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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

今宮神社

2023-01-19 06:00:30 | 旅 ~京都

今宮神社楼門から撮った前面道路(今宮門前通り)の風景。

当神社は北区紫野今宮町にあり、比較的静かなエリアにある。

京都市北区・上京区において大きな氏子区域を持っているそうだ。

左側の先には大徳寺がある。

この朱塗りの楼門は大正15年の建立で国登録有形文化財となっている。

この地には延暦13年(794年)の平安遷都以前から

疫神スサノオを祀る社(現・摂社疫神社)があったとされる。

平安遷都後にはしばしば疫病や災厄が起こり、

神泉苑、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社などで疫病を鎮めるための御霊会が営まれたという。

広い境内には拝殿、神楽殿など様々な建物が点在し、又、他の神社にはあまりない

「唐崎の松」と言われる松林が境内の真ん中にあり一種独特のホットする安らぎの雰囲気を作り上げている。

当神社は疫病鎮めのため一条天皇は正暦5年(994)に疫病をひとたび船岡の上へと奉安して

御霊会を修せられ、長保3年(1001)には新たに三神を祀る神殿を現在地に造営して、再び御霊会を営まれた。

今宮の名は、この新しい宮に由来している。

こちらが明治35年に再建された本殿・幣殿本殿。

当神社は大己貴命・事代主命・奇稲田姫命

三柱を祀る神社であり、鎮疫の神として信仰が厚い所だ。

正にコロナ退散にはピッタリの神社だ。

この方々は旅行者の人かもしれないが、総じて京都の人々は信仰心が厚いと旅をして実感している。

それは小さい子供の頃から地蔵盆をはじめ8月の送り火など

様々な神事が各所いたる所で一年中行なわれている街で生活をしていると

自ずと自然に身についてしまうのではないか。

当神社は別名「玉の輿(たまのこし)神社」とも呼ばれている。

西陣の八百屋に生まれた「お玉」が江戸幕府第3代将軍徳川家光の側室となり、

5代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となった。

このことが「玉の輿」ということわざの由来になったとの説がある。

桂昌院は京都の寺社の復興に力を注いだが、今宮社に対する崇敬と西陣に対する愛郷の念が非常に強かったという。

丁度旅をした時期は七五三のお参りの時期で種々の神社でこのような光景を目にしたが、

今宮社でもほほえましい光景に思わずシャッターを押してしまった。

明治14年に再建された東門を出ると門前参道に有名な「あぶり餅」屋2軒の店が建っている。

ここから見ても大変な人混みだ。

あぶり餅は祭事で用いられる竹や供え餅を参拝する人々に厄除けとして提供したのが始まりとされる。

東門から見て左側が「一文字屋和輔(いちもんじやわすけ)」と右側が「かざりや」の2軒の店が建つ。

一文字和輔は1000年の、かざりやは江戸時代初期の創業と伝わる。

親指大にちぎった餅にきな粉をまぶし、竹串に刺したものを備長炭であぶって、白味噌のたれをかける。

2軒とも販売は店頭に限定している。

定休日も同じだが白味噌は2軒で異なるものを用いている。

向かい合った2軒はそれぞれひいきが付いていてどちらも繁盛して、

お互いの商売を牽制するような素振りはまったく見せていないそうだ。

しかしながら「本家」「元祖」「正本家」「根本」などの字が双方の店に踊っている。

内と外では様子が異なるのも京都らしい。

尚この日は残念ながらこの長蛇の列を見て食べることをあきらめた。

また次回のおたのしみが一つ増えました。


常照寺

2023-01-18 06:07:24 | 旅 ~京都

紅葉で美しい参道を進み、吉野太夫寄進の山門である赤門をくぐる。

ここ寂光山常照寺は洛北の山裳にあり俗に鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにある。

当山は元和2年3月(1616)本阿弥光悦の土地寄進とその子、光瑳の発願によって

見延山第21世日蓮宗中興の祖と敬仰される寂照院日乾上人を招じて開創された鷹峰檀林(学寮)の旧跡で、

それ以来連綿と続き世に山城六檀林の一偉観をなしてきた。

散り紅葉の美しい境内の正面に見えるのが本堂。

その扁額は日潮上人筆のものだ。

盛大な頃は広大な境内に大小30余棟の堂宇がならび幾百人となく勉学にいそしむ学僧で

賑わったことは本阿弥行状記や元政上人の日記などに紹介されている。

こちらが本堂内の祭壇。

境内内の紅葉と散りもみじの美しさには思わずため息が出るほどだ。

正面の建物が鬼子母尊神堂で右側にチラッと見える建物が常富大菩薩。

本堂から渡り廊下を渡ると広い部屋に出る。

ここでは当寺の説明DVDが流され、さらに住職さんからのお話もあった。

隣りの源光庵が大変な人混みだったのに比べ、

当寺は人があまりおらず住職さんも張り合いがなかったのでは。

吉野太夫の好んだ大丸窓(俗に吉野窓)を配した遺芳庵という茶席。

4月の桜の季節には名妓慰霊のため島原の太夫道中による墓参、供茶法要が営まれ、

境内随所に野点茶席が設けられて京の名物行事となっている。

本堂の右裏手には墓地があり、その中央の建物、「開山廟」には日乾上人の五輪塔のお墓がまつられている。

こちらが吉野太夫のお墓。吉野太夫は遺言により日乾上人廟の裏手に葬られている。

「唱玄院妙蓮日性信女」がその戒名であり、歌舞伎俳優や芸能人、数寄者にこの地を訪れる人々が多い。

都の六条三筋町の廓に寛永の頃、天下の名妓として一世を風靡し、

その才色兼備を謳われた二代目吉野太夫(松田徳子)が光悦の縁故に

より日乾上人にまみゆるやその学徳に帰依し寛永5年23歳のとき

自ら巨財を投じて朱塗の山門を寄進したのが今に残る吉野門だ。

吉野は和歌、蓮歌、俳句、書、茶湯、香道、音曲、囲碁、双六と諸芸に秀で、

その美貌は唐の国にまで喧伝されたという。

粋人の夫との二人のロマンスは後世演劇、歌舞伎にも戯曲化され有名である。

吉野は寛永20年8月25日、38歳で病歿した。

常照寺、この道の先には源光庵がある洛北の静かな住宅街の風景。

 


源光庵

2023-01-17 06:15:03 | 旅 ~京都

当山は鷹峯山寶樹林源光庵と号し、今より670余年前の貞和2年(1346年)

臨済宗大本山大徳寺二代徹翁国師の開創によるものであるが元禄7年(1694年)

加賀(石川県金沢市)大乗寺27代卍山道白禅師が当寺に住持せられ、これより曹洞宗に改まった。

おもむろに山門を抜けていくとこじんまりとした本堂と境内に出る。

この山門の上部2階にある2つの丸窓が他寺の門と違った意匠で強くアピールしてくる。

そして山門をくぐる敷石の両サイドにはレンガを細かく砂状にしたものが敷かれ、

すごく印象的でインパクトがあった。

これは一体何を表しているのだろう?

本堂前の境内の風景と見事に紅葉した1本のもみじの木。

紅葉したもみじの林立の光景は多く見てきたが、

このシンボルツリーのような立派な1本もみじも存在感があって素晴らしい。

それでは本堂裏の庭園を中心に紅葉したもみじと敷きもみじの一段と風情ある写真をご覧ください。

この庭園は枯山水であり、北山を借景とし、四季を通じて趣きがあり、殊に今の時期は最高だ。

本堂内の書と木の板が飾られた部屋と江戸時代中期の山口雪渓筆の山水墨画八面の襖絵。

本堂は元禄7年の創建であり、卍山禅師に帰依した金沢の富商、

中田静家居士の寄進により建立されたものである。

本尊は華厳の釈迦牟尼佛、脇立に阿難尊者、釈葉尊者を祀っている。

ご覧のように参拝者は静かにじっと紅葉の美しさに浸っているが、

後述するがもっと動の情景がこの部屋では繰り広げられていた。

その端がこの2枚。

当庵のテーマは窓と窓越の紅葉光景。

さーて、これが当庵を有名にさせた2014年秋のJR東海「そうだ京都、行こう。」ポスター。

キャッチコピーは「紅葉が宇宙や人生の話になってしまうとはね。」

これもすごいフレーズですネ。

これが当庵秋の最大の売り、悟りの窓と名付けられた丸窓と迷いの窓という角窓。

悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現する。

迷いの窓は角型に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表している。

この2つの窓を撮ろうとご覧のように長蛇の列。

しかも一人一人が哲学者になるのだから、列の進みがイライラするほど遅い。

実に参りました。

この本堂内の血天井は伏見桃山城の遺構であり、

慶長5年7月(1600年)徳川家康の忠臣・鳥居彦右衛門元忠一党1800余人が

石田三成の軍勢と交戦したが、武運拙なく討死し、

残る380余人が自刃して相果てたときの痕跡である。

そういえば今まで多くの京都のブログを書いてきて気になったが、

伏見桃山城の血塗りの板を使った血天井の社寺をいくつかアップした。

この板を再利用した背景には一体何があったのか、是非知りたいものだ。

ということで源光庵の来訪客が実に多かったこと。

ここの駐車場混雑で混乱した状態で静かな一帯はここだけが都会の喧騒状態であった。

源光庵駐車場の向かい側には「鷹ヶ峰光悦美術館」があったが休館中であった。

 


光悦寺

2023-01-16 06:17:23 | 旅 ~京都

東急ハーベスト京都鷹峰を北へ向かっていくと紅葉で有名な3つのお寺がある。

その1つ光悦寺の辺り一帯は鷹峯光悦町とよび、元和元年(1615)徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷として与えた土地で

ある。

京の北、鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を見渡す景勝の地にあるのが光悦寺。

左のこんもり丸い山が鷹ヶ峰右の大きい山が鷲ヶ峰だ。

本阿弥光悦翁は、そこに一族縁者をはじめ、種々の工芸をたずさわる多くの職人と共に住居を構え、光悦翁を中心とする工芸集落を営んだ。

又同時に、本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌所を設け、それが光悦翁の没後、寺となり日蓮宗光悦寺として今日に至っている。

境内の一角には苔むした光悦翁の墓碑が今も鷹ヶ峯の松籟を聞きつつ静かに立っている。

本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を生業とした家である。

光悦翁は永禄元年(1558)本阿弥光二を父、妙秀を母としてその長男に生まれ、加賀前日侯の扶持200万を父の代より受

け、禁裏を始め将軍家及び諸大名の御用をもつとめたが、本業とは不即不離の芸術面に、その豊かな才能を以て多くの作

品を遺したことは日本文化の上に大きな功績である。

光悦翁の創意と指導のもとに作られた作品には作陶における茶碗や、書道絵画における歌巻、色紙版下を書いて出版した

光悦謡本等があり、其の他、蒔絵、彫刻と凡そ多種多様に渉っている。

然もそのいずれもが前人未到の斬新的な表現法であり、今も髙い評価を得ている。

書は寛永の三筆と称され、近衛信平、松花堂昭乗と共に名筆をうたわれた。

又、茶の湯に於いても一流儀に偏することなく古田織部、織田有楽斎にも教えを受け、千宗旦とも深く交わって茶の湯の

奥義を極め、寛永14年2月3日、その偉大な80年の生涯をとじた。

庭園内には光悦垣と称する特徴ある垣根があり、遠近の山々の風情と共に光悦翁への敬慕に集う人々の心の休息所となっ

ている。

この写真の真ん中より上部の緑の小髙い山が後日、紹介しますが、京都に京を造った1つの訳の山「船岡山」だ。

四神相応の1つ北の玄武になる。

ここでも「侘び」「寂び」を感じてしまう

真赤に紅葉したもみじと苔の上に散った散りもみじそして竹としだ。

 

 

光悦寺を出た向かい側にあるのが北山霊厳寺旧蹟 日蓮宗清雲山円成寺。


亀岡 生身天満宮

2023-01-13 06:04:40 | 旅 ~京都

全国に12,000社座す天満宮の中で唯一、ご祭神菅公を存命中からお祀したことから「生身(いきみ)」と称し、日本最古の天満宮として崇敬を集めている。

かつて園部の地に菅原道真公の邸殿があった。

当宮の始祖は武部源蔵。

当時の園部代宮で度々京都から来られていた菅公と交流があった。

大宰府左遷の折、源蔵は菅公より、八男慶能君をかくまい育てるよう内命を受けます。

引受けた源蔵が自ら菅公の御木像を刻み、ひそかに祠を建てた。

延喜元年(901年)、ここを生祠として、お祀りしたのが当宮の始まりです。

昨年10月15日(土)16日(日)行なわれた生身天満宮秋祭りのポスター。

古典的祭事以外によさこい演舞競演、音楽ライブ(雅楽、篠笛、ギターなど)の奉納などが行なわれた。

天神さまにとって牛は神の使い。

ですから当天満宮の鳥居の先には牛が鎮座して出迎えてくれる。

お稲荷さんには狐、八幡さまには鳩の彫刻が多くみられるように、天神さまには臥牛の石像が奉納されている。

鳥居をくぐると本堂まで長い石段を登っていく。雰囲気があったナー。

石段の途中にある厳島神社。

当宮鎮座前より、地主神として祀られていた。

女の子がお参りすると美人になると伝わっている。

女性の守護、芸能などご神徳多大。

こちらはやはり石段の途中にあった国定国光稲荷神社。

長い長い石段を登り切ると本殿そして拝殿に着く。

青いシートで覆われている所が令和の大改修が行なわれている拝殿の建物。

本殿に到着するとスミダマングループの団体正式参拝ということで女性神官より当宮の由緒などの説明があった。

こちらの武部宮司さんは38代目でとてもユニークな方で有名らしい。

生身天満宮最初の宮司は日本三大歌舞伎「菅原伝授手習鑑」に登場する武部源蔵。

もう千年以上も昔のことです。

スミダマン達はこの宮司さんからお祓いを受けこちらの神職さんが手作りした心願成就をされた合格梅(梅干)をいただいた。

現在、1125年記念大祭(令和9年 2027年)に向けて大修復工事が進められている。

第1次が神楽殿、第2次が工事中の拝殿、そして第3次に本殿の保存修理が計画されている。

平成29年5月には裏千家様をお迎えして奉茶式・記念大祭始奉告祭も斎行された。

その為のご浄財募金協力を宮司からおもしろおかしくしかし真剣にお願いされた。

本殿周辺の紅葉がご覧の様に日に映えて本当に素晴しかった。

まるで絵葉書のようでとても印象的な神社でありました。

https://www.ikimi.jp/

 


亀岡 龍穏寺

2023-01-12 06:10:05 | 旅 ~京都

当寺は玉寶山龍穏寺といい、曹洞宗の名刹で、京丹波町し森の玉雲寺、

南丹市小山東町の徳雲寺とともに「三うん寺」と呼ばれ、

現在も末寺31ヶ寺と数えている。

創建は永正6年(1509年)、月山禅宗和尚によって開基されたものと伝えられている。

園部藩国家老であった太田家歴代の墓所があり、

位碑堂正門には太田家の位碑が並んでいる。

当寺は山の中腹にある典型的な曹洞宗寺院で参道と境内に約20本のモミジ、

イチョウの木の紅葉が有名で素晴らしく錦秋の景色が堪能できる。

こちらは総門。

室町時代後期、仁江(にえ)の土豪足立氏の金幡宗全が前述の玉雲寺の

19世月山禅宗和尚とともに開山した。

それではこれから隠れ紅葉のスポットを写真でご紹介しましょう。

まるで絵葉書の世界。

いろいろコメントするよりも写真から何かを感じていただければうれしいです。

こちらは紅葉でも散りもみじ。

美しい中にもののあわれを感じてしまうのはスミダマンだけでしょうか。

山門をくぐってゆっくり登る参道は紅葉のトンネルでまるで夢の世界のようだ。

こちらは参道を下って山門、池方面の風景。

その山門の向こうは下界の日本の原風景である田園風景が広がり、本当に美しい。

こちらでも木々の間から後光のような光が差し込んで思わず手を合わせたくなる。


亀岡 出雲大神宮

2023-01-08 06:31:52 | 旅 ~京都

京都府亀岡市にある出雲大神宮の千年宮鳥居。

この神社は旧称「出雲神社」。

別称として「亀出雲」や「千年宮」ともいわれている。

これが境内案内図。

今回行くとこができなかったが本殿楽殿の横から山に上がっていくところに

パワースポットと呼ばれている磐座といわれる大きな岩石がある。

磐座内は神域で何人たりとも立ち入り禁止のご禁足地となっている。

先日TV番組「三宅裕司のふるさと探訪(BS日テレ)」では特別許可が出て

この御神岩に手を触れている映像を見た。

当神宮は武内社(名神大社)、丹波国一之宮。

旧社格は国幣中社で現在は神社本庁に属していない単立神社だ。

当神宮の紅葉。

もみじの本殿は少ないが晴れた光に映えてとても美しい。

表参道を歩いていくと「アレッこれ何?」という落葉アートに出会った。

今年の干支「卯」年にちなんだ「うさぎ」、ハートのマーク、

ニコニコマークに女の子の姿(?)。

これは傑作と思ったのが龍。

みな落葉を利用してこの参道で手作りのあめを売っている屋台のおばさんが

約10年前から画き続けているらしい。

こちらは神池に浮かぶように建立された摂社「弁財天社」。

海の神、航海の神、道案内の守、そして芸能守護、財運守護、女性守護の女神でもある。

こちらは表参道を進んで境内に入るところの一之鳥居。

このうさぎの石像は「しあわせなぜうさぎ」というらしい。

今年は卯年なので多勢の人が参拝に来てなぜていくのでしょう。

ここ最近の神社はコロナ禍で手水舎は水を止めているところが多いが、

当神社は龍の口から勢いよく水が出ていたのが印象に残った。

小さな真新しく朱色に塗られた鳥居の中は夫婦岩。

今度は社殿創建1305年を記念して伝統工芸信楽の2像をお祀りした「大国恵比寿舎」。

拝殿、本殿までの間には次々と色々な神様が続けて祀られている。

こちらは「真名井のいずみ」という湧き水で古来より御神水を崇められてきた。

そして一番奥に拝殿・本殿となる。

こちらの本殿の後の山が神体とす御陰山。

この日はカラッとした晴天ということもあってか、

この神社は滅多に感じないがすごく良い気が流れていて

とっても気持ちが良く心が洗われるような気分を味わえた。

社殿創建は和銅2年(709年)というから1300年の歴史がある。

本殿は鎌倉時代初期(元穂年中に建立)。

貞和元年(1345年)足利尊氏により現在の社殿が造営された。

兼好法師による徒然草にも236段に「丹波に出雲と云う所あり」と書かれている。

当神宮は「縁結び神社」で有名な出雲大社の公式サイトで戦後現在の出雲大神宮に改称した。

 


亀岡 神蔵寺

2023-01-06 07:00:07 | 旅 ~京都

東急ハーベスト京都鷹峯の予約を取る為に行く事に成った「亀岡紅葉巡りツアー」。

当初あまり期待をしていなかったが、意外にも素晴しい隠れた紅葉名所の数々。

これがこんな企画が無かったら訪れることのない至福のツアーとなった。

それでは亀岡のツアー始まり始まり。

ご覧の様になんとなくうら寂しい片田舎にある朝日山神蔵寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、奈良薬師寺に始まり比叡山に結願する西国四十九薬師霊場で第四

十三番目札所となっている。

桓武天皇の延歴9年(790)、伝教大師最澄(御歳二四歳)が比叡山で修行をされ始めて5年目、叡山より西の方、常に紫雲たなびき朝日に映じて赤々たるこの山

を望みて、大師自らこの地に来られて、一寺を建立されたのが当寺の始まりといわれている。

比叡山の真西に位置し、朝日山(あさひざん)神蔵寺(じんぞうじ)と号して大師御自ら薬師如来をお刻みになって、天台の道場として開創され、以来百数十年

の間に源頼光はじめ、源氏一門の帰依崇拝尊く、大いに栄えていた。

治承4年(1180年)源頼政が、以仁王を奉じて平家を討ち破ろうと兵を挙げた時、当山の僧兵は三井寺(滋賀県園城寺)の僧兵と合して、財法を地中に埋めて近

江に駆け参じた。

しかし頼政は宇治川に敗れ、その首は丹波の当寺へ葬らんと持ち帰ったが果せず途中に葬られたのが頼政塚(亀岡市篠町)といわれている。

当寺は寺領を没収され、ご本尊の佛像だけを残して荒れ果てた草ぼうの地となったといわれている。

頼政公兜の守り本尊の金銅の小薬師仏が当寺に伝わっているのも頼政公との縁が深かったことを物語っている。

時は戦国、天正3年(1575年)、織田信長公の命で明智日向守光秀公が丹波に入口の際、この寺院も一宇残さず焼け落ちたといわれている。

しかしこの時、何人かが本尊薬師佛をこもに巻き、山中の岩下に隠してその難を逃れ給うたといい、この谷から流れる川を今も「菰川(こもがわ)」と呼ばれている。

徳川の世、延宝7年(1679年)亀山城主、松平忠昭公は臨済宗妙心寺派の僧髙隠玄厚和尚を請じで寺門を再興され、以来13世代の臨済禅の法脈を継承して現

在に至っている。

昭和47年、文化庁・京都府・亀岡市の補助を仰いで本堂西側にこの収蔵庫が建設され、本尊である薬師如来座像(重要文化財)。両脇侍の日光菩薩、月光菩

薩が収容されてきた。

その後平成8年にこの収蔵庫薬師堂「東方閣」の大改築が完成した。

当寺の手水舎はとてもひなびたものでそれなりの味がある。

又その近くには石と苔の上に小さな見ざる、言わざる、聞かざるのかわいいふくろうの人形と真紅なもみじの葉が飾られてあり、何かを語っているようだ。

この日は当寺の女性住職が丁寧に色々な説明をしてくれた。

右奥の大きな大木は当寺名物のモミジ天上の木だ。

片田舎のひなびたお寺の枝振りに味がある古木に柿の実がなっているのがスミダマンの目に詩情ある風景として物悲しげに映ってきた。

今回の旅で特に目に付いた南天の木。特にこちらのは立派な南天だった。

帰りがけに見た何か後光が差しているこの写真は神蔵寺の象徴的な一枚と成った。

「本堂の背後にそびえる朝日山(海抜460M)は、峰を渡り、崖を登り、谷に入って滝に打たれる回峰行場の名残を残し、秋口から初冬にかけて、山の頂きか

ら丹波の霞を見下ろして、また東に比叡山を望む光景は、まさに瑠璃光の世界を思わせる光景だ。」


京都の街あれこれPART12

2022-12-22 06:05:25 | 旅 ~京都

京都の街を歩いて気になったとこ、気付いたことをアップする

「京都の街あれこれ」シリーズも今回で12作目になりました。

今回も気ままに京都を切り取って読者の方にお届けいたします。

「そうだ京都、行こう」でもアップしましたが、今年の紅葉の京都は大変な人出。

京都の観光にはタクシーは切っても切れない大事な足。

今回は事前にそれを予期して、タクシーをネットで呼べるアプリ

「Goタクシー」入れてきてこれが大戦力となった。

初日の観光スケジュールは「梨木神社」「蘆山寺」を見て、

それから寺町通を南にテクテク下った。

途中に気になったことが沢山あったので順次紹介していきます。

この建物は京都府立鴨沂高等学校の校舎。

とても学校の校舎とは思えない風格の漂う建物だ。

当校は日本で最初の公立女学校として1872年(明治5年)設立されたという伝統校だった。

学校(京都府尋常中学校)の前にはその歴史を誇るように明治天皇の行幸の碑が建っている。

京都御苑の隣りで下水道工事の現場があった。

そこの仮囲いには今まで見たことないような景観を意識した絵のパネルを使っていた。

和風の壁を模したもので日本瓦が乗っている。

さらに一部の壁は人工芝で壁面緑化までしている徹底ぶり。

こんなところも京都は最先端を行っている。

ここ京都市歴史資料館は京都の歴史に関する資料の保存と活用を図り、

市民の文化の向上及び発展に役立てることを目的として昭和57年11月に開館した。

この日は残念ながら閉館していたため中には入れなかった。

資料館の前のシンボルツリーは上京区民の誇りの木、ナンキンハゼ。

この建物は新島襄旧邸で同志社の創立者の自邸として建設されたもので、

明治11年(1878)に竣工した。

設計は宣教医テーラーの助言をもとに新島自身が行ったといわれている。

外観はコロニアルスタイルを基本としているが細部装飾がほとんどなく

真壁の白い壁面に配された茶褐色の木部が単純明快な美しさを見せている。

この建物は京都市指定有形文化財になっている。

こちらは新島邸と同じ敷地内にある同志社新島会館。

なかなか落ち着いて味のある建物だ。

敷地センターのシンボルツリーが効いている。

いよいよ寺町通を丸太町通を渡って次のエリアに入る。

この日はあいにくの小雨模様。

京都市街の中でスミダマンの大好きな東山連峰の風景も山頂付近に雲がかかりその迫力が半減してしまった。

突然トイレに行きたくなり下御霊神社の前にあるとてもお洒落で

センスのあるプチホテルに了解をいただいてトイレをお借りした。

そのホテルの名は「THE SCREEN」といって外国人が多く利用する4つ星のセレクタブルホテルだった。

その時の女性スタッフの対応が素晴らしく、旅の出会いの1つとして頭にインプットされた。

わずかの時間であったが、楽しい会話ができ、とても心が豊かになった。

寺町通には古書、骨董品などを扱う老舗店が多い中で、

モダンな美術を展示している画廊などもある。

次の予約時間まで余裕があったのでそのうちの1つの画廊アートスペース余花庵に飛び込んだ。

京都にて初個展の「橋本安希子展-書美を求めて」

古の文字を通じて新しい表現を模索。

江戸時代末期、京都所司代を務めた間部詮勝(まなべ あきかつ)の萬居跡。

氏は越前鯖江藩第7代藩主。

幕末に老中首座を務めた。

明治17年没。

寺町通をさらに下り、御池通りを渡るとアーケード商店街の通りに入る。

そのすぐ先は鳩居堂などに出る。

御池通を渡ってすぐ右角の古い店が、天保3年(1832年)創業の京菓子司「亀屋良永」さん。

代表銘菓は御池煎餅や小倉山をはじめとした羊羹、季節の御干菓子を取り揃えている。

以前、TVでも放映された寺町通にある歴史ある古書店「竹苞書楼」さん。

創業なんと280年で能や狂言、華や茶、浮世絵など古典芸能に関わるものを扱っている。

寺町商店街アーケードのディスプレイがまたすごい。

お寺の梵鐘を模した照明器具が3つ吊るされている。

鳩居堂には来年の干支卯のかわいらしい人形がいくつか飾られ、売られていた。

2022-10-4にアップした矢田寺のところにまたまた来てしまった。

何かの縁を感じてしまう。

前回は撮った写真の半分がボケてしまい、何かの祟りと考えてしまったが、

今回は慎重にシャッターを押したので良くは撮れていないがボケたものも1枚もなかった。

決して祟りではなくただ写真技術がなかっただけのことだった。

本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は俗に代受苦地蔵と呼ばれ、

地獄で亡者を救う地蔵として人々の信者を集めている。

また、当寺の梵鐘は六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、

死者の霊を迷わず冥上へ送るために撞く鐘として人々から信仰されている。

以前アップした俵屋がプロデュースしている天ぷらの「点邑」さんと

日本旅館俵屋さんの中間あたりにある「ギャラリー遊形」さん。

当店は俵屋で使っているオリジナルの商品を販売しているお店だ。

特に有名なのが香りが素晴らしいと評判のオリジナル石鹸。

値段も手頃だしおみやげに最高だ。

また、俵屋で使っているベッド寝具をはじめナイトガウンまで販売しているのには驚いた。

 

 

 

 


宝筐院(ほうきょういん)

2022-12-21 06:19:47 | 旅 ~京都

ここ宝筐院の略史を綴ってみましょう。

平安時代に白河天皇(1053~1129)により建てられ、善入社と名付けられた。

南北朝時代になり、夢窓口国師の髙弟の黙庵諭禅師が入寺し、室町時代の二代将軍足利義詮の保護を得て伽藍が整備され、これ以後は臨済宗の寺となった。

ここは門の出口。

貞治6年(1367)義詮が没する(38才)と、善入寺はその菩提寺となり、義詮の院号に因み寺名は宝筐寺と改められ、

足利幕府厂代の保護もあって寺も隆盛であったが、応仁の乱以後は経済的に困窮し次第に衰退し、明治の初めには廃寺となったが、50数年をへて復興された。

門を入ると見事に紅葉した参道が続く。

前日アップした常寂光寺の紅葉も素晴しかったが、当院のは負けずとも劣らない。

いやそれ以上の紅葉の世界がどこまでも広がる。

皆門をくぐって院内に入るとその圧倒的な紅葉に思わず立ち止まってカメラマンに変身してしまう。

紅葉も素晴しいが、赤く散った敷紅葉も「侘び」「寂び」の世界を感じさせ儚ささえ伝えてくる。

それでは当院の素晴しい紅葉を順次アップしてみましょう。

やはり赤一色より黄・緑が混じった方が見栄えがして見応えがありますネー。

本堂の中もまるで撮影会の会場のようで神聖なお寺の空気が当院ではあまり感じられなかった。

そんな中、祭壇には古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像の本尊の存在感がスミダマンには心に留まった。

さらに素晴しい紅葉写真をアップし続けましょう。

書院から本堂の周辺は白砂・青苔と多くのカエデや四季折々の花、

特に今は枝だけになったシンボルツリー的な主張をしているしだれ桜の木などの回遊式の庭園が広がり晩秋の院内に彩を添えていた。

回遊式庭園を進んでいくと突然、ヨーロッパ調の彫刻に遭遇。

和の庭園の中になぜ?といった異和感を感じた。

正平3年・貞和4年(1348)正月、河内の口の南朝の武将楠木正行は四条綴の合戦で、

北朝の大軍と戦い討ち死にし(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。

後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように耐んだ。

石の棚に囲まれて二基の石塔が立つ。

五輪塔は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから)、三層石塔は足利義詮の墓と伝える。

本当に宝筐院の紅葉は美しかった。

昨年の夏、人力車えびす屋の俥夫に「紅葉の穴場 宝筐院に是非行ってみて下さい。」と言われたのを思い出して訪問した甲斐があったというものだ。