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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

会津鶴ヶ城と茶室

2020-09-12 06:34:18 | 旅 ~国内

会津鶴ヶ城の案内図。

左側には鶴ヶ城歴代領主とその家紋が書かれ、その変遷がわかる。

1384年(至徳元年)華名家東黒川城を建てる。

1589年(天正17年)伊達政宗が会津に入る。

1590年(天正18年)蒲生氏郷が会津藩主として黒川城に入る。

1598年(慶長3年)上杉景勝が入り120万石となる。

1601年(慶長6年)上杉景勝が米沢に転じ蒲生氏郷の子・秀行が会津に入る。

1627年(寛永4年)伊予松山より加藤嘉明が会津に、天守閣を五層に改める。

1642年(寛永20年)三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で入封。

1862年(文久2年)松平容保京都守護職に命じられる。

1868年(慶応4年)戊辰戦争1ヶ月龍城の末、開城。

西出丸駐車場に車を置き、梅坂のダラダラ坂を登り、

観光案内所管理事務の前を通って鶴ヶ城天守閣へ。

会津は盆地の為とにかく暑い。

幕末の戊辰戦争で約1ヶ月に及ぶ戦いが鶴ヶ城中心に行われた。

鶴ヶ城は砲弾にさらされ傷つき荒れ果てた。

戊辰戦争後、天守閣は政府の命令により取り壊された。

市民の願いが叶い、天守閣が復元されたのは昭和40年のことであります。

再建された天守閣内は郷土博物館として会津の歴史や文化を紹介している。

一層は鶴ヶ城の歴史と会津の遺産。

二層は領主の変遷と国づくり、会津を治めた歴代城主。

三層は幕末の動乱と会津、戊辰戦争や白虎隊など幕末期を中心に紹介。

四層は会津のゆかりの先人たち、明治に生きた会津人。

五層は城下町展望、雄大な会津の景色と城下町を一望。

又、天守閣の屋根瓦を2011年に赤瓦に葺き替え、

他の城とは全体を見ると趣が違って見える。

尚、今回は天守閣には登りませんでした。

天守閣の一角にはかなりの古木桜があった。

さぞ春の桜の季節は天守閣と相まって

この一帯は華やいだ風景になっている事だろう。

この石垣は鶴ヶ城の大手門の渡り櫓などへ

簡単に昇り降りができるように造られている。

V字型に造られており「武者走り」とも呼ばれ、

鶴ヶ城の石垣の特色の一つになっている。

天守閣方向から茶室・麟閣の方面を撮った一枚。

芝生の庭が広々としてよく整備された気持ちの良い空間だ。

茶室・麟閣は千利休の子・千少庵が建てたと言われる茶室で、

蒲生時代の創建の伝承をもち、

武家茶道の様式を備えた茶室として珍しい建物です。

明治7年に若松城解体の際、城下に移築され保存されていましたが

平成2年に元の場所である鶴ヶ城内に移築復元された。

天正19年、千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられた。

この時、千利休の茶道が途絶えることを惜しんだ

会津の領主、蒲生氏郷は利久の子の小庵を会津に匿い、

豊臣秀吉に「千家復興」を願い出た。

この結果、武者小路千家、表千家、裏千家の

三千家が興され現在に伝えられている。

戊辰戦争後は茶人・森川義兵衛宅で大切に保存され、

平成2年会津若松市市制90周年を記念して、

この麟閣を元の場所へ移築復元し後世に伝えるものとした。

茶会に先立って客が連客と待ち合せたり、身支度を整えて

席入りの準備をするための場所で寄付という。

客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立ちの際に一旦露地に出て、

後の席入りの合図を待つ場所である腰掛待合。

内路地の出入口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、

茶室のにじり口も同様、潜りの意味が込められている。

露地にある水場のことで、つくばいという。

客は手水鉢で手を洗い、口をすすいで席に入る。

この手水鉢は鶴ヶ城の遺構を活かしたものだそうだ。

茶室・麟閣は本丸御殿の最端部にあり、

特別な客を招き入れることを意味している。

現在は数寄屋座敷の一部である鎖の間と

三畳台目を中心として茶室のみが復元されている。

茶室の床柱は千少庵が削ったと伝えられ、

表千家ご当主の扁額が二つ掲げられている。

「にじり口」と言って茶室特有の出入口。

頭を下げ体を縮めないと入れない小さな入口とすることで

平等の精神をあらわしている。

麟閣では小庵を偲びながらお抹茶を楽しむことができる。

饅頭付で一服600円。

武者小路千家ご当主の扁額がかかげられている裏門。

ここは本丸唯一の高桜建築「御三階」があった。

藩主の御休息の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近づけなかった。

会津若松市としては将来再び往時のような姿で

よみがえらせる事も検討しているとのこと。

鶴ヶ城は戊辰戦争の後、解体されたことが強いイメージとして残っているが

前述した城の歴史通り、ここも二の丸、三の丸など立派な城郭を巡らせ、

そして堀もしっかりと造られている。


会津藩校 日新館

2020-09-11 06:28:37 | 旅 ~国内

会津藩校日新館の案内絵図。

江戸時代全国三百藩校の中でも規模・内容とも随一と謳われた

「日新館」は戊辰戦争で焼失した。その後会津の精神文化を後世に

伝えようと昭和62年に完全復元された。

https://nisshinkan.jp/

会津藩の有名な教育方針「什の掟」(じゅうのおきて)

「ならぬことはならぬものです。」

大河ドラマ「八重の桜」でも絶えず発信していた。

この什の掟は6歳~9歳まえの子供たちに徹底的に教え込まれたそうだ。

白虎隊の学舎「日新館」。

復元されたご当地は総敷地面積38000坪と鶴ヶ城の西側にあった本物

(面積8000坪)の5倍弱の広大な広さだ。

因みに観覧券は620円。

又、この獅子(永楽大康獅子)は日新館の守護にあたり世の中の安泰を願う獅子だ。

中国明時代の様式によるもの。

会津藩校の日新館は五代藩主松平容頌の時代に家老田中玄宰の

「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の育成にあり」

によって企画され享和三年(1803年)に5年の歳月をかけて完成した。

因みに「日新」の名は大学の

「筍二日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ、又日ニ新タニセン」

の文に由来している。

会津が生んだ有名な山川兄弟の三男山川健次郎の像。

健次郎は白虎隊の兵士として明治政府と戦ったが、後に国費で米国イェール大学へ

留学し東京帝国大学総長、九州帝大初代総長。

京都帝国大学総長、旧制武蔵高校校長などを務めた。

専門分野は物理学。

兄の大蔵(山川浩)は明治の軍人として陸軍少将

高等師範学校(筑波大学の前身)校長などを務めた。

妹の大山捨松は大山巌の妻。

看護師教育、津田梅子の旧友として女子教育を支援。

スペイン風邪で亡くなった。

この南門は藩主を初めとする上級武士だけが出入りを許され、普段は閉じられていた。

生徒の登下校は両側にある東門と西門を使用していた。

重要な建物を守るために「戟」(げき)という武器を持った衛兵を置いて監視させたことから

戟門と呼ばれていた。当時は門に太鼓を置いて授業の時刻を知らせていた。

その当時はさまざまな刀術の流派のもと、少年達は腕を磨きあっていた西武学寮。

今は、当時の日新館設立の様子や学習の内容、そして現在の日新館の説明も

わかりやすく映写により紹介している。

左の映写室、その先の幕末・明治記念室に続く長屋のような建物は本当に長い棟になっている。

東塾にデンと飾られている絵巻のような絵。

よく見ると日新館の広さは東西226Ⅿ南北116Ⅿ建物は1500坪あったという。

戟門から見た大成殿。

広い中庭のような所にU字型に掘られた池。

そして逆に大成殿方面から見た戟門。

ここに郷愁の旧藩校を復元し、江戸時代建築の粋を集めた観光博物館として

更に本学の教育網領にもとづく研修の場として広く社会に提供し

国際的にも開かれた社会教育の拠点とした。

ここ東塾は西塾とともに初等教育の校舎で東西塾を合わせて素読所といった。

10歳で入学すると生徒は素読所に入り、論語を中心とした漢文の読み方を勉強した。

現在は当時の授業風景を人形により再現している。

なんとなく生々しさを感じる人形で各部屋、コーナーで光景から内容を見学者に

ストレートに伝えてくる。ここは素読所での勉強風景。

白虎隊士の個人的紹介もされている。

日新館の生徒たちが使っていた書道のお手本。

書は大切な武士のたしなみでした。

廊下の天井部分には各々のテーマの表示がされてあり、とても見やすくて分かりやすい。

「掃除風景」「天文学の学習」「礼式の学習」「昼休みの風景」など。

白虎隊士が部屋の掃除をしている所、この人形を通じて実際の隊士の紹介が

されて単なる人形ではないように思えてくる。

日新館ではこのような天球儀を用いて天文学の勉強もしていた。

単なる精神論だけでなく、ずいぶん科学的な勉強もしていたのですネ。

膳椀の置き方から切腹の作法にいたるまで、武士としての必要な作法も学んでいた。

京都の医師の子として生まれ、後に全国でも知られる儒学者になった

山崎闇斎(1618-1682)の像。

会津藩主・保科正之に招かれ、会津藩士に儒学を教えて会津藩の

教育水準は飛躍的に向上したといわれている。

大学の室内の様子。

ここではおじぎの仕方(貴人に対しての真の礼、先輩・同僚に対しの行の礼

後輩に対しての草の礼)、又鼻のかみ方、箸づかい、おふろのすすめ方

扇のつかい方といった日常の細かいことまでも勉強させた。

会津松平家は二代将軍徳川秀忠の第4男、保科正之を祖として寛永二十年(1643年)に

会津班23万石を領した。慶安四年(1651年)に三代将軍家光が亡くなった後も

四代将軍家綱を助け幕府の大政に参画した。

保科正之は会津藩を「天下の各藩」と呼ばしめる基礎をつくった。

そして会津松平家の略計。秩父宮妃も松平家から出ている。

写真の右側には京都守護職を務めた松平容保の写真がある。

ここ体制殿は儒教の祖である孔子を祀っている。

又、孔子の弟子たちである顔子、曽子、孟子、子思子像が配されている。

会津藩校の資料館の入口、この館内は撮影禁止の為、貴重な資料は撮れず。

日進館の教育は藩祖(保科正之)の遺訓を旨にし、文武両道にわたる巾広い内容であった。

文は漢字を主とし、天文学・蘭学・舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、

今日の小学校から大学まであり、武は兵学をはじめ、弓術・刀術等武芸全体に及び

学力の水準は群を抜いていたという。

弓道場は磐梯山に向かって射る雄大な道場で3つの派の弓術を教えていた。

隣りには弓道体験場があり5本300円で武士の気分を楽しめる。

弓道場では赤べこ(920円)起上り小法師(770円)で絵付け体験もできる。

ここ日新館は結構楽しめるコーナーがあった。

水練水池といわれている水練場は日本で初めて造られたプールといわれている。

池の周囲は85間(約153メートル)もあり、向井流という泳法を学び、

甲冑をつけての水練も行われた。

水練場を備えていた藩校は日新館の他に長州藩の明倫館だけでした。(2018-12-22付 ブログ参照)

幕末明治記念館は西武学寮とよばれ剣術や槍術など武道の練習場として使用されていた。

現在は白虎隊をはじめ日新館の資料などを展示している。

その中に戊辰戦争で主戦場になりボロボロに傷ついた鶴ヶ城の写真が

痛々しい姿で現代人に訴えてくる。

兵学を研究する所の「武講」。

城の造り方や軍事教練を行い、軍事奉行に属し、今日の防衛大学校のようなものでした。

入口玄関の所には会津武士の人形が、会津藩の旗印を持って立っていた。

天文観測施設として実際に使われていた天文台。

冬至にはここで天体を観測し暦をつくった。

日新館の他に天文台があった藩校は水戸藩の弘道館、薩摩藩の造士館だけといわれている。

ここに登ると結構高く、日新館の全体が見渡すことができる。

「義の想い、つなげ未来へ戊辰150周年」

こののぼりを見ると戊辰戦争で賊軍の烙印を長く背負った会津藩の想いみたいなものを感じる。

ここはみあげ物屋の「ふるさとおこし館」と会津の郷土料理などが味わえる「食事寮楽放亭」

大駐車場から入口に向かう途中に貸傘用の車がとまっていた。

よくタイヤを見ると常設している車のようだ。

このシステムも「什の掟」の精神がベースにあるのではと感じた。

 

未来に夢をはせた白虎隊の精神

「ならぬことは ならぬ」

ここ会津藩校日新館は会津若松の郊外小高い丘の上にあり、素晴らしい施設だ。

今、コロナの影響もあり訪問したこの日はほとんど人気がなく

じっくりと江戸時代の会津藩の世界に浸ることができた。

ここは是非一度は見学する価値があると感じました。

 

 

 

 

 

 

 


磐梯山・会津若松の旅

2020-09-01 06:13:44 | 旅 ~国内

Go Toトラベルということでコロナ後、初めて2泊3日の旅に出ました。

行き先は久し振りの会津磐梯山と会津若松方面へ。

天候にも恵まれ、コロナのストレス解消ができた楽しい旅に成りました。

旅をするにあたってコロナ感染防止を考えて

郡山まで新幹線(空きを狙って郡山終点の新幹線)に乗り、

密を避けてレンタカーで行動をしました。

世界中から集められたガラス製品を一同に展示した

日本最大級のガラス専門ギャラリーの「世界のガラス館 猪苗代店」。

敷地内には国際ビール大賞金賞受賞の猪苗代地ビールをお楽しみいただける

猪苗代地ビール館や、地元の銘菓やスイーツを集めた

猪苗代お菓子館を併設している。

猪苗代湖のほとり、野口英世記念館、

世界のガラス館周辺にある河京ラーメン館猪苗代店。

2階のビュッフェはなんとラーメンの食べ放題。

もちろんラーメンだけでなく約30種のサイドメニューも食べ放題。

一番の自慢は自家製麺と本格的な手作りスープ。

ラーメン通には是非試して欲しい、こだわりのちぢれ麺が味わえる。

店内は会津の伝統郷土玩具である「赤べこ」をイメージした

赤と黒のデザインで来た人をわくわくさせる。

この一帯のあらゆる所には7年前、放映されたNHK大河ドラマ

「八重の桜」のポスターが未だに貼りだされているのを見た。

幕末のジャンヌ・ダルクといわれた新島八重の生涯を描いた大作で

八重を綾瀬はるかが演じた。

これを見ると会津の人達は新島八重を英雄として

誇りに感じているのではと勝手に理解した。

宿泊したホテルのすぐ近くに立派なクラシカルっぽいホテルがあった。

裏磐梯レイクリゾート(旧裏磐梯猫魔ホテル)で

日常から切り離された大人のラグジュアリーステイが楽しめるらしい。

人の話によるとインバウンドの中国人が多く利用するらしい。

火山と噴火の全てがわかる磐梯山噴火記念館と3Dワールド。

四季それぞれに美しい磐梯高原。

その美しい姿も1888年の水蒸気爆発の

多くの犠牲の上に築かれていることを忘れないため、

そして噴火後の磐梯高原について学ぶことができる火山博物館です。

又、3Dワールドでは1888年の噴火を3Dで再現。

空中に舞う巨石、すさまじい泥流、

噴火を予知した動物たちの逃げまどう様子が体感できる。

まゆ玉で作ったアマビエ 1個 880円。

アマビエは日本に伝わる妖怪で一見髪の長い人魚のようにも見えるが

鳥のようなクチバシ、目と鼻は菱形、

海中から光をかがやかせるなどの現象を起こし

豊作・疫病などの予言をしたとされる。

疫病退散のお守りでコロナ対策にピッタリだ。

五色沼の一つ毘沙門沼へ行く途中にあった立派な記念碑には

「平時災害救護発祥の地」と書かれてあった。

いったいどんな災害救護がここであったのだろう。

赤い赤十字のマークが目に付いた。

会津若松市内に入って一際目立った会津慈母観音像。

これは世界平和を祈念するために建立されたとの事。

四季折々の姿をみせる6万坪の大庭園は

パワースポットとして注目されているらしい。

この地方の信号機は関東地域のものと違って3色の信号が縦に並んでいる。

これはたぶん冬の積雪に耐え、見やすくする為にしたのだろう。

そういえば確か北海道でも見た記憶がある。

磐越自動車道猪苗代磐梯高原ICを降りて100メートル、

約1分ほどの所にある広大な道の駅「猪苗代」がある。

当道の駅開設は2016年11月19日。

まだ4年弱しか経っておらず、建物も真新しい。

店内には農産物直売所などの物販コーナーや、

レストランもダイニングⅠ(アイ)など4店あり、

会津文化と高原リゾートの風薫るお洒落なカフェスタイルの道の駅に成っている。

当駅の管理運営は猪苗代町のほか、あいづ農協、商工会、

福島県内4つの金融機関が出資した第3セクターがやっている。

共用部分の廊下には床にフローリング、壁染部分にも木材を使い、

優しさ、ぬくもりを感じさせる。

天井高も高くとても気持ちが良い。

その木質の壁で「Fukushima Flowers」と称して

野口勝宏写真作品集の展示が行われていた。

これが人を優しく包み込むような素晴らしい作品でコロナの疲れが癒された。

物販コーナーで目に留まったのが縁起物の「」4色カラー。

七転び八起き(起き上がり小法師)。

災難が起きない、不幸が起きない(起きない)。

会計の所で長蛇の列で買いそびれたがほしかったナー。

そしてこの一枚がこの旅の最後の写真。

全く雲がかかっていない表の会津磐梯山。

3日間の旅で雲がかかっていない磐梯山は珍しかった。

 


妙本寺

2020-02-18 06:52:59 | 旅 ~国内

本覚寺の山門を出るとほぼ隣に妙本寺がある。

鎌倉駅からゆっくり歩いても約10分で行ける近さ。

長興山妙本寺は文応1年(1260年)の建立で日蓮宗のお寺。

開山は日蓮上人で開基は比企大学三郎能本だ。

この総門は大正12年の関東大震災で倒壊したのもを大正14年に再建したもの。

すぐ後ろの七角形の建物は企谷幼稚園として使用されている大円坊。

この寺一帯の谷を比企谷といい、

源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷があった所だ。

比企一族は二代将軍頼家の後継者争いの際、

北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされてしまった。(比企の乱)

その後、乱から逃れていた末子能本が日蓮上人に帰依し、

一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てたのが妙本寺の始まりといわれている。

案内図を見ればわかる通り、

方丈門、本堂、二天門と袛園山に面した山麗の地に点在していて、

山深い雰囲気の中に静かにたたずんでいる。

この寺は身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ

日蓮宗最古の寺院ということです。

一番奥には鎌倉最大級の木造仏堂建築である祖師堂がある。

祖師堂の前の海棠で女性をめぐって喧嘩していた

中原中也と小林秀雄はここで和解した。

この堂は本当に立派なものだ。

鎌倉の市街地から歩いて10分程の所に

こんな静寂なお寺があるとは信じられない所だ。

読者の皆さん是非一度行ってみて下さい。 

きっと何かを感じるはずです。

 

 


本覚寺

2020-02-17 06:46:43 | 旅 ~国内

鎌倉駅からほどない所にある本覚寺は創建が

永享8年(1436年)で、日蓮宗の本山(由緒寺院)、

山号は妙厳山で本尊は釈迦三尊像だ。

昭和49年に本山に昇格、それまでは中本山であった。

この山門は仁王門と称し、江戸時代のものを

明治初期に三浦半島の寺院より移したものだ。

本堂は大正時代に建てられたもの。

当時は身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため

「東身延」と呼ばれている。

境内の主な伽藍はだいたい近代になってからの創建で、

一見すると現在でも人々の中で生きているお寺という印象を持った。

昭和56年に本堂時境内にこの夷堂が再建された。

この夷堂は源頼朝が鎌倉幕府の際に

幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされたという。

文永11年(1274年)佐渡流罪を解かれた日蓮上人は

鎌倉に戻ってこの夷堂に滞在し布教を再開したとのこと。

ここが辻説法の拠点となった。

正月は初えびす。

1月10日は十日夷で大変な賑わいになるという。

第2世日朝が眼病の治癒で非常に信仰を集めたことから

本覚寺は日朝さまと呼ばれているとか。

このにぎり福は愛・健・財・学・福の5つを握り込んだ握り福として

昔からこの地方の人々に愛されているものらしい。

本覚寺は鎌倉七福神めぐりの一つで商売繫盛、

五穀豊穣の神社として今でも愛されているえびす様神社だ。

 


光明寺

2020-02-15 07:04:03 | 旅 ~国内

鎌倉市材木座にある浄土宗の光明寺は寺格は大本山で

本尊は阿弥陀如来、開基は北条経時、

開山は浄土宗三祖然阿良忠だ。

寛元元年(1243年)に現在地に移設され光明寺と改称された。

明応4年(1495年)後土御門天皇より勅願寺に定められた。

近世には浄土宗の関東十八壇林の第一位の寺として栄えた。

十六菊と五三桐の紋。

木の木目など、とてもきれいに撮れたのでアップしました。

明応4年(1495年)に建てられた総門。

寛永年間(1624年~28年)に再興された。

ご覧のように現在修理中だった。

この山門は五間三戸二重門で浄土宗関東総本山にふさわしい大規模な門。

鶴岡八幡宮から移築したものといわれている。

弘文4年(1847年)頃の建物でここも現在大規模改修中であった。

この本堂は元禄11年(1698年)建立。

鎌倉地方では最大級の本堂で重要文化財に指定されている。

内部は畳敷きの広大な空間が広がり、

前半部は外陣、後半部は内陣に成っている。

その一角にグランドピアノが置いてあり

「昼下がりの時悠耳感(じゆうじかん)」と称して

一ヶ月に4回位ピアノ演奏が行われているようだ。

どのような経緯でグランドピアノ演奏が

行われるようになったのかわからないが、

当寺の住職さんは随分柔軟な発想の方だと拝察した。

本堂の横には三尊五祖来迎の庭と称する枯山水庭園がある。

五祖とはお釈迦様から、当寺開山良忠上人に至るまでの

念仏を弘めた五人の高僧を指す。

即ち、釈尊(段度)善導(中国)法然、鎮西記主(日本)を

浄土宗五大祖師といっている。

この庭は煩悩多いこの世(此岸)と

救われていく彼の岸(彼岸)を示している。

小堀遠州作と伝える蓮池を中心とした庭。

その奥の小高い山の上には宗祖法然上人800年大御忌を期して建てられた

とてもインパクトのある大聖堂が建っている。

他にこの鐘楼、稲荷社など。

そして近世の建築、開山堂、書院、客殿などがある。

境内をめぐっていると意外な墓碑を発見。

俳優・高倉健のものだ。

この墓碑は健さんの立ち姿を表しているという。

墓碑の高さは健さんの身長と同じ180cm、

墓碑にある段状の意匠は健さんの映画人生の節目となる年、

映画作品数などを表しているらしい。

平成29年3月18日建立。


海蔵寺

2020-02-13 06:38:01 | 旅 ~国内

海蔵寺は古都鎌倉の扇ヶ谷の北、

風光明媚な渓間にたたずむ臨済宗建長寺派の古刹である。

英勝寺の参拝を終え、線路沿いからなだらかな坂を

ダラダラと住宅街を抜けると正面に海蔵寺の参道が延びている。

時間は丁度お昼。

ここは日だまりですごく心地良かった。

「千代能が いただく桶の底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と

歌われたと伝えられる「底脱の井」。

鎌倉十井の一つだ。

この歌の意は井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、

悟りが開けたという投機(解脱)の歌。

この山門は平成15年と最近再建された門。 

しかし室町期禅宗様式四脚門。

額は前南禅美中の書、天和2年(1682年)の銘とまだ新しいが

デンと構えていて風格がある。

又、周辺もとても整備されていて一際引き立つ。

本堂(龍護殿)は大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊したのち同14年の再建。

この寺には多くの言い伝えがある。

空外は「那須の殺生石」の話で有名。

仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」「児護薬師」といわれ、

胎内に仏面を収めており、啼薬師伝説がある。

ここは水の寺ともいわれている。

内殿欄間の雲龍彫は文化9年(1812年)、

額は延宝9年(1681年)霊芝の筆。

間仕切の雲龍。

山水の絵は狩野探信の筆になっている。

この鐘堂は昭和38年の建立、鐘は無乳型。

お伺いしたのが年始はじめの頃で鐘の周りをぐるり、

締縄を巻いてあったのがとても美しく感じた。

境内の奥隅にあった岩窟中にあるのは墓所か?

鎌倉にはこのような崖の所に洞窟がある所をいくつも見た。

 

 


英勝寺

2020-02-12 06:50:58 | 旅 ~国内

浄土宗・東光山英勝寺は寛永13年(1636年)というから

江戸時代初期に建立された。

英勝寺尼が開基し、開山は玉峯清因。

尼の父は水戸徳川家初代藩主で水戸光圀の姉だ。

ここは鎌倉唯一の尼寺です。

ところでこの写真、構図的に人力車効いてますよねー。

この仏殿は間口、奥行きともに3間、屋根は寄棟、裳階(もこし)付の建物だ。

軒を飾る子、牛、寅、卯など十二支の装飾彫刻が印象的だ。

初期の江戸城を築城した太田道灌の5代子孫で

徳川家康に仕えたお梶の方(英勝院)が道灌の屋敷跡にこの尼寺を建てた。

お梶の方が一緒に行くと戦に勝利したことから改名し、

お勝という名になったとか。

お勝の方は水戸徳川家の初代頼房の養母であったことから

代々、水戸徳川家の姪が住職を務めていた。

以来、英勝寺は水戸徳川家の御寺と称えられ、370余年の歴史を重ねてきた。

正面の小窓を開けると運慶作と伝えられている

本尊の阿弥陀三尊を拝することができる。

堂内の天井には極彩色の鳥や天女の絵が華やかに描かれている。

この山門も仏殿と同様、屋根に反りがなく、

真っすぐ葺き下ろされている。

銅板葺き屋根の直線的意匠は、英勝寺の建物に共通した特徴だ。

英勝寺が本格的な歩みを始めて7年、

英勝院は病に臥すことが多くなった。

将軍も直々に見舞い回復を祈ったが、その甲斐もなく

寛永19年(1642年)8月23日逝去。享年65才だった。

この山門に掲げられた後水尼天皇御展筆の「英勝寺」の

扁額も当寺の代表的なものだ。

又、英勝寺では花畑、菜園、樹木園など自然を大切にしてきた。

寺の裏手には立派な竹林があり人力車で来た着物姿の若いカップルが

その竹林を散策していた光景は一幅の絵になっていた。

門の横に例の鎌倉町青年会が大正10年に建立した太田道灌邸蹟の石碑があった。

鎌倉幕府が滅ぶと、鎌倉は足利氏の支配地になり、

扇ヶ谷は補佐役の上杉氏に与えられた。

上杉氏の家臣の太田氏も上杉屋敷の一角に居を構えた。

しかし太田氏は道灌の時、扇谷、

山内両上杉氏の対立に巻き込まれ、暗殺され、家は没落してしまった。

文明18年(1486年)のことであった。


令和2年 新春の鎌倉

2020-02-11 07:18:24 | 旅 ~国内

中国の春節みたいだが、今年も5年連続で1ヶ月遅れの

新春の鎌倉シリーズをスタートします。

今年も定点観測のように稲村ヶ崎からの相模湾。

江の島そして富士山の絶景ビュー。

若干取った時間が早かった為、

空気がボンヤリしていてクリアーには撮れなかった。

(2017-1-23付、2019-1-22付ブログ参照)

これもいつもの稲村ヶ崎に集まったカメラマン達。

決定的絶景の瞬間を逃すまいとジッとファインダーを覗き続けている。

こんな人達は皆、三脚付きの一眼レフの高価そうなカメラを持ってきている。

ずらり並んでいるカメラマンの手前には

大きな石造りの丸テーブルと長椅子がある。

そこで年配のおばさんがテーブルいっぱいに

色とりどりの人形みたいなものを広げていた。

話を聞いてみると着物の布地で洗濯バサミに縫い付けて

猫を作って販売しているとか。

オバサンとは長い時間話し込んでしまい、

最後にこれを4個買うことになってしまった。

稲村ヶ崎の一角に円覚寺朝比奈宗源書によるボート遭難の慰霊碑像がある。

たまたま男性の手の先にトンビが木に止まったので

その瞬間、手の上にとまったアングルが頭にひらめいて

思わずシャッターを押してみた。

その作品が3枚目の写真。

残念ながら手から浮いてしまい、そして手のひらに

焦点が合ってしまいトンビがぼやけてしまった。

これは失敗作だな。

今迄は早朝散歩は海辺を歩いていたので今回は山の方へ行ってみた。

すると、鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通の途中に

真言宗大覚寺派の寺である成就院に出た。

当寺の山号は普明山、寺号は法立寺、

本尊は不動明王でアジサイ寺として知られている。

承久元年(1219年、承久3年説もある)

三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、

北条一族繁栄を祈ったという。

元弘3年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、

江戸時代に再建された。

この日は早朝の為、まだ門が閉まっていた。

さらに極楽寺坂切通を抜けていくと極楽寺に出た。

極楽寺は真言律宗のお寺で正元元年(1259年)建立、

開山は忍性畜薩で開基は北条重時が現在の所に移転したといわれている。

元寇に際しては政府の命により異国降状の祈祷をここで行ったという。

こちらも開門前で中に入れず。

鎌倉といったら江ノ電。

又々アップしてみました。

この極楽寺駅の駅舎はかなり古く、

昭和10年代の木造形式で鎌倉らしい佇まいを見せている。

平成11年に関東の駅100選に選ばれている。

江ノ電は明治35年に開業し、

ほぼ当時の路線で営業している日本最古の鉄道だ。

極楽洞は江ノ電唯一のトンネルで明治40年に竣工。

建設当時のレンガ張りがそのまま残されている。

ここ寿福寺は臨済宗建長寺派のお寺で正治2年(1200年)に建立された。

源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明庵栄西を開山に招いて建立した

鎌倉五山第三位の寺だ。

鎌倉幕府、三代将軍の源実朝も再三参詣したという。

(2015-10-17付ブログ参照)

三門の橫には実朝生誕800年を記念して

1993年に建立された平山郁夫書による記念碑が目に止まった。

ここ日蓮宗常栄寺、通称ぼたもち寺は慶長11年(1606年)に建立された。

幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、

瀧ノ口の刑場(藤沢市龍口寺)へ送られる途中、

ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。

毎年9月12日には老婆が作ったものと同じ胡麻をまぶした

ぼたもちが厄除けの「首つなぎのぼたもち」として振る舞われるとの事。

鎌倉は古いお寺をはじめとして古都の雰囲気に溢れる中、

最先端のお店をはじめ街にフィットした 

新しいお洒落なお店もどんどんふえている。

このバニラビーンズも住宅街の中に突然現れて新鮮な印象を与えた。

色々な点から、鎌倉は京都に似ている所が沢山ある。


男鹿なまはげ館

2019-12-14 06:57:14 | 旅 ~国内

男鹿半島の中程の山中にあるなまはげ館に入る道路で発見したなまはげの街路灯。

夜見たらさぞ不気味だろう。

もみじとドウダンツツジの紅葉が美しい中「なまはげ館」へ。

1999年7月23日に開館し、2013年4月にリニューアルオープンした。

外壁は男鹿産出の寒風石による石積み造りとなっており、

内装には秋田杉が使われている。

https://www.namahage.co.jp/

紅葉した木々はそんなには多くないが、心憎い配置に植えられ、

その美しさに思わずシャッターを押してしまった。

もっと晴れた日だったらさらに素晴らしい紅葉が見ることができただろう。

やはり入口の所に奇妙な球体があった。

「なまはげ玉」というタイトルで

男鹿の海と山と夜空と三体のなまはげをモチーフに、

なまはげの魂を大理石モザイクで表現しているそうだ。

なまはげ館に隣接して大晦日のなまはげ行事を

間近で体験できる男鹿真山伝承館がある。

この近くにはなまはげゆかりの地、真山神社があり、

平安時代以降、神仏習合の霊山として栄えた。

ナマハゲの語源はナモミを剥ぐという言葉がなまったもので、

ナモミとは炉端にかじりついていると手足にできる火型のこと。

それを出刃包丁ではぎ取り、怠情をいましめるのがナマハゲ。

ここ男鹿真山伝承館内では30分間隔で所要時間約30分間

ナマハゲ行事の再現を見ることができる。

先立と主人そしてナマハゲの問答はかなり秋田弁でなまっていて

一部始終はわかりにくいが、なんとなく滑稽でほのぼのしている。

ナマハゲが持っている台帳にはすべての情報が書いてあるので

嘘を言ってもばれてしまう。

男鹿なまはげ館①

そのやりとりの一部をお聞きください。

ナマハゲはお膳を離れる前に3回シコを踏む。

その姿はとてもユーモラスだ。

又、部屋中を激しく動き回る時、わらの蓑からわらが落ちるが、

この麦わらは縁起物として皆持ち帰る。

ナマハゲは昭和53年国の重要無形民俗文化財に指定された。

又、平成30年には来訪面、仮面、仮装の神々として

ユネスコ無形文化遺産にも登録された。

男鹿なまはげ館②

最後に秋田美人の館の方からナマハゲについての説明があった。

男鹿のナマハゲは真山本山に鎮座する神々の化身と信じられていて、

ナマハゲ行事は毎年大晦日の晩に男鹿半島のほぼ全域で行われている。

ナマハゲ行事の再現を見終わってなまはげ館の方へ移動。

秋田杉が林立したここ神秘のホールの杉の柱には

小さなテレビが埋め込まれてあり、映像を流していた。

ここは大晦日の男鹿のナマハゲ行事を

15分の映画で紹介しているなまはげ伝承ホール。

なまはげ伝承ホールの一角にはなまはげ変身コーナーがある。

なまはげの面や衣装を身につけなまはげに変身し、

記念写真を撮ることができる。

そして最後に百十体、百十色の千差万別、

男鹿各地のまなはげが勢ぞろいしたホールが待っていた。

通路の両サイドに多種多様ななまはげが迫ってきて圧巻の迫力の空間であった。

面はそれぞれの地区の人が主として木や様々な素材を使って作り伝えているそうだ。

姿は鬼のようですが、男鹿の地域では神と考えられ、鄭重に迎えられている。

館の中には秋田を代表するポスターが貼られていた。

この秋田美人のポスターは当ブログ2度目の登場。

知的でチャーミングで憂えた目が美しいこの女性は見れば見る程タイプだ。

一説によると秋田美人は大陸ロシアから来た人達の血が流れているとか。

其の事をブラタモリで放映していた。

こちらも以前ブログアップした東北三大祭りの1つ、秋田の竿燈。

江戸時代から続いているまつりだ。

大仙市大曲地区の雄物川河川敷運動において、

例年8月最終土曜日に開催される全国花火競技大会。

一般に「大曲の花火」として知られていて、

日本三大花火大会かつ、日本三大競技花火大会の1つとされる。

今年見に行った知人は、一度は見る価値があるすごい花火だ。

と言っていた。

是非行ってみたいものだ。

そして昨日アップした乳頭温泉・鶴の湯の混浴露天風呂のポスター。

片隅に秋田犬がワンポイントとして写っている。

今回の旅で所用があって行けなかった角館の武家屋敷。

丁度この時期はしだれ桜の紅葉が素晴らしかったそうだ。

そして今日のブログのテーマのまなはげの勢ぞろい風景。

ここにもロシアのフィギュアスケート女子のアリーナ・ザキトワに

プレゼントされた秋田犬「マサル」で脚光を浴びた秋田犬が

センターの主役で写っている。

11月16日(土)NHKで放映されたブラタモリ

「秋田・男鹿~海を渡った!?秋田の魅力とは⁉」で

ナマハゲ・郷土料理・秋田美人、

その秘密にタモリがブラブラ歩いて解き明かした。

とても興味深く見させていただきました。