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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

南禅寺塔頭 天授庵

2023-06-12 06:17:23 | 旅 ~京都

室町時代、室町幕府の足利将軍家によって制定された「京都五山」。

その中で最も高い格式の”別格”に定められた京都および日本の禅宗を代表する寺院・南禅寺。

そんな南禅寺の中門をくぐって最初に現れるのが、ここ天授庵。

その庭園の全景です。

天授庵は南禅寺の塔頭(たっちゅう)寺院で紅葉の名所としても人気があり、その季節はライトアップされ、長蛇の列が出来る。

あの有名なJR東海のポスター「そうだ京都行こう」にも成ったことがある。

創建は南北朝時代はじめの1339年(暦応2年)南禅寺の開山・大明国師こと無関普門禅師をまつるための寺院として、時の南禅寺の住持(15世)、

虎関師練が光厳天皇の勅許の下で建立した。

しかし、その後の南禅寺大火や応仁の乱で焼失。

その後しばらく荒廃した状態だったものの、桃山時代に入り茶人としても有名な戦国大名・細川藤孝(細川幽斎)の援助を受けた僧・雲岳霊圭(幽斎の血縁)により再興された。

当庵には細川幽斎が再興した寺院のモダンなデザインの枯山水庭園と南北朝時代の池泉回遊式庭園がある。

本堂前庭(東庭)は枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳を軸として配するに数の石と白沙を以てし、之れに緑苔を添えたものである。

スミダマングループがこの庭に立った時は来訪は誰もおらず、この素晴しい「青もみじ」を独りじめ状態。

その上動画を見れば聞こえてくる僧侶の読経の響きと合いまって感動的な時が流れた。

(本堂で法事が行なわれていた。)

書院南庭は庭園の根本的構想或いは設計とも言ふべき地割の上から見ると明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。

特に中央の出島にそれが顕著である。

即ち書院側より長下な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、之等をさながら巴形に組み合わせることによって

東西大小の二池を区切って居る処、又大小の出島を作り池庭の汀の線に多く変化を見立て居る。

書院南庭を先に進むとところどころ苔むした自然の中に竹林が現われる。

本当に京都は竹林がよく似合う。

緑いっぱいのお庭に池と飛石、そしてさりげなく咲くかきつばたの美しい姿。

もう絵画の世界です。

静寂につつまれた庫裏の中は立ち入り禁止

スミダマンはどのお寺の庫裏もその軸組で組み立てられた空間を見ると魅了されてしまう。

そんな庫裏の先の書院本堂の窓枠の先の青もみじをズームで撮った一枚。

これも完璧に絵画そのものです。

庫裏の壁に貼られた各種ポスター。

 

 


吉田神社

2023-06-05 06:06:17 | 旅 ~京都

吉田神社がある吉田山は標高約105Mで東山三十六峰の12峰目に数えられる。

桓武天皇が平安京に遷都した際、都の鬼門にあたる地として比叡山と共に王城鎮護の山とされた。

古来神が集いし岡として信じられ、神楽岡とも称されている。

859年に藤原山陰が奈良の春日大社を吉田山西麓に勧請したのに始まり、以来藤原代の京都での氏神とされる。

後に応仁・文明の乱で吉田神社も荒廃してしまった。

その後吉田兼倶が室町時代に唯一神道(吉田神道)を提唱し、天神地祇八百葛の神を祀る大元宮を創設し再興した。

吉田山に鎮座している22社(下8社)の1社で旧社格は官幣中社、現在神社本庁の別表神社となっている。

本宮は奈良の春日神社に代表される春日造を継承。

朱塗りの4棟の社殿からなっている。

この春日造は正面に向拝という庇部分を持つのが特徴だ。

因みに祭神は4柱だ。

右手の鳥居を登っていくと吉田神社の末社。

斎場所大元宮に出る。

大元宮とは日本国内の全ての神を祭神とする吉田神道の根本殿堂。

全国の天神地祇八百葛(あまつかみくにつかみやおよろずのかみ)3132座の式内神を祀っている全国の神祇に参詣したとの同じ効験があるとされる。

明治に入るまでは吉田神社の信仰の中心だった。

吉田神社の摂社の1つ、神龍社の石段

こちらも摂社の1つ若宮社

鹿の像は奈良春日大社の鹿と関係があるのだろう

京都市無形民俗文化財登録の「吉田木瓜大明神の剣鉾差し」の差し手募集のチラシがとても気に成ってパチリ。

因みに剣鉾とは氏神さんを招き、悪霊とし疫病を追い払う。

お祭りでは神輿の先導を務める。

祭りといえば吉田神社で一番有名なのが2月2日~2月4日に行なわれる節分大祭。

室町時代から行なわれている京洛の一大行事で特に抽選券付き厄除け福豆が話題となっている。

各企業が協賛し大物では自動車が当たるとか。


重森三玲庭園美術館

2023-06-03 06:13:37 | 旅 ~京都

昭和を代表する庭園家(作庭家、庭園史研究家)である

重森三玲(しげもり みれい)の庭園美術館に行ってきた。

ここの見学は完全予約観覧制(1日2回)で三玲の御孫さんが直に案内をしてくれる。

京都の重森三玲旧宅(旧鈴鹿住宅)は吉田神社の社家として名高い鈴鹿家の所有であったものを

昭和18年に東福寺方丈庭園などの作庭で知られる重森三玲が譲り受けた。

本宅(現・招喜庵、非公開)が享保期頃(1716-35)、

書院が寛政元年(1789)と伝えられる江戸期の建物で、

書院は近衛家の援助によって建立されたものと伝わる。

この重森三玲旧宅は現在吉田神社界隈で格式のある社家建築の趣きを伝えるほぼ唯一の遺構であり、

その文化的価値は貴重なものである。

書院前の庭(昭和45年作)は中央に蓬莱島、東西に方丈など

合わせて4つの神仙の島々を配した枯山水庭園で部屋の内部や縁側から鑑賞することができる。

三玲が作庭した数々の寺社庭園や個人宅の庭などに比べた場合、

この書院前の庭の特徴は住まいとしての江戸期の建築と調和しながら

茶を中心にした日々の暮らしに則した点にある。

重森三玲は昭和を代表する庭園家(作庭家、庭園史研究家)で

日本美術学校で日本画を学び、生け花、茶道を研究し、その後庭園を独学で学ぶ。

三玲は華道家の勅使河原蒼風や彫刻家のイサム・ノグチとの交友など、

庭園を通しての交流は多岐にわたっている。

三玲作庭の庭は力強い石組とモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園。

代表作は京都の東福寺方丈庭園、光明院庭園、大徳寺山内瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。

庭園美術館の建物内部は撮影禁止。

この茶席女子刻庵(昭和44年)のみはオーケーが出た。

このモダンな市松模様の襖は東福寺方丈の庭園を思い浮かべてしまう。

このお洒落でモダンな照明器具の傘も重森三玲の作品だそうだ。

この自作の書院前庭や茶庭、坪庭はつくられている新旧融合の特殊な場所になっている。

午後2時からのスミダマンの20人ほどのグループの中には1人外国人がいて、

三玲の御孫さんが英語で説明をしていたのが印象的であった。

孫曰く「三玲の名はフランスの画家ミレーの名から取った」と言っていた。

 


京都の街あれこれ PART15

2023-04-01 06:09:21 | 旅 ~京都

京都駅からザ・サウザント京都に向かう道にさりげなく造られた枯山水庭園風の空地利用を発見。

これを見て京都はここまで京都らしさを表現するのかと早朝から感動。

以前にもアップしたと思うが今回又「鍾馗様」シリーズをどうしても気に成ってアップしてしまいました。

鍾馗さんは2~30CMくらいの高さの瓦でつくられた人形だ。

いかつい表情で太刀を持ち、たいていは藍袍(くるちょう)を着て、

カットと両目を剥いて正面をにらんだ姿で表現されている。

これは家に侵入しようとする邪鬼を退散させると信じられている。

疫病や邪鬼を払う以外に火災除けも担っているとのこと。

ところでなぜ京都の鍾馗さんは屋根の上に立っているのか?

文化文政期の文献によると次のエピソードが残っている。

三条の薬屋が屋根に大きな鬼瓦を取り付けたところ、向いの家の女房がそれを見て寝込んでしまった。

取り外してくれと頼んだが断られ、対抗策として鬼に勝つ

鍾馗さんを瓦屋に作らせて屋根に乗せた所、女房の病気が全快した。

これが庶民の間で広まっていったそうだ。

それ以外の説として、京の街にはお寺が多い。

お寺はその霊力や魔除けの鬼瓦で邪鬼などを跳ね返してしまうので、

はね返された鬼が一般の家に入って来てしまう。

そこでコワモテの鍾馗さんを屋根に乗せ、鬼から守っていただこうと

京の街では家の屋根に乗せるのが流行っていったという。

小さくても大きな霊力を持つ鍾馗さま。

昔から伝わる京都の鍾馗文化を探して散策するのもまた楽し。

興正寺と西本願寺の塀越しに見えた、国宝西本願寺の「飛雲閣」

金閣・銀閣にならび京都三大銘閣の一つで豊臣秀吉が京都に構えた邸宅

「聚楽第(じゅらくだい)」の遺構だと伝わっている。

3年間の修復工事が終わったが通常は非公開。

だが、たまに公開されることがある。

いつか訪れたい所の1つだ。

(2017-10-6付ブログ参照)

西本願寺の境内を左奥手に進むと国宝唐門がある。

約40年ぶりに修復を終え桃山時代を象徴する華麗な姿がよみがえった。

この唐門は寺が1591年に現在の場所に移転した後に造られたとされる。

日が暮れたことも忘れてしまうということから日暮門とも呼ばれている。

(2017-10-6付ブログ参照)

この龍谷大学は寛永16年(1639)西本願寺境内に開設した教育施設「学寮」に源を発し

現在、京都、滋賀に3つのキャンパスがある。

なかでもここ大宮学舎は龍谷大学発祥の地で、中央にある本館はじめ正門、

守衛所、北黌、南黌が国の重要文化財に指定されている。

創建当初、明治12年(1879)の建物が、ほぼ完全な形で、

しかも群として遺り全体景観を形成していることは明治建築物では珍しい事例だ。

最後の写真の東黌は5年前建築中であったが完工し、その意匠は重要文化財とほぼ同じで

全体の雰囲気にしっかり溶け込んでいた。

(2017-10-14付ブログ参照)

前回の御金神社(みかねじんじゃ)のアップは早朝散歩の時だった為、

全く人気がない神社風景であったが、今回は参拝者が長蛇の列。

新ためてそのご利益を求める切実な思いが他の神社と違ってストレートに伝わって来た。

(2022-9-14付ブログ参照)

フレンチグリルで昼食をいただいた後、腹ごなしの散歩で神泉苑に来た。

その時「そうだこの先にあの有名な喫茶チロルがある」とひらめき、足を伸ばしてみた。

あいにくこの日は定休日で入ることができなかったが場所がわかったのでいつか訪ねてみたい。

京都の喫茶文化を代表する有名店だ。

http://tyrol.favy.jp

令和5年3月27日日本の政治機関の1つ「文化庁」が東京から京都に移転して来ます。

このことは京都の都人にとっては歴史的な大事件で明治に成って都が

京都から東京になんとなく移ってから約150年。

都の一部が京都に戻って来たという感覚なのです。

1997年、原広司設計の元で完成した4代目の京都駅舎。

その外観の一部を切り取ってアップしてみました。


本山 興正寺

2023-03-30 06:12:07 | 旅 ~京都

当寺は阿弥陀如来を本尊とし、親鸞聖人を開祖とする真宗興正派の本山である。

興正寺の寺号は日本に仏教を広めた聖徳太子の事績にちなみ

「正しき法を興しさかえさす」との意味が込められている。

当寺の隣りには西本願寺があり、遠くから見ると両寺が一体に見え、

当寺は西本願寺の一部と間違えてしまう。

以前スミダマンもそう思っていたが両寺に来て別の大寺だとわかった。

当寺の創建は鎌倉時代にさかのぼり、京都の東山科の地に建てられたと伝えられている。

南北期時代、寺基は山科から渋谷へと移り、

その際、阿弥陀仏の放つ光明にちなみ寺号を「佛光寺」と改めた。

室町時代、蓮教上人は本願寺蓮如上人と歩みを共にし、

佛光寺は弟に譲り、再び山科に「興正寺」と改めた。

その後は本願寺と歩調を合わせ、幾度なる移転にも行動を共にした。

桃山時代、現在の地へ移転したのも本願寺との深い関係を示している。

明治9年(1876年)には真宗興正派の本山となり、

現在も「興隆正法」という願いのもと興正寺の歩みは続けられている。

なお、この建物は明治45年に建立した御影堂。

大正4年(1915年)に再建された阿弥陀堂本堂。

前述したが本寺の本尊は「阿弥陀如来」。

本堂の前の階段のところには「やっぱり阿弥陀さん」。

すごくシンプルな表現だがその意味するところはとてつもなく深そう。

当寺は梅が名所ということで訪ねてみたが、梅の木はこの紅白の2本。

しかし、この大木の梅の木の枝振りと花が素晴らしく、

全体的な光景の中で光り輝いていた。

この地には決して多くはないが、この梅を目当てに来た人たちがいる。

特に熱心で本格的なカメラマンがおり、

彼らのテクニックを真似して撮った水鉢に映った梅だ。

今度はカメラのアングルを引いて撮った2枚。

お寺の屋根の中に隠れたような紅梅と白梅の先のビル群の向こうに垣間見えた京都タワー。

こちらは安永3年(1774年)に再建された鐘楼。

桃園天皇の13回忌に際し、皇太后恭礼門院(一条富子)から梵楼とともに寄進された。

嘉永元年(1848年)に建立された経蔵。

法宝院ともいう。

勅願「法宝院」は右大臣近衛忠熙の筆で孝明天皇から賜ったもの。

令和5年4月18日より20日まで宗祖親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年になるそうだ。

境内の中には子供でもわかるような看板が置かれていた。

「ご縁を慶び、お念仏ともに」

「親鸞さま ありがとう!」

 

 

 


島原遊郭跡

2023-03-29 06:43:12 | 旅 ~京都

慶応3年(1867年)5月に建設された島原大門。

豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、

これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され六条三筋町として栄えた。

その後朱雀時に移ったがその急な移転騒動が時あたかも九州島原の乱の直後であったため、

それになぞらえて島原と称されるようになった。

ここ輪違屋は大夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝える。

現在の建物は安政4年(1857)に再建されたといわれるが、

その後増改築がなされて、明治4年(1870)にはほぼ現在の姿になった。

この建物は建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、

京都市指定有形文化財に指定された。

島原花街の正式名称は西新屋敷。

6つの町で構成されている。

1976年に京都花街組合連合会を脱会し現在は前述の輪違屋のみが

正式なお茶屋の鑑地を有して置屋兼お茶屋の営業を行っている。

ここ島原エリアの中にある湯の宿松栄と誠の湯。

旅館松葉は露天風呂・檜風呂もある充実の浴場施設が自慢。

このお風呂は京都市内随一のものだとか。

一方誠の湯はスーパー銭湯。

タクシードライバー曰く「ここは新選組が好きな方に人気があるとか」

どうして?

この風情ある日本建築は島原遊郭と関係あるのかわからないが、

その存在感に思わずシャッターを押してしまった。

ここで再度島原の歴史を振り返ってみると、島原は元禄期に最も栄えた。

立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町、祇園新地、

上七軒二条などの遊里に人が流れ、次第に衰えていった。

この角屋(すみや)は寛永18年(1641)の島原開設当初から連綿と続く揚屋

(今でいう料亭で、江戸期京都では民間最大規模の宴会場)だ。

揚屋は江戸の吉原になく、京島原と大阪新町にあった。

揚屋は置屋から太夫(傾城の最高位)や芸妓を呼び、遊宴をするところだった。

幕末ごろは、新選組の局長クラスの宴会があり、また隊士が勤皇派を探索に来たが

ここでは池田屋のような乱闘はなかった。

因みに新選組局長芹沢鴨は文久3年(1863)9月18日に角屋で

行なわれた局長クラスの宴会に出席し、その夜屯所で暗殺された。

この角屋の向い側には「角屋饗宴もてなし文化研究所」がある。

昨年12月から休館していたが、3月15日から「四条派と角屋の交流」という企画展が始まるそうだ。

又島原の歴史に戻ると幕末、西郷隆盛、久坂玄瑞や新選組らが出入りした。

昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減りついにお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。

因みに太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。

江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌、連俳等の文芸が盛んで、

中でも俳階は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。


梅小路公園

2023-03-28 05:58:58 | 旅 ~京都

この公園は1990年(平成2年)3月に移転したJR貨物梅小路駅の跡地、

平安遷都1200年を記念して作られた市営の都市公園(総合公園)で1995年4月29日に開園した。

面積は13.7haある。

この公園の用途は多彩で以下の通りだ。

①七条入口広場

②ビバスクエア京都

③チンチン電車

④京都水族館

⑤芝生広場

⑥総合案内所(大宮入口)

⑦すざくゆめ広場

⑧カフェ(すざくゆめ広場内)

⑨市電ひろば

⑩カフェ・ショップ(市電ひろば内)

⑪野外ステージ

⑫梅林

⑬京都鉄道博物館

⑭レストラン(緑の館内)

⑮緑の館

⑯朱雀の庭・いのちの森

⑰河原遊び場

⑱大宮ちびっこ広場

七条口を入ると七条通を横断して嵯峨の線の「梅小路京都西駅」がある。

見た感じこの駅はまだ新しそうで意匠デザインもなかなか斬新だ。

ここはビバスクエア京都内にあるアイスパーティーパークで

1月23日~2月26日までスケートリンクとしてオープンしている。

ご覧のように子供に対してスケートワンポイントレッスンをやっていた。

和室、茶室、イベント室がある緑の館とこの建物から入れる朱雀の庭といのちの森。

この公園は下京区にあるがこの京都タワー、その奥の東山を見れば、

その位置、距離がわかると思います。

明治時代の京都市電の車両(チンチン電車)の保存運転が行われている市電ひろば。

市電の中にはカフェ・ショップもある。

広い公園のちょうど真ん中あたりに立っていた案内標識。

前述した梅小路京都西駅の先には京都の台所、京都市中央卸売市場第一市場とすし広場がある。

ここは一度ぜひ訪問したいと思っている。

公園の北東側にはこの公園の目玉、2012年3月14日に開園した京都水族館がある。

この内陸型大規模水族館は京都駅から徒歩15分とアクセスも抜群で

京都の川に住むオオサンショウウオをはじめ、10のエリアで約250種、約15,000点の生き物がいる。

https://www.kyoto-aquarium.com/index.html

今回梅小路公園に来た目的はこの公園の一角(南東部)にある梅林の梅が満開ということで見に来た。

たまたまタクシーがこの梅林の全く逆側で降ろされたため、

この公園全てを見ながら横断してここまで来た。

この梅林エリアは東側、北側、南側の3つに分かれていて14種140本ほどの梅が植えられている。

この写真は東側梅林のものです。

個々の梅はちょうど見頃を迎えており、のどかに堪能させてもらいました。

この梅林の南側には嵯峨野線とJR京都線が走っておりこの公園の位置がわかるのでは。

一方、北西の方に目を向けるとまだ山に雪が見える山々が連なっており、

これを見ての京都の冬の厳しさがわかる。

京都水族館の前には広大な芝生広場が広がっており遠くには野外ステージが小さく見える。

この観光案内は小さくてわかりにくいが、

このエリアはあまり来たことがないところで今まで盲点になっていたエリアだ。

 

 

 

 


花街 上七軒

2023-03-25 06:10:28 | 旅 ~京都

花街上七軒は京都五花街の中でひとつだけ離れた場所に位置していて、

京都で最古で北野天満宮との関わりがとても深い花街だ。

他の花街は江戸時代に始まったが上七軒は室町時代に生まれた。

場所は今出川通りの上七軒交差点から北野天満宮の東門までの約400Mの真っすぐな通りの周辺にある。

通りの所々には第71回北野をどりのポスターが貼れてあった。

時期は3月20日(月)~4月2日(日)

場所は上七軒歌舞練場で行なわれる。

戦前まではお茶屋は50軒、芸舞妓は60名、娼妓も3名居たという。

現在はお茶屋は10件、芸舞妓の数は31名と言う。(2015年現在)

舞踊の流派は明治以前は篠塚流だったがその後は花柳流に変わった。

夏になると約1ケ月間は歌舞練場内がビアガーデンになり、

その時は浴衣姿の芸舞妓さんと気軽に話ができ、お酒も飲めるそうだ。

TVでは見たことがあるが、実際一度来てみたいものだ。

歌舞練場入口裏通りの所に上七軒のお店マップがあった。

とてもわかりやすいマップでお店の名前と電話番号、業態が色別で書かれてある。

約400Mの通りに46軒の店がある。

上七軒の由来は室町時代に北野天満宮の一部が焼失して再建した時の

残りの木材を使って7軒のお茶屋が建てられたことが起源とされている。

小さな花街だが通りの両脇には古い町家が並び京都らしい町並がつくられている。

今度は夜の上七軒。

桃山時代、豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折、茶店側はみたらし団子を

献上した所大いに誉められて以来、上七軒はみたらし団子を定紋としている。

また西陣の結びつきで花街として繁栄を極めた。

有職菓子御調達所「老松」は明治41年(1908)に上七軒で創業した和菓子屋。

当主の家系は平安時代の宮廷祭祀官の流れを汲み、古来より朝廷に伝わる有職故実に

もとづく儀式・典礼に用いる菓子、茶道に用いる菓子を手がけてきたことから、

屋号を有職菓子後調達所としている。

夜店の前を通ったら、大きなゴミ袋が山のように積んであった。

これは梅花祭で出した老松の菓子で出たゴミでしょう。

こちらはお茶屋さんの「大多加」 

提灯にはみたらし団子の定紋が。

豆腐料理の「くろすけ」

雰囲気ありますネ

御召・和装小物の「弓月京店」

洋食の「彌兵衛」この日は飲食店はどこもウエイティングの列ができていた。

やはり長蛇の列の麺類・丼物の「ふた葉」

京都らしいけいらん、しっぽくが800円。

本当はここで食べたかったのだが…。

塀越しに枝振りの良い紅梅の木が赤みを帯びてきて風情がありますネー。

上七軒通りから路地に入った所にある京都中華の名店「糸仙」さん。

この佇まいで中華屋さんなのです。

当店に来たくて事前予約を入れたが人気店の為満席で断られてしまいました。

この日は人混みの中本当に歩いたのでどうしても休憩したくなり上七軒の佃煮製造販売であり、

喫茶店もやっている「たきものゑびす」に飛び込んだ。

https://www.takimono-yebisu.jp/

ホット玉露とお抹茶と和菓子セット950円と1050円を注文。

日本茶は一保堂、和菓子は老松の特製。

この和菓子は素晴らしく美味しかった。

他にゑびすのちりめんじゃこと塩芋けんぴが付いていた。

帰りには自家製のチリメン山椒756円

金胡麻おかか756円をお土産に買ってきた。


北野天満宮と骨董市

2023-03-22 06:12:52 | 旅 ~京都

北野天満宮 2019-8-27付ブログ参照

京都の人々からは北野の天神さん、北野さんと呼ばれ親しまれている北野天満宮。

その入口の所の一の鳥居。

京都では御所の四方の鬼門の北西を護っている大事な神社だ。

この日2月25日(土)は年に一度の梅花祭の日だ。

今回の旅は京都の催事に行きたいという思いが、梅を見るのは若干早いのを承知でこの日を最優先に組み立てた。

一の鳥居から楼門までの広い参道には、毎月25日道真公の御縁日に沢山(約300店程)の露天が立ち並ぶ。

特にこの日は年2回道真公の誕生日(6月25日)と命日(2月25日)に由来する特別の縁日(骨董市)だ。

今やこの縁日も国際化しスペイン、フランスの国旗が立つ露店も現れていた。

この骨董市には多くの着物の古着屋さんも出店しておりコロナが治まってきた中、外国人の姿を多く見かけた。

この様に着物を着飾った外国人女性もかなり見かけた。

鳥居の入口にはどこの縁日でも見かける屋台のおでん、煮込み屋さんがその匂いで誘ってくる。

結果的にお昼はここのおでんを食べればよかったと後で後悔した。

この写真を見てもわかるように3年間という長いコロナ禍ではほとんど見かけなかった大変な人出。

この参道はすっかり通常の縁日に戻っていた。

縁日の露店というと、どこにでもあるイメージの店が出ていると思うが、

この骨董市にはここならではのお洒落なコーヒー関係の店、

古都ならではのお線香、ローソク専門の店、又、古銭を扱っている店など個性的な露店が数多くあった。

食べ物でも地域名産の「丹波干柿」を売っている露店も新鮮だ。

この社は学問の神様である菅原道真公を祀りする全国の天神様天満宮の総本社で学業成就、

学力向上祈願、入試合格、各種試験の合格祈願にご利益があると言われている。

境内には「なで牛」と言われる寝そべった牛が十数体もある。

体の悪い部分を撫でると病気やケガが治ると言われている。

その中、一体だけ、本殿に立ち上がろうとする未だ謎の唯一の立ち牛というのがある。

平安時代、天暦元年(947年)この地に朝廷によって社殿が創建された。

400有余年と新しい桃山時代から今に残る稀少な社殿は国宝だ。

他にも数多くの国宝、重要文化財が奉納されている。

当神社の神紋は「星梅鉢紋」だ。

現在の絵馬所は元禄12年(1699年)に建てられ規模、歴史は現存する絵馬所のなかでも随一と言われている。

百人一首(?)の絵札が飾られていて、一味も二味も違う建物になっている。

重要文化財の「三光門」。

御本殿前の中門で日・月・星の彫刻があることから三光門と呼ばれている。

実際には星の彫刻はないとも言われ、「星欠けの三光門」として天神さんの七不思議に数えられている。

この時も小雪が舞って京都らしい風情と成った。

北野名物長五郎餅が販売されていた。

長五郎餅は太閣秀吉が開いた北野大茶会の際用いられたという

由緒正しきお餅でなんとこのお店は創業天正年間という。

本当に京都の歴史はすごい。

天満宮の東門から出て参道と平行して南北にある道路にもびっちり露天が出ていて大変な人混みだ。

本当に外国人も多く熱心に骨董をチェックしていたのが印象的だった。

こちらはやはり東門から出て東方面の花街上七軒に向かう途中の広場に出店していた露店。

ここの露店は本格的な骨董品が多く見応えがあり、北野天神の骨董市にきたナーという感じをじっくり持てた。

北野天満宮の骨董市はリサイクル着物やハギレの宝庫で着物市としても名を馳せている。

着物が1枚1000円と信じられない価格で売られており、女性達の目は真剣だ。

この女性は人気者らしく地元の男性から「この娘、おたべにそっくりやねん」といじられていた。

ここ北野天満宮の骨董市は東寺の弘法市とともに二大骨董市と言われている。


護王神社ーⅡ

2023-03-17 06:09:41 | 旅 ~京都

(パートⅠ 2022-9-30付参照)

昨年の夏来た時はまれに見る土砂降りの中、

境内を走りながら護王神社のシンボル、イノシシ像を撮りまくったのを思い出します。

もう一度晴れた日にゆっくり来たいと思っていたので今回青空の中、参拝できたことに感謝です。

護王神社は桓武天皇に遷都を進言し、

平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂とその姉広虫を祭神とする神社で、

もとは神護寺の境内にあったが明治19年(1886年)この地に移されました。

鳥居、拝殿の前に狛犬のかわりに猪像があるが、

これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなんだものです。

その故事を詳しく紹介してみましょう。

奈良時代・称徳天皇の御代、法皇となって権勢をふるっていたら弓削道鏡は天皇の位をわが物にしようと

「自分を皇位につかせたなら天下は太平になると

宇佐八幡より御神託(神のお告げ)があった」とウソをついた。

天皇から御神託が本当かどうかを確かめてくるよう命を受けた和気清麻呂公は九州の宇佐八幡へ行き、

御神前に「神意を示したまえ」と叫んだ。

すると光の中から宇佐の大神が現れ「天皇の後継者には必ず貴族の者を立てなさい。

無道の者は早く追放してしまいなさい」と御神託を下された。

都に帰った清麻呂公は、このことを天皇に報告し、道鏡の野望を暴いた。

道鏡の怒りを買った清麻呂公は大隅国(鹿児島県)に流されることになり、

その途中、道鏡の放った刺客に襲われ足の筋を切られてしまった。

それでも清麻呂公は貴族の安泰を守られたことを感謝するため、宇佐八幡宮へ立ち寄ることにした。

そして一行が豊前国(福岡県東部)にさしかかった時、どこからともなく300頭ものイノシシが現れ、

清麻呂公を悩ませていた足の痛みも不思議と治っていました。

1年後、称徳天皇の防御により道鏡は失脚すると、清麻呂公は都へ呼び戻され、

晩年まで世のため人のために尽くしました。

ということで境内のいたる所に猪像が祀られている。

この神社は足腰の守護神いのししの護王神社として名を馳せている。

今回は青空の下での和気清麻呂像です。

日本一のさざれ石。

いのししだらけの神社の中でこの絵馬だけは卯年のためうさぎの絵でやけに目立った。