートル(比髙45メートル)と優美な小山で古くは聖徳太子の文献にも、その名が出てくる。

京都が都に定められ、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路があった。

桶狭間の合戦出陣に際し、織田信長公が舞われた「敦盛」の一節を刻んだ有名な歌碑。

当神社は明治2年(1869)、明治天皇の御下命により織田信長公をお祀りする神社として創建された。

明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ、明治13年(1880)新たに社殿を造営し、

明治43年(1910)に山麓から山上へ社殿を移建し、現在に至っている。

本殿(簡明な意匠になる近代本殿の好例)拝殿、社務所、貴賓館などは平成20年、国の登録有形文化財に指定された。

ところで信長公の偉業は戦国時代に終止符を打ち、日本統一の道筋をつけ、民衆を疲弊絶望から救い、

消滅しかけていた伝統文化に躍動の美を与え、遠くヨーロッパ文明に着目し、日本を取り巻く世界情勢を的確に把握し、

富国強兵に努め日本の歴史を中世の混乱から近代の黎明へと導いた。

しかし惜しいことに信長公の偉業は天正10年(1582)6月2日未明の本能寺の変により中道にして倒れた。

秀吉は信長の霊を慰める為船岡山に寺を建立し、信長像を安置しようとしたが、中途に終わり、

その後船岡山は信長公の聖地として大切に保持された。

そして年月は流れ、明治2年(1869)明治天皇により、

信長公の御偉勲に対して神社創立の宣下があった。

拝殿の前には他神社ではあまりお目にかからない祓串(はらいぐし)が

納められており、心を落ちつけて祓串にて左右左とお祓いの上、

参拝して下さいと書かれてあった。

拝殿の内側には織田信長公三十六功臣のうち

十二功臣(羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家など)の額が掛けられていた。


大徳寺境内の散策

2023-01-20 06:13:53 | 旅 ~京都

今宮神社から次のランチの京都町中華店へ行く途中、大徳寺の境内を通って移動した。

その道中はご覧のように完璧に整備された素晴らしい道であった。

大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、

広い寺域に別院2ヶ寺と立派な塔頭がご覧の山内図のように固まって並んでいる。

まさに壮観なエリアだ。

大徳寺は鎌倉末期の正和4年(1315)に大燈国師(宗峰妙超)により開創され、

花園上皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。

室町時代には幕府の保護を辞退して在野禅院として独自の立場を貫いた。

応仁の乱で建築物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている47世佳持の

一休宗純が堺の豪商の庇護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建造物や寺領が寄進され、

江戸時代初期に現在の建築物はほとんど整えられた。

学生時代、英語をしゃべる住職が居た大仙院に来たことはあったが、

その時のイメージとは全く違う、これが一つのお寺なの?という広さと

すごいという空気感を大徳寺に感じてしまった。

五摂家の筆頭を担う近衛家の墓所はここ大徳寺にあった。

そうか近衛家の菩提寺は大徳寺だったのか!

約300坪ぐらいの敷地を大木が囲み、入口は木の門で閉められ、他の人々を寄せつけていない。

大徳寺の塔頭「総見院」。

本能寺の変で織田信長が自害してから100日後の天正10年(1582年)10月10日に

織田政権の覇権争いの舞台として有名な「大徳寺の葬儀」が羽柴秀吉によって執り行われ、

信長の菩提が弔われた。

本尊は織田信長坐像(重要文化財)。

大徳寺鐘楼は安土桃山時代の1583年(天正11年)に建立された。

鐘楼は1583年(天正11年)に鋳造された梵鐘を釣っている。

生誕500年を迎える茶聖・千利休の菩提寺にして日本絵画の最高峰、

狩野永徳の障壁画を有する大徳寺塔頭、聚光院。

京都国立博物館に寄託していた狩野永徳などの

本堂障壁画46面(すべて国宝)が5年半ぶりに里帰りして一挙公開。

また、現代日本画のトップランナー千住博画伯の障壁画「滝」も公開されている。

大徳寺の塔頭寺院の中でも別格地とされる大仙院。

創建は永正6年(1509年)で枯山水の代表作である書院庭園がある。

天正17年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(菊丸の弟)が春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖として

創建された大徳寺の塔頭三玄院。

小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは春屋に禅を学んだ人々である。

沢庵・千宗且らも修行し、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓が祀られている。

大徳寺の山門、金毛閣。

応仁の乱後、享禄2年(1529年)に再建された。

その後天正17年(1589年)千利休が造替した。

その際に雪駄履きの自信の木像を安置したことで豊臣秀吉の怒りを買い、

切腹を命じられたという逸話がある有名な門だ。

ここ大慈院は座禅、特に夕暮れから夜にかけてのドラマチックな時間、

静かな境内で組む「夜空の坐禅」が評判になっている。

室町期の建築様式の特徴を見せる本堂(重要文化財)や唐門を持つ大徳寺興臨院。

その後、豊臣政権の五大老を務めた前田利家が菩提寺にするなど加賀前田家ゆかりの寺院だ。

数十年振りに広大な大徳寺の境内を散策したが、

思っていたのと全くイメージが変わってその空気に圧倒されてしまった。

これはもう一度、目的を持ってじっくり来る必要を強く感じた次第です。