今回のレポは3・11大震災発生以降、福島第一原発で
日本を救う為、命を賭け、死にもの狂いで任務を全うした
「福島フィフティーン」と言われる人々の秘話です。
我々一般市民は事の詳細を何も知らないで、今、毎日
生活をしているが、門田氏の吉田所長をはじめ
所員の直の面談によってそのすさまじい真実を
知らされビックリ仰天した。
氏は1958年高知県生まれ。1983年中央大学法学部卒業後
新潮社入社。週刊新潮編集部副部長などを経て
2008年にフリージャーナリスト・ノンフィクション作家として独立
著書は「甲子園への遺言ー伝説の打撃コーチ鼻導宏の生涯」
「なぜ君は絶望と闘えたのかー木村洋の3300日」
2010年9月「この命、義に捧ぐ」で第19回山本七平賞を受賞
そして問題のテーマ「死の淵を見た男のー吉田昌郎と福島第一原発の500日を出版した。
演題は「極限のリーダーシップ~東電の吉田昌郎前所長が遺したメッセージ~」
この話はものすごい話であった。
吉田所長以下多くの当事者から直接聞き取った話で
圧倒的迫力で実はそうだったのかと唸ってしまう程であった。
・最初に氏は朝日新聞と戦争をした話から入った。
朝日新聞が「所長命令に反して90%の所員が逃げた」
という著しい誤り報道について厳しく批判した。
・氏はこのことについて数10名の関係者に会って聞いたが
朝日新聞の記者は一人の取材もしていない。
・その結果、一目してデタラメだと分かった
なぜデタラメを書くのか?朝日新聞の根底には自社の
主義・主張があり、そのシナリオで記事を書いてしまう。
眉に唾して新聞は読まなくてはいけない。
・最終的に朝日新聞が謝罪してきて9月11日に決着した
・実際の話は福島フィフティ(69名)は俺が死んだら
お前が行く。10%の人が行けば10回戦える
それを朝日新聞は事実を真逆に書いて全世界へ報道した
・このことを通じて門田氏は戦後ジャーナリズムでは
真実は出てこないだろうと直感した。
・門田はその場に身を置く癖から3月11日~3月14日まで怖くて
仕方がなかったと言う
全電源が切れ、真っ暗闇の原発で放射能がどうなっているのか
自分が取材をしなければならないと思った
・それから1年3ケ月間、吉田所長に会う為
知り合い、同僚、上司、先輩、同級生を
通じて説得を続けた
この事をどうしても後世に残さなければならないと思ったからである。
2012年12月、吉田所長は抗がん剤治療を受けながら
門田の所へ訪ねてきた
初めて会った印象はただのオッサン
そして「全部話すから何でも聞いてくれ。
とにかく部下がすごかった。そうでなければ東日本が
壊滅していた。そんな切実な話を聞いてほしい。」と言った
吉田所長の単独インタビューは門田だけだった。
・門田はまず礼を言った。そして日本史の歴史に残る
真実を後世に残してほしい。
(福島第一原発事故は日本史の中で必ず黒ゴシックの事故として
記録されると門田は言っていた)歴史に向かって証言してくださいと言った。
・原発事故の最悪の想定被害規模に関しては
所長は「チェルノブイリの10倍だよ」と言った。
原子力安全委員会のトップは「人の住めない東日本。
安全な北海道と西日本の日本3分割」と言っている。
・又、菅元総理に取材した。「どこまでも想定だが、最低でも
避難民は5000万人」と言った。そしてあの市民運動家出身の
菅氏が一番思い悩んだのは天皇陛下、天皇家をいつ、どこへ
どうゆう方法で移っていただくかだった。」
門田は意外な証言だと感じた。
・ここからが衝撃的な事実を具体的名前を出して語り続けた。
90名の所員の話として「吉田所長となら一緒に死ねると言う人が何人もいたと。」
・第2波の津波がきて、吉田の最初にやったことは
消防車の要請だった。なぜなら冷却する真水が絶対に足らない。
3台あった消防車の内、2台が破壊された。原子炉を冷却するには
太平洋の海水を使うしかない。この発想がまず日本を救った。
・3月12日早朝自衛隊郡山駐屯地からW陸曹が消防車2台を持って来た。
この時W陸曹を神様が来たと思った。これでひょっとしたら
日本は助かるかもしれないと何人もの人が言った。
・それから放射能の中を水を注入するルート、ラインの構築が始まった。
・この日の当直長はI氏。「こいつがいたから日本は助かった」と吉田はいう。
・門田はライン構築したほとんどの人に会った。
防護服のみで突入。熱くて涙が目に入る。
3月11日午後8:00入居不可の命令が出た時にはライン構築は終わっていた。
これで日本が助かる可能性が出てきた。
・3月12日夜中ベント( 風船が破裂する前に弁を空ける)の命令が出る。
耐火服、酸素ボンベを着け宇宙遊泳のかっこうで突入する。
このメンバーを決めなくてはならない時が来た。
I氏(双葉町出身)は言った。「皆聞いてくれ、これからベントに行く人を決める。
申し訳ないが若い人は行かせられない。行ける人は手を上げてくれ。」
その時の状況は空気が固まってしまった様。金縛りにあった様。
シーンと沈黙。(2秒~30秒位が2~3分位に感じた。)
沈黙を破ったのはI氏。「まずは俺が行く。俺と行く人手を上げて」
多い人は5回突入した。その時の心境を聞くと
「楽になりたかった。」とI氏の2年先輩、人のよさそうなO氏が言った。
「I君それは駄目だよ。君は全体を把握している。残って指揮を執れ」
続いて60才近いH氏が言った。「I残れ、俺が行く」
次々と俺が行く・・・。凍った空気が溶けた。I氏は呆然とした。
・O氏は格納器が爆発すれば一緒に家族も死ぬ。
弁の前にたどりつかなければいけない。それまでは死ねない。
・3月12日9時02分命令 9時04分突入 2重扉の先は死の世界だった。
MO弁空ければ日本は救われる。この間約11分 1時間から2時間に
感じた作業が完了。帰って来た時の歓声が一番すごかった。
(福島フィフティーズ 談)
・奇跡が起き日本が助かった瞬間だった。
・AO弁を空けるK氏E氏組は決死の作業をしたが失敗。この時吉田所長は
外からコンプレッサー内から磁石で何千回もトライ。とうとうあいた。
・取材している中でいくつも感動話に出会った。その1つ、地元工業高卒の
Y氏は突入を志願した1人で原子炉5号機の副長を務めていた。その前は1号機を
担当。Y氏は「10年間、一号機が自分を育ててくれた。」
その彼が言うには「原子炉はただの機械ではないんですよ。各機は
性格がちがうんですヨ。一号機はいいやつ。親思いのもあればヤンチャなやつもある。」
・Y氏の一年後輩のS氏はどうしても一号機を助けてあげたかった。
彼は心の中で家族のことを考え、パパが行くからネと言いながら突入していった。
・又Y氏はやりのこしたことがあると思うと心が折れそうになった。
何度聞いても話してくれなかったが10回目の質問に
突然目に涙を浮かべて「今まで幸せだったと
女房に言えないまま死ぬのがつらかった」と答えた。
このY氏も吉田所長となら死ねると言った一人だ。
・そして門田氏は話の総括をした。どれ程このことを日本人は認識しているのか?
そこには本義に忠実にそして毅然として生きた日本人がそこには居た。
・そして門田氏は口まねをしながら話を続けた。
「オイ、吉田!俺だ」(T氏東大卒の東電フェロー)
「海水注入 やめろ!」
所長「何を言っているんですか」TELは切れた。
そして海水注入STOPの業務命令が本店から来た。
・本義とは何か。東電の本義は電気を供給すること。そしてエリートは
関係者のいうことを聞くことが本義だった。しかし吉田所長は国家国民の命を
守ることが本義だった。そもそも日本は現場力で生きてきた。
現場の人のみが・・・。
・福島第一原発の吉田昌郎所長は「本義とは何かを残していった。
長文にお付き合い、いただき有難うございました。