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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

小豆島物語

2021-12-17 06:28:34 | 旅 ~国内

小豆島国際ホテルのブログでもちょっと触れましたが、

エンジェルロードは小豆島の大きな観光スポット。

小豆島の前島から沖に浮かぶ中余島を経て

大余島(総称・余島)へと続く約500mの細長い砂州の道。

「天使の散歩道」とも呼ばれ、潮の干満により道があらわれたり

海に消えたりする(タイダル・アイランド)。

このため1日に2回、干潮の時のみ渡ることができる。

このロードはスミダマンの宿泊した小豆島国際ホテルの

プライベートビーチで見えるため、このホテルは人気が高いとか。

ここは元々は潮干狩りなどに利用されていたが、

「道の真ん中で手をつないだカップルは結ばれる」と口コミで噂が広がり、

恋人の聖地、縁結びスポットとして小豆島のパンフレットにも載る観光地となった。

一番手前の前島は約束の丘展望台と呼ばれ、

ご覧のような帆立貝の形をした絵馬が並んでいる。

ここには若い人の熱い思いが書かれているのだろう。

スミダマンにとっては遠い昔話だ。

NHKドラマ10「八日目の蝉」の小豆島ロケ地MAP。

①沢田製麺②福田港③天使の散歩道(エンジェルロード)④笠ヶ滝

⑤肥土山虫送り⑥醤の郷⑦二十四の瞳映画村

二十四の瞳映画村の入口前は海で二十四の瞳・オリーブ・ナビの渡し舟が運行している。

この日は穏やかな天気。

海の湾は凪っていて本当にのどかな風景だ。

バスガイドさんの話によると二十四の瞳の若い女性の先生は

この湾のような海沿いの道を島の中で目立った洋服で

颯爽と自転車に乗って通学していたという。

その姿がこの風景を見ていると浮かぶようだ。

小豆島の名産といえばオリーブが真っ先に思い浮かぶ人が多いくらい、

世間では「小豆島=オリーブ」のイメージが定着している。

小豆島ではオリーブの樹が群生する「小豆島オリーブ公園」や

「小豆島オリーブ園」といった観光スポットをはじめ、

町を歩けば桜並木ならぬオリーブ並木を目にすることができる。

日本のオリーブの歴史は文久2年、徳川将軍の待医であった林洞海が

フランスから持ち込んだオリーブを薬用にと育てたのが初の栽培と伝えられている。

小豆島にオリーブが根付いたのは、

1908年に香川県の小豆島がオリーブ栽培試験地に指定された以降のこと。

同年には三重県、鹿児島県も栽培試験地として名を連ねたが、

オリーブの結実に成功したのは小豆島だけでした。

小豆島を代表する歌といえば小豆島国際ホテルのブログでも紹介した「オリーブの歌」。

土庄港(とのしょう)の観光案内所の近く、

オリーブの木が植えられている公園の中にオリーブの歌の歌碑がある。

歌詞・河西新太郎、作曲・服部良一、歌手・二葉あき子。

小豆島バスが歌の制作を企画して昭和26年に発表された。

ここにはギネスブックに認定されたすごい所がある。

香川県小豆郡土庄町の小豆島と前島の間にある土渕海峡(とぶちかいきょう)。

ここは世界で最も幅の狭い海峡だ。

全長約2.5キロ、最大幅がなんと約400m、最狭幅は9.93mだ。

ランチは土庄港そばのOHKIDO HOTEL。

小豆島はそうめんの産地でもある。

名産品の「手延べそうめん」は製麺時に小豆島の名産品でもある

ごま油を練り込むことで他の地域のそうめんと違った風味が生まれることが特徴だ。

また、小豆島の特産品でもあるオリーブオイルや醤油を隠し味に使った

手延べそうめんも小豆島の魅力だ。

ホテルの中には昭和初期のそうめん機も展示してあった。

この道具で麺のばし、箸分け、天日干しの作業を行ったそうだ。

土庄港の案内板。

この港からは岡山行、高松行、宇野・豊島行のフェリー、高速艇が出ている。

小豆島にはこの港以外に赤穂に行く大部港、姫路に行く福田港、

神戸に行く坂手港、高松に行く池田港の4港がある。

今度は「島めぐりの小さな旅・・・ぐるり散策小豆島」の写真付ガイド看板。

これを見ると小豆島の観光スポットがわかる。

1、土淵海峡 2、重岩 3、エンジェルロード

4、中山千枚田 5、二十四の瞳映画村 6、小豆島オリーブ公園

7、銚子渓・蛭子池 8、寒霞渓 9、大阪城残石記念公演

10、肥土山農村歌舞伎 11、豊島美術館 12、壇山展望台 など。

度々繰り返すが、小豆島といったら最初にイメージするのが

「二十四の瞳」だと思う。

この土庄港の一番奥まった緑地公園にも二十四の瞳平和の群像があり、

島に到着した人々を迎えてくれる。

この群像の揮毫は内閣総理大臣・鳩山一郎だ。

小豆島のもう一つの名産品がマルキン醤油記念館のブログでも紹介した醤油である。

このポスターにも16の醤油メーカーが記されている。

そして最後の止めがこの一枚だ。

小豆島に来る前にガイドさんが言っていたことが翌日納得できた。

「港に到着する前頃から風向きによってはゴマ油のよい香りがする港です」と。

土庄港の入口の所にはごま油の大手メーカー「かどや製油」の工場があった。


二十四の瞳映画村

2021-12-15 06:15:50 | 旅 ~国内

二十四の瞳映画村は香川県小豆島にある映画と文学のテーマパーク。

1987年公開の映画「二十四の瞳」の小豆島ロケのオープンセットを活用した施設群だ。

壺井栄の小説で1954年(昭和29年)と1987年(昭和62年)に映画化された。

広い映画村の塀の壁には銀幕のスターたちが彩る

巨大壁面パネルアート「シネマ・アートウォール」が迎えてくれる。

壁面の写真はモノクロで周囲の風景に溶け込んでとてもインスタ映えする。

これが二十四の瞳映画村の案内図。

小豆島町田浦地区よりさらに700m南、

瀬戸内海を見渡す海岸沿い約1万平方メートルの敷地に

大正・昭和初期の小さな村が出現した。

ここが数多くの映画ロケが行われ作品が生まれた。

入口を入るとすぐ右側に水路と池がある。

水路には舟がつながれ、透明な池の中には沢山の魚が泳いでいた。

この池には不思議な事に海の魚が泳いでいた。

タイ、チヌ、ボラ、コブダイ、サバ、フグ、ウマズラハギ、エイなどなど。

この池を見ているととても新鮮な気分になった。

映画村内には壺井栄の代表作「二十四の瞳」の原稿、生前の愛用品、

数々の初版本などを展示した壺井栄文学館がある。

同館では併せて栄の夫である詩人・壺井繁治、

作家・黒島伝治の書簡や色紙も展示してあり、

木製の応接セットなどは繁治・栄夫妻の白鷲(東京)の家からそのまま移したものである。

海水の水路を渡ると幾本もの鳥居がある「二十四の瞳天満宮」だ。

さすが作られた映画村、何でもありのようなエンターテイメント性を感じてしまう。

平成24年3月に完成したギャラリー松竹座と映画館。

昭和30年代の映画館を再現。

タイル張りのエントランスには往年の大スターたちの写真が飾られている。

映画館の館内は40席、ゆったり観れる空間として大型スクリーンで時間の許す限り、

日本映画の素晴らしさを堪能することができる。

木下恵介監督、高峰秀子さん主演の映画「二十四の瞳」も常時上映している。

ちょうど行った時はご覧のようにコスモスが一斉に咲いていて、

それはそれは素晴らしい光景を造り上げていた。

ここは「花咲か爺さんの花畑」と言って春は菜の花、夏は向日葵、

そして秋は秋桜(コスモス)を植えているらしい。

昭和3年の春、岬の分校に大石久子という若い女の先生が

洋服で自転車に乗ってきたところから物語は始まる。

この物語は女先生と教え子の心温まるふれあいの話であるとともに、

戦争の時代を懸命に生きた人々の姿も描いている。

作者の壺井栄は戦争は人類に不幸しかもたらさないと、

平和の願いを込めて「二十四の瞳」を書いたのである。

山村の中の一軒の日本家屋。

屋根の向こうには分校の日の丸がやけに目に染みる。

2枚の白いおしめ(昔の表現)と着物を干しているとは芸が細かい。

明治35年(1902年)8月、田浦尋常小学校として建築された瓦葺平屋校舎1棟で、

2教室と教員住宅を含んでいた。

明治43年(1910年)からは苗羽尋常高等小学校・田浦分校として使用され、

昭和46年(1971年)閉鎖。

「二十四の瞳」の舞台となってから一躍有名となり、訪れる人が絶えない。

町内に残る唯一の初期小学校でもあり、

付近の集落とともに昔日のおもかげが残っている。

映画村の奥、海を見渡す高台に位置する今は懐かしい木造校舎。

1987年の映画撮影当時を偲ばせる数々の小道具や写真が展示されている。

教室には当時のままの机やオルガン、子供たちの作品などが残っており、

椅子に腰掛けて目をつむると、在りし日の思い出が蘇ってくる。

行った日はちょうど木下恵介生誕100年プロジェクトとして

「巨匠・木下恵介展」も行われていた。

分校の校庭の向こうは汐江海岸の海が広がっている。

ここはすごく気の良さを感じる素晴らしい所だ。

校庭では竹馬の貸し出しもあり、

2人の若い女性がキャーキャー言いながら竹馬乗りに興していた。

漁師の家、万屋、gallery KURO go、おみやげ物いろいろ大正屋、etc。

大正、昭和の懐かしい街並が続き、映画村のセットということを忘れ、

その時代にタイムスリップしてその時代の空気を吸っているような錯覚に陥る。

壁画アート「恋のダンスパーティ」とキネマの庵Catéシネマ倶楽部。

ここにも西武園ゆうえんち夕日の丘商店街にあった3輪車「ミゼット」が展示してある。

このミゼットはスミダマンにとっても時代を象徴する商品の代表選手だ。

そして今や懐かしい映画大手5社「松竹、東宝、東映、日活、大映」の展示コーナーがあった。

 


倉敷美観地区散策

2021-12-09 06:13:26 | 旅 ~国内

倉敷美観地区の入口に居ます。

真ん中で赤い旗を持ったバスガイドさんには

2日間とても素晴らしいガイドをしてもらい感動ものでした。

コロナですっかり仕事がなくなり久し振りにマイクを持って

しっかり仕事ができるかすごく不安と言っていました。

そして仕事ができる喜びで感謝、感謝とも言っていたのがとても印象的でした。

ところで倉敷美観地区とは景観条例に基づき

定められた岡山県倉敷市にある町並保存地区、観光地区をいい、

広義の地区は21.0ha、伝統的建造物保存地区は15.0ha、

伝統美観保存地区は6.0haを指している。

街の中に入る前にバスの中でガイドさんが

オススメの店は赤い旗を激しく振りますと言っていた。

最初の店がここ、むらすゞめの橘香堂さん。

そう言われると買ってしまうものです。

倉敷の産業といったら倉敷デニムと倉敷帆布。

ここは白壁なまこ壁が素敵な倉敷デニム総本店。

ここは倉敷物語館。

いよいよ倉敷川沿いの街並に入ってくる。

この家のもみじの紅葉の赤が目に飛び込んできて美しいの一語。

ここは和風建築物の中で味わう老舗洋食レストラン「亀遊亭」。

紅葉が映る倉敷川の水面でゆったりと餌を食べる白鳥。

それをそっとしゃがんで覗き込む親子。

これはポエムの世界だ。

バスガイドさん2回目の激しい旗振りのお店。

古民家を改装したきびだんご元祖の店「廣栄堂 本店」。

創業はなんと安政3年。

太い桜の幹の間から撮った紅葉PARTⅡ。

大原美術館の隣りにあり、古風な洋館に蔦が絡まったカフェ「エルグレコ」。

ここだけを見ているとまるでパリ・モンマルトルに居るような錯覚になる。

昭和5年(1930年)に建てられた日本最初の西洋美術館の「大原美術館」。

このギリシャ神殿のような外観が当美術館のシンボル。

倉敷紡績などの企業を経営していた大原孫三郎(1880~1943)は

洋画家の児島虎次郎の提言を受けて西洋の近代美術をコレクション。

これらを公開したのが当美術館で、

第二次大戦後に孫三郎の長男・大原総一郎(1909~1968)が

「美術館は生きて成長していくもの」との信念に運営を引き継ぎ担った。

倉敷が米軍の空襲を受けなかった理由に大原美術館があったからとの

説があるとバスガイドさんが言っていた。

残念ながら時間の関係で大原美術館には

入館することができなかったが(これが団体旅行の辛いところだ)

その代わり隣りのミュージアムショップで絵葉書を撮ってきた。

なんといっても当美術館の代名詞はエル・グレコの「受胎告知」。

大原美術館から撮った1枚。

今橋の向こうには左に語らい座・大原本邸、左に有隣荘が威風堂々と建っている。

大原孫三郎が家族で住むために建てた大原家の旧別邸の有隣荘。

独特の製法で焼かれた瓦は、見る角度によって緑色に光り、

地元では緑御殿とも呼ばれている。

特別公開以外は外観のみ見学可能。

かつて物資を積んだ川舟の往来でにぎわった倉敷川。

その風情を味わえる観光川舟が運行されている。

ゆったりと進む舟に腰を下ろして眺める白壁の町並みは、

川舟流しならではの表情を見せてくれる。

倉敷川周辺が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

昭和12年(1937年)クラボウ社長、大原総一郎がドイツの城郭都市ローデンブルグを訪れ、

倉敷の町並み保存を思いついたと云われている。

なんとこの白壁の建物は証券会社の事務所だ。

このコスプレで着飾った女性と黒一色の女性カメラマン、

街の中で度々見かけたので思わずパチリ。

悪い癖です。

大正6年(1917年)に倉敷町役場として建てられた洋風木造建築。

現在は観光案内所として観光ガイドや観光施設などの紹介を行うほか、

無料休憩所として自動販売起点や情報収集に便利なスポットです。

江戸時代初期、寛永19年(1642年)江戸幕府の天領に定められ、

倉敷代官所が当地区に設けられた。

以来、備中国南部の物資の集積地として発展してきたのが倉敷の歴史だ。

倉敷の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁、なまこ壁、

屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残している。

倉敷のもう一方の顔「倉敷アイビースクエア」。

明治21年(1888年)に代官所跡地に建てられた旧倉敷紡績で、

昭和48年(1973年)に倉敷アイビースクエアとして開業した。

スクエア内には倉紡記念館、アイビー学館、

蔦の絡まる赤レンガのホテル・倉敷アイビースクエア、

レストラン蔦、売店などがある。

平成19年(2007年)には旧倉敷紡績所が日本の産業の近代化に大きく貢献したとして、

創業時の紡績工場の建物群が国の近代化産業遺産に認定された。

アイビースクエアを出て裏通りを散策する。

歴史とアートが薫るレトロモダンな風景、美しい白壁の町並み。

ここではNHKの連続テレビ小説「カーネーション(2011年)」「マッサン(2014年)」をはじめ、

数々の映画、ドラマ、アニメのロケ地で使われている。

ここで晴天の下、だいぶ歩いたので喉が渇き、ティータイムにした。

ここは備前焼ギャラリー「倉敷一陽堂」。

白壁の蔵の中に1階は備前焼コーナー、2階がカフェになっており、

ここでも備前焼の展示コーナーがあった。

倉敷は着物姿がよく似合う。

京都みたいに大きくなくて人混みがちょうど良い。

そしてこの街は人力車も絵になる。

時刻は午後3時、並び立つ柳並木と川舟流し、

かつては運河として使われていた倉敷川の水面に午後の太陽の光が写り、

哀愁を帯びた一枚となった。

 

 


岡山後楽園 Ⅱ

2021-12-07 06:36:59 | 旅 ~国内

コロナの緊急事態宣言明けで初めて業界の団体旅行に参加して参りました。

一泊二日の旅で、岡山から倉敷方面、そして船で瀬戸内海2番目の大きな島、

小豆島に渡るというスケジュール。

2日間ポカポカした陽気の晴天に恵まれ、旅の素晴らしさを堪能してまいりました。

https://okayama-korakuen.jp/index.html

岡山後楽園には6年振りの訪問(2015-6-15付ブログ参照)。

前回はゴールデンウィークの春だったが、今回は秋の後楽園ということで

秋っぽい風景を撮ってきたつもりです。

特別名勝・岡山後楽園はご存知のように日本三名園(金沢兼六園、水戸偕楽園)の一つ、

岡山藩主・池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて

貞享4年(1687年)に着工、元禄13年(1700年)には一応の完成をみた。

この案内図を見るとわかるように旭川の中にある中洲のような島の中にあり

本当に風情たっぷりの環境の中にある。

これがその旭川と後楽園のある島。

その向こうは岡山市内の中心地の模様。

因みに岡山市は人口約72万人の政令指定都市(平成21年4月1日に移行)で

北・中・東・南の4行政区に分かれている。

ここで後楽園の花ごよみを発見。

これを見ると後楽園内では一年中花が咲いているが、

この時期はサザンカ、カンツバキ、ツバキ、そして紅葉だ。

正門を入って左手の園路を進んでいくと、

すぐに美しく紅葉した枝振りの素晴らしいもみじが目に飛び込んできた。

さすが名園のもみじは映え方が違う。

この美しい紅葉を過ぎると視界が開けていく。

中心の池と島々を囲むように水路が流れ、

川の中の水中植物が透き通った水の中で美しく生息している。

この水路に懸る松の枝もとても手入れが行き届いていた。

後楽園は、かつて藩主の静養の場、賓客接待の場として使われてきましたが、

日を定めて藩内の人々にも観覧が許された。

明治17年(1884年)に岡山県に譲渡され、一般公開された。

昭和9年(1934年)の水害、昭和20年の戦災では大きな被害を被りましたが、

江戸時代の絵図に基づいて復旧を行った。

昭和27年には文化財保護法による「特別名勝」に指定された。

広い芝の庭園と真っ赤に紅葉した1本の立派なもみじの木。

後楽園の特徴の1つが芝を大量に使った庭。

日本に広く自生している野芝を使い、明るく広々とした庭園。

築庭当時、芝は沢の池西側の延養亭から見える範囲にだけ使われ、

園内の大半は田畑でした。

園全体に使われたのは明治以降のことです。

藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われていた「延養亭」。

沢の池、唯心山、借景の操山と園内外の景観が一望できる後楽園の中心的建物。

この建物の裏には戦後再建された能舞台がある。

池田綱政の子、継政が作らせた約6mの築山で名を唯心山という。

園内が広く見渡せ、ツツジの咲く頃は絶景となるそうだ。

園内で1番大きな池の沢の池の中に浮かぶ中の島とそこに架かる橋。

その向こうには、のどかな茶屋が見える、まさに絶景。

また見事に紅葉した楓の木と出逢う。

なんと美しいことか。

後楽園の特色の一つ、園内に井田という田畑がある。

この井田は、かつて園内に広がっていた田畑のなごりで、

中国周時代の田祖法にならい幕末に形作られたものだ。

唯心山の中腹から撮った園内。

岡山後楽園はミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで三ツ星評価を取得している。

この一帯は花菖蒲畑、藤棚、蘇鉄畑などがある緑地帯。

後楽園はいつ来てもゆったりと時が流れ、

気持ちの良い「気」が流れているような気がする。

沢の池に浮かぶ白砂青松が美しい砂列島の前にある岩の上に全く動かない鷲の鳥がいた。

誰かが遠くからこれを見て「鳥の彫刻がある」と言っていたのが印象的だった。

園内をしずしずと歩く着飾った母と娘。

岡山の七五三の光景は歴史を感じる。

亭舎の中央に水路を通し、中に美しい色の石を配した全国でも珍しい建物の「流店」。

かつては藩主の庭廻りの時に休憩所として使われ、簡素なたたずまいを伝えている。

園内、桜林の中に見つけた桜の古木。

幹がねじれていて、これすごくないですか!

園内をぐるっと廻って一番奥まった所に竹林があった。

竹はやはり庭園の中ではマストですよネ。

モミジが100本近くある「千入の森」。

春の新芽の芽吹きの頃と錦を織りなす秋の紅葉は絶景。

園内名勝の一つとなっている。

井田という田畑があるのも珍しいが、

けっこう広い茶畑があるのも他の庭園と違う風景を作っている。

茶葉はやや苦みの強い古種のようだが、

美しい丸刈りの列が続いて独特の空間を創り上げている。

前回来た時はこの公園から美しい岡山城の雄姿が望めたが、

ご覧のように城全体が仮囲いに覆われ、まるで大型工事現場のようだ。

因みに後楽園という名称は岡山城の後ろに作られた園という意味で後園と呼ばれていたが、

「先憂後楽」の精神に基づいて造られたと考えられることから

明治4年に後楽園と改められたという。

前回はこの茶屋でのんびり心ゆくまで休憩できた「福田茶屋」さんは今回は休みであった。

ここ慈眼堂は池田綱政が藩内の平安と池田家の安泰を願って建立した観音堂。

今は空堂となっているが江戸時代には歴代藩主が厚く信仰していた。

沢の池にはご覧のように沢山の錦鯉がのんびりと泳いでいた。

とても美しかったので何枚もシャッターを切ってしまった。

10月下旬に後楽園にある約240本の松の木に菰を巻き付ける松の菰巻き。

これは冬越しのため枝先から地面に降りてくる

害虫の習性を利用した昔ながらの害虫駆除法だ。

地面に降りてくる途中の害虫を暖かい菰の中へと誘導し、

2月下旬に菰を外し、焼き払う菰焼きを行う。

江戸時代から当園では鶴が飼育されていましたが、戦後絶滅してしまった。

岡山の旧制第六高等学校に学んだことのある

中国科学院院長の郭沫若氏からタンチョウが2羽贈られた。

その後、釧路市の協力もあり多くが生まれ育ち、

その美しい姿が園内によみがえった。

最後に今一度、美しく紅葉したもみじの木をパチリです。

 

 


たくみの里

2021-09-08 06:17:25 | 旅 ~国内

https://takuminosato.jp/

のどかな街並みを進むと素朴な昔の里山へタイムスリップした気分。

伝統の技法を体験したり、郷土料理を味わったり、

里山の四季の暮らしを感じながら楽しい思い出を、手作りを・・・。

ここは三国街道須川宿があった所。

三国街道は中山道の高崎宿から渋川宿、湯沢宿、長岡宿、与板宿を経て寺泊溙へ至る街道だ。

古くから越後国(新潟県)と上野国(群馬県)を結ぶ主要街道の1つだ。

当街道は北国街道、越後街道とともに佐渡三道の1つと数えられ

江戸幕府からも重要視されていた。

たくみの里の散策マップ。

たくみの里は里山のテーマパーク。

エリアによってさまざまな魅力がある。

四季折々に移りゆく里山を巡ることで昔懐かしい農村風景に出会える。

関越自動車道、月夜野IC下車約15分(12km)群馬県利根郡みなかみ町にある

群馬県道53号中之条湯河原線の道の駅「たくみの里」がこの建物だ。

ここは総合案内、こんにゃく作り体験、そば打ち体験、お食事処、

新治村農村公園公社手作り製品を販売している豊楽館。

たくみ市場の前にある広場に巨大なわらアート「アマエビ」がデーンとあった。

コロナ禍で一躍注目を集めた「豊作と疫病を予言した」といわれる妖怪がアマエビだ。

現在に伝わるイメージは弘化3年(1846年)に刊行された瓦版に掲載されたものだ。

道の駅の隣りにはたくみ市場があり、地元で栽培した農産物、果物、手作りジュース、

各工房で製作した作品など多彩な品物がスーパーマーケットのような形態で売られている。

見るだけでも楽しいコーナーもある。

道の駅たくみの里の隣りにある「たくみカフェ」。

たくみの里の農産物や乳製品などを使用した石窯ピザが自慢だ。

食の体験型カフェとしてリニューアル予定だとか。

道の駅たくみの里ではレンタルサイクルを用意している。

広いたくみの里を坂道もラクラク電動アシスト自転車もある。

農産物直売所の農産物が主役の「里山食堂」。

手打ちそば野菜たっぷりの里山天丼、一品盛りの食べ放題などが自慢とか。

台湾かき氷を売っている「氷の家」。

台湾かき氷って何?

この宿場通りには飲食店が多く並んでいる。

ここ「やまいち家」のおすすめは4つのそばの味が楽しめる野ぼとけそばや

秘伝の味噌ダレがかかった味噌かつ御膳などがおいしいとか。

この地点が宿場通りと庄屋通りの分かれ道。

通り表示の下には宿場街、庄屋街にある沢山のお店の案内が出ている。

こんなのんびりした里山にもコロナの影が差していた。

隣り、みなかみ町のワクチン接種会場の立て看板が現実の世界へ引き戻す。

廃校になった小学校を活用した「にいはるこども園」。

少子化の流れの中で全国的にも

学校の廃校の後利用は地域にとって重要なテーマになるだろう。

広大なたくみの里は4つのエリアに分かれている。

A、地域の生活文化体験ゾーン

B、五感を感じる農業体験ゾーン

C、養蚕農家の古民家体験ゾーン

D、四季の里山体験ゾーン

お好みのゾーンを決めて楽しむのもたくみの里を堪能する良い方法だ。

ここは「くるみの家」。

かつて象牙で仏像を彫っていた経歴を持つたくみが細工したくるみに

絵具で色を付ける体験ができる。

完成作品には名前などを追加で彫刻するサービスもある。

ここは旧三国街道の宿場町須川宿。

その宿場時代の建物を利用した「須川宿資料館」があった。

平成8年3月、ここ三国街道須川宿の500メートル区間が、

群馬県内唯一の「歴史国道」としてその当時の建設省から選定された。

この歴史国道整備事業は歴史的に重要な幹線道路として利用された道路のうち、

国として特に歴史的・文化的価値を有する道路を歴史国道に選定し、

歴史文化を軸とした地域づくり、歴史文化にふれ合うことのできる魅力ある空間づくり、

道と地域の歴史文化の継承などを目的として地域活性化を図る事業である。

なお、この歴史国道は全国で24ヶ所が選定されている。

ここ「和紙の家」では伝統の手すき和紙に自由な発想で造形を加えた作品が作れる。

ここが須川宿の本陣跡。

ここにどんな大名が泊まったのだろう?

和菓子cafe「野ぼとけ」とたくみの里・野仏めぐりの案内図。

里内には9つの野仏が点在している。

たくみの里は南北に東側の宿場通り、西側に寺通り、

そして東西に庄屋通りで形成されている。

須川宿は明治43年に二宮尊徳先生の遺教奨励し、須川報徳社を設立した。

その集会(常会)を招集する時や、道路清掃、雪かきなど

共同作業の開始を告げる時この板木を叩いたという。

ここ「七宝焼の家」では誰でも簡単に七宝焼アクセサリーづくりができる。(庄屋通り)

十割手打ちそばの「八兵衛」さんは明日、旨い店シリーズでご紹介します。

花や木の実のドライフラワーを使ったリーフや

壁掛け作りなどを体験できる「ドライフラワーの家」。

旧新治村立須川小学校の跡地を利用した「蚕・繭・絹の家工房」。

ここではカラー繭を使ってかわいい動物や花を作る繭細工体験、

明治時代に使われていた座繰り機を使って繭から糸を挽いて巻いた糸車に

飾り付けや絵付けをする座繰り体験ができる。

この工房を過ぎるとそば畑や果樹園などの自然が広がっている。

そこにはひまわり畑もあって夏の風物詩ひまわりの花をパチリ。

庄屋通りと寺町通りの交差点にある「ふれあいの家」。

無化学肥料で育てられた新鮮な農産物の直売所です。

そばなどのお料理の提供やフルーツの収穫ほか、

各種食育体験もやっており、特に十割そば打ち体験が人気だ。

 

 

ここまで里山に点在するたくみの家を6軒紹介してきたが他にもまだまだあり、

自然の中で楽しい時が過ごせる所だ。

それでは他のたくみの家を紹介しましょう。

「マッチ絵の家」「鈴の家」「ガラスの家」「人形と石画の家」

「森のおもちゃの家」「ますや(鉄・土舎)」「草木屋染の家」「キャンドルの家」

「癒しの家」「竹細工の家」「わら細工の家」「木工の家」

「手作り工房千の樹」「いちごの家」「急須の家」「革細工の家KURO」

「農産物加工の家」「おしばなの家」「おめんの家」

帰り道にみつけたリンゴ畑。

日本のふるさと里山の風景を満喫した豊かな時間でした。

 

 

 


彫刻の森美術館

2021-06-02 06:04:37 | 旅 ~国内

https://www.hakone-oam.or.jp/

箱根登山鉄道「彫刻の森」駅下車、徒歩2分。

四季折々の雄大な自然が楽しめる箱根彫刻の森美術館は

その自然を生かして1969年(昭和44年)に開館した国内で初めての野外美術館だ。

入場料は大人1,600円。

施設のガイドマップ。

緑豊かな庭園に、近・現代を代表する彫刻家の名作約120点が常設展示されている。

また、ピカソ館をはじめとする4つの室内展示場や

子どもたちが体験できる作品、天然温泉の足湯もあり、

心豊かな憩いのひとときを過ごすことができる素敵な所だ。

チケットを買ってエントランスを入るとエスカレーターに乗って屋外展示場へ向かう。

最後に暗いトンネルを抜けると目の前に沢山の彫刻作品が飛び込んでくる。

実は今まで、当美術館に来るチャンスがなくて初めての訪問になる。

トンネルの中を歩いているとワクワクドキドキするなにかを感じた。

はじめに目にしたのもが、この箱根の山々の自然の中に点在している彫刻。

しかも右端に見える彫刻は有名なものだ。

この屋外美術館は真ん中の茶色の箱の先まで続いている広大なものだ。

この有名な彫刻は1909年作

エミール・アントワーヌ・ブールデル(フランス1861-1929)の「弓をひくヘラクレス」。

この金と銀の不思議な作品は土田隆生(1943~)の「眩驚一V」1990年。

円形広場という一等地にある。

これも著名な作者の作品。

アリスティド・マイヨール(フランス 1861~1944)の「とらわれのアクション」1906年。

画家として活躍していたマイヨールが彫刻に転じたのは40歳を過ぎてからのことだった。

彼のつくる女性像は鋭く突起した部分がなく、丸みのある形の連続である。

岡本太郎の作品「樹人」 1971年 強化プラスチック。

1929年の渡仏後、岡本は次第に純粋抽象の世界から離れ、シュルレアリスムに出会う。

1940年フランスからの帰国後、彼は戦後いち早く対極主義を唱え、

理論面でも日本の前衛芸術をリードしてきた。

「芸術は爆発だ」という彼の言葉はあまりにも有名。

この「樹人」も自由奔放に増殖し続けていくようなダイナミックな生命力に溢れている。

イタリアの彫刻家ジャコモ・マンズーの作品「衣を脱ぐ(大)」。

その後には「死の扉」習作12点を常時展示しているマンズールームがある。

「嘆きの天使」1986年作。

フランソワーザビエとクロード・ラランヌ(仏)夫妻の作品。

「生活が芸術の中にあるように、芸術は生活の中になければなりません」

という2人の理想から生まれてくるもの。

カール・ミレス(スウェーデン アメリカ)の作品「人とペガサス」1949年。

遠くから見ると人がまるで浮いて飛んでいるようで瞬間足が止まって空を見上げてしまう。

「自由」「勝利」「力」「雄弁」この寓意的な4体の像は、アルゼンチン建国の父、

アルヴェアル将軍騎馬像の高い台座の四隅を飾っているのもである。

ブールデルは同国政府の委嘱により第一次世界大戦中にこの壮大な記念像を製作した。

彫刻の本質に立脚する的確で簡清な表現は重厚な存在感を生み、

ロダンに次ぐ彫刻の新時代をひらいたブールデルの天才を如実にものがたっている。

多田美波(1924-2014年)の作品「極」1979年。

第一回ヘンリー・ムア大賞を受賞している。

ライナー・クリスター(ドイツ)(1935~2002)の作品「大きな手」1973年、アルミニウム製。

サンティアゴ・デ・サンティアゴ・エルナンデス(スペイン)(1925~)の

作品「抱擁」1986年作。

この像を拭き掃除しているスタッフと2人の男女像が相まって

何か一つのドラマのストーリーが流れているように見え、しばし見続けてしまった。

こんもりした丘の上には様々な彫刻が点在して、不思議な光景を作っている。

そしてこの光景が心地良いのはやはり芸術作品だからだろう。

そのうちの一つがフランシスコ・ズニガ(コスタリカ)(1912~1998)作の「海辺の人々」1984年。

この像のセンターは見た瞬間、相撲取りに見えてしまった。

丘の上のもう一つはオシップ・ザッキン(ロシア-フランス)(1890~1967)作の「住まい」1960年。

なるほど、これが住まいねー?

アギュスタン・カルデナス(キューバ)(1927~2001)作の「休憩する女」1976年。

益々、題名と作品が結びつかない。

井上武吉の作品「my sky hole 84 HAKONE」。

天に伸びる4本の柱から球体がぶら下がっている。

様々なものを映し出す空の穴は無限の世界を作り上げる。

この作品は他にない動的なものがあり、

しばし歩む足が止まってしまう程のインパクトがあった。

この作品はどなたもが記憶があると思う、有名な名作品です。

北村西望の作「将軍の孫」。

長崎平和公園の平和記念像は氏の作品で、氏は1958年に文化勲章を授与している。

アルナルド・ポモドーロの作品「球体をもった球体」。

歯型のような割れ目と噛まれたような内部は、

滑らかな表皮と対照的な様態を見せ、見る者を驚かせる。

ジュリアーノ・ヴァンジ作の「偉大なる物語」。

総重量25トンを超えるイタリア・カラーラ産の大理石に彫られた群像。

人間の存在とその意味、とくに男の人生をあらわしている。

後藤良二作の「交叉する空間構造」。

黒い男性像と赤い女性像が各72体、お互いに手足をつなぎ連なっている。

炭素原子を人体に置き換えダイアモンドの分子構造を表している。

人間の連帯が生みだす若々しいエネルギーを感じさせてくれる作品だ。

違った方向から見た丘の上の作品群。

緑豊かな庭園の野外美術館の素晴らしさが伝われば幸いです。

カール・ミレスの作品「神の手」。

この作品は大自然の中で見る場所・場所によって表情を変える不思議な作品だ。

手の指の上で何かを訴えているような人の像はまるで生きているようだ。

バリー・フラナガンの「ボクシングをする2匹のうさぎ」。

2匹のうさぎが戯れているようで躍動感が伝わってきて楽しい。

広いウッドデッキと数本の杉の木の中にある大きな大きなベンチが2つ。

よく見ると卵の目玉焼きが2つ。

なんてユニークな発想だろう。

硬くなった頭にガツンと衝撃を与えられた。

星形を角度を変えて重ねた図形の迷路「星の庭」。

中に入って空を見上げるとまた違う印象を持つらしい。

山本信・作の「ハイッ」(Hey!)1992年。

コミカルな姿といい、色使いといい、見ていると心が和む作品だ。

あの有名なジョアンミロ(1893-1983)の作品「人物」1972年。

これは、ひと目見てミロだとわかる。

堀内紀子・作「ネットの森」。

おくりもの、未知のポケット2、手染めナイロン組紐、手鉤編。

この作品は建築設計、構造設計の方々、そして外国企業の共同作品だ。

作品の中を登ったり、跳ねたり、ボールに乗ったり。

色彩と造形をからだ全体で感じられる体験型アート作品だ。

オシップ・ザッキン(ロシア-フランス)(1890-1967)の作品「山野を歩くヴァン・ゴッホ」1956年。

小さな子供が真剣にレンズを向けている姿が印象的だ。

ピカソ館。

ここではパブロ・ピカソの陶芸を中心に絵画や彫刻、タピスリー、

ジェマイユ、金銀オブジェなどの多彩な技法の作品を展示している。

特にピカソのあまり見ることができない青の時代の作品がとても新鮮でインパクトを感じた。

この館の大きなアールで白一色に黒字でPICASSOの意匠デザイン。

まさにシンプル イズ ベストの建物だ。

フェルナン・レジェ(フランス)(1881-1955)の作品「歩く花」(1952)ブロンズ塗料。

20世紀前半に活躍した画家レジェは晩年に建築との共同製作を目的とするモニュメントを手がけた。

躍動感あふれるこの作品は太陽に向かって勢いよく前進しているかのように見える。

レジェの作品の所から次のエリアに向かう道中の風景。

整備された自然の中に芸術が点在していて素晴らしい野外美術館だ。

この辺は人体彫刻の集まるエリアで、この作品はイタリア現代彫刻の代表的作家

エミリオ・グレコの作品「水浴びをする女」。

山々をバックに思い切り背伸びした姿は何とも爽快だ。

そういえばこの像を見て頭に浮かんだのが埼玉県立近代美術館のある

北浦和公園のメインアプローチの所に圧倒的存在を示している

エミリオ・グレコ作の「ゆあみ」だ。

姿はそっくりだ。

岡本寛、ルクムエナ・センダ作「妖精たちのチャペル」2005年。

総合プロデューサーは桂由美、監修はアートアソシエイションジャパン瀬戸本淳建築研究室。

ステンレススチール、フロートガラス、高透過フロートガラスでできている。

さすが温泉処の箱根、源泉かけ流し足湯でホッと一息。

ここが彫刻の森美術館の一番奥にあたる。

ガブリエル・ロアール作「幸せをよぶシンフォニー彫刻」。

高さ18メートルの幻想的なステンドグラスの棟の上からは、美術館全体と箱根の山々が見渡せる。

それにしても、ここ彫刻の森美術館は本当に様々な要素が盛り込まれていて、

入館前の想像をはるかに超える刺激性があって、この段階で頭がパンクして、

なかば恍惚状態になっていた。

ここはすごい所だ。

ロバート・マンゴールド(アメリカ)1930-作。

「風の歌V」1989、ステンレススティール塗料。

6色に塗り分けられた48枚のステンレス製の翼。

金属製の翼が風を受けて軽やかに回転する。

この辺りは巨匠ヘンリー・ムーア(イギリス)(1898-1986)の作品が沢山並べられていた。

「ふたつに分けられた横たわる像・ポインツ」「ファミリー・グループ」

「ふたつに分けられた横たわる像No1」「母と子・台座」「大きな糸つむぎの形」。

背景に咲いているのは河津桜(3月7日撮影)。

次のエリア、緑陰広場に来て、また強烈なインパクトある彫刻が現れた。

ニキ・ド・サン・ファール(フランス)(1930-2002)の作品「ミス・ブラック・パワー」1968。

ポリエステル樹脂とポリウレタン塗料。

妊娠した友人の日ごとに大きくなっていくお腹に発想を得たという。

その堂々たる様が全ての女性を讃えている。

猪熊弦一郎(1902-1993)作「音の世界」1979。

アントニー・ゴームリー作「密着Ⅲ」。

手足を思い切り伸ばし、大地にまさに密着しようとしている姿。

作者自身の体の型を取って作った。

鉄の塊が自重で地球の芯に引きつけられる姿は私たちも地球の一部であることを強く感じさせる。

緑陰広場、その先の幸せをよぶシンフォニー彫刻を見渡せる所からパチリ。

自然の樹木の中に彫刻が散存しているのがわかる。

伊藤隆道(1939~)の作品「16本の回転する曲がった棒」1969。

この作品は電気を使い、モーターで回っている。

ステンレスの曲がった棒は単純な動きを繰り返しているのに、

光を反射させながら空や周りの風景を写しこみ、くねくねとうなっているように見える。

今度は帰路のコースから見た芝の丘の彫刻作品群。

この芝が緑に変わるとこの風景も一変するのだろう。

人に聞いた話では夜のライトアップ見学イベントもやっているとか。

時期や時を変えて改めて訪れてみたいものだ。

これが本館ギャラリー。

コンクリート打放し壁に張りつけた作品はジャン・デュビュッフェ(フランス)1901~1985作の

「アルボレサンス」(1971~80)、エポキシ樹脂とポリウレタン塗料製。

ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)1931~の作品「追憶」2004、花崗岩。

いよっ!最後に大物が出てきた。

オーギュスト・ロダン(フランス)(1840-1917)作の「バルザック」1891-98。

「考える人」の作者ロダンは生命感溢れる表現で彫刻界に近代化をもたらした。

文豪バルザックの苦悩する内面性を深夜に想いを練るガウン姿で表現している。

本館ギャラリーで行われていた名作コレクション。

隣りの新館にはミュージアムグッズ、アート雑貨などが売られている

ショッピングモール、2つのレストランなどがある。

約1時間半の駆け足の鑑賞。

入館前までは軽い気持ちで入ったが、途中から彫刻芸術と箱根の自然のコラボに圧倒され、

大いに芸術的精神が満たされた幸せな時間を過ごすことができた。

次の機会はゆったりとした日程でじっくり堪能したいと思いながら、出口のトンネルに向かった。

このトンネルも気のせいか芸術的トンネルに見えてしまった。

 

 

 

ということで興奮した時を過ごし写真もなんと216枚も撮ってしまった。

そのうちの100枚弱をアップ。

自分の記憶では約2,400件ほどのブログ内で過去最大のブログになったのかもしれません。


箱根道中物語

2021-05-24 06:01:55 | 旅 ~国内

梅と桜の京都シリーズが長期にわたってしまった為、

この箱根シリーズは約1ヶ月半遅れになってしまい

季節感がちょっとずれた部分があるかもしれませんがご了承ください。

小田急線と箱根登山鉄道相互乗り入れの小田原駅。

ご覧のように3,500㎡の大空間を6点支持の三角形断面ジャイアントキールアーチで覆う

スーパーストラクチャーを実現した近未来的駅舎だ。

2003年に完成し、グッドデザイン賞にも輝いている。

使われている部材も最近時々見かけるデザイン性のあるパンチングメタルっぽい

金属鋼板が採用され、とても良い感じだ。

民間鉄道会社らしくお客に一生懸命おもてなしサービスをしようとのコンセプトからか、

小さな子供に駅員の帽子を被らせて記念写真を撮るイベントをやっていた。

1996年就役したEXE(エクセ)30000形エクセレントエクスプレス。

車体色は光を浴びるなどによって微妙に表情を変えるハーモニック・パールブロンブ。

グッドデザイン商品、ロングライフデザイン賞を受賞している。

久し振りに電車で箱根湯本駅に来た。

駅の昇降階段には箱根とエヴァンゲリオンがコラボしたアニメが描かれて、

一瞬足が止まるようなインパクトがあった。

駅全体の意匠は箱根駅伝の中継でよく見るアールのアーチになっている。

箱根宮ノ下で見たR1(国道1号線、東海道)の道路標識がなぜかとても新鮮に見えた。

箱根登山バス、伊豆箱根バスの宮ノ下温泉のバス停も何か物語性を感じてしまう。

やはり江戸から東京の時代の流れを感じる場所に立っての感慨か。

この宮ノ下地域もよく正月の箱根駅伝の中継でいろいろと話題になる所だ。

この地域の国道1号線を「宮ノ下ノスタルジック散策路」というらしい。

この後アップしますが、幾件もの古い店が軒を連ねていて一昔二昔前の街にタイムスリップしてしまう。

ここを翌日の早朝散歩でしみじみと歩いてみた。

ここは1878年(明治11年)創業の嶋写真店。

こんな山奥の箱根に明治の初めに写真館ができたこと自体が信じられない。

この店の歴史を調べるだけで、その当時の日本が凝縮されているのが見えてくるにちがいない。

ということで写真店のショーウインドーに飾られている写真を見るとやはりすごかった。

当店は日本でも十指に入る老舗写真店で、

4代にわたり箱根を訪れる多くの著名人、箱根の風景を撮影し、

今ではセピア調の記念写真を撮影する写真館として親しまれている。

チャーリーチャップリンのサイン入りの写真。

ジョン・レノンとオノヨーコ家族、

アド街ック天国にも出たということで当時の宣伝部長・愛川欽也。

その他多くの芸能人の写真が飾ってあった。

有名な富士屋ホテルの前にあるベージュイエローの建物がカフェ・ド・モトナミで、

隣りの赤い屋根の建物がアラモードすぎやま。

両店とも建物は古いが看板を見るとフランス語を使っている。

そのカフェ・ド・モトナミとアラモードすぎやまの前が江戸時代創業の土産物店・山田家。

この建物は100年以上前に建てられた歴史あるもので、

箱根名物の寄木細工をメインに彫刻や陶器など多様な工芸品を扱っている。

江戸時代初期に創業された小林商店。

箱根屈指の歴史を誇る老舗工芸店で、木像嵌の祖として皇室や宮家の御用を拝命していた店だ。

富士屋ホテルの隣りにある「PICOT」さんは地元では評判の有名なパンとスイーツのお店らしい。

当店は富士屋ホテルの経営らしくクラシックカレーパンや

レーズンパン、アップルパイが定番の人気商品とか。

100年以上経過した元郵便局の建物をリニューアルしたHakone HOSTEL 1914。

全部で5室しかなく、相部屋が1室ある。

とても安価な料金の宿泊施設のようだ。

明治20年創業の古美術商S・M・SHIBA芝商店。

浮世紀や磁器などを豊富に取り揃えているようだ。

明治28年皇室の宮ノ下御用邸として造営され、後に高松宮家別邸となった由緒ある

純日本建築の建物と庭園が魅力の「菊華荘」。

現在は富士屋ホテルの別館になっている。和食会場はこちらだ。

富士屋ホテルからさらに坂をのぼっていくと一角に歴史を有した商店が並んでいる所がある。

一番手前が渡辺ベーカリーで明治24年に創業。

箱根の湧水を使い翌日でも美味しく食べられる独特のパンを製法している。

その隣りは大正7年創業の魚浦商店。

さらに隣りが創業100年以上のお豆腐屋さんで豊島豆腐店。

名物は汲み豆腐。

さすが豆腐屋さんはもう暖簾が掛かっていて朝から営業している。

この3軒が100年以上の超老舗として続いているのがとにかくすごい。

箱根小涌園にあるユネッサン温泉のテーマパーク施設だ。

ユネッサンはスライダーなどのアクティブな施設や変わり種のお風呂を楽しむユネッサンと、

ゆっくり露天風呂を楽しむ森の湯に分かれている。

又、室内エリアと屋外エリアに分かれていて、様々な種類のお風呂がある。

尚、当施設は岡田美術館の前にある。

箱根登山鉄道には記憶にない位、本当に久し振りに乗った。

乗車した駅は「彫刻の森」駅。

ここは標高539mで5番目の箱根湯本駅までは443m下っていく。

席に座ってすぐ気が付いたのは手すりのなんと低いことか。

その理由がよくわからない。

箱根登山鉄道の名物とも言えるのがスイッチバック方式。

山の斜面を登る(下る)ために車両を前後に移動させつつジグザグに進む。

その場所は出山信号場と大平台駅、さらに上大平台信号場の3ヶ所で行っている。

因みにスイッチバックは車両の進行方向が逆向きになるため、

運転士と車掌が入れ替わるのも特徴です。

ところで令和元年(2019年)10月に発生した台風19号の被害で

約10ヶ月間、箱根登山鉄道は運休していたが、

令和2年(2020年)7月23日ついに全線で運転が再開された。

今回窓から何ヶ所もその傷跡を見ることができ、改めて被害の甚大さを目の当たりにした。

帰りの小田急ロマンスカー60000形MSE車。

日本初の地下鉄直通有料特急用として2008年に登場。

第52回ブルーリボン賞を受賞した車両だ。


仙台城跡

2021-02-04 06:40:01 | 旅 ~国内

仙台といったらこの像、伊達政宗像が最初に目に浮かぶ程、有名な銅像だ。

この騎馬像は政宗の300回忌にあたる1935年(昭和10年)に仙台城本丸に建立された。

作者は日本の地元彫刻家・小室達氏で現在のは昭和39年10月9日に復元された第2代目だ。

これが仙台城跡の案内図。

仙台城の面積は約2万坪で江戸城の次に広く、全国で最大級の大きさの城だった。

現在、往時の建物は残っていないが長い歴史が刻まれた石垣と

復元された大手門脇櫓等が往時の城を偲ばせている。

東日本大震災の記憶の「昭忠碑」。

この碑は明治35年に西南戦争・日清戦争等の戦没者を慰霊する為に設遺された。

昭忠とは忠義を明らかにするという意で小松宮彰仁親王の揮亳による。

昭忠碑の塔上に設置された鵄は戦前の金属供出を免れた

彫刻作品(前述の伊達政宗像は戦争で供出された。)で東北地方で最も古い作品だ。

2011年3月11日の東日本大震災により鵄が塔上から落下し大きく破損した。

その修復と安全性を考えて基檀上に設置されている。

城跡の一部は青葉山公園となっていて、伊達政宗の像が立つ天守台は眺めがよく、

遠く太平洋、仙台市の代表的風景、宮城蔵王の山並み、日本で2番目に大きい仙台大観音など

素晴らしい風景を一望することができ、絵葉書などにもなっている。

この時は緊急事態宣言下でもあり、城跡内にはほとんど観光客も来ておらず、

日常のゆったりした時間が静かに流れていた。

地面には正月降ったという雪が残っていて冬の風情となっていた。

仙台城見聞館は平成18年仙台城本丸跡につくられたガイダンス施設。

館内では仙台藩の儀式や政務を執り行った本丸大広間に関連した展示を中心に、

仙台城跡の見どころについて分かりやすく展示している。

大広間の50分の1復元模型や藩主が座った上段の間の床の一部を

原寸大で再現した展示も見ることができる。

普段は仙台城発掘などのDVDを上映しているが、

コロナウイルス感染防止のため放映を中止している徹底さには正直驚いた。

本丸大広間跡の遺構。

仙台城は初代仙台藩主・伊達政宗によって造営され、

慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされている。

城は東と南が広瀬川と竜の口渓谷の断崖、西が険しい山に囲まれた天然の要害で、

石垣は主に本丸の周りに築かれた。

築城当初は、本丸と現在の三の丸と呼ばれている地区が整備された。

その後、二代藩主・忠宗が二の丸を造営すると、二の丸が藩政の中心となった。

この写真は午後2時頃撮った一枚だが、雲一つない快晴の空の右上の方に月がうっすらと出ていて、

仙台城跡の伊達政宗公の騎馬像と松の風情と相まって詩情の世界の一枚となった。

この一枚を見て明治中頃に作られた名曲「荒城の月」を思い浮かべてしまった。

作曲は滝廉太郎、作詞は仙台出身の土井晩翠。

まさに悠久の月である。

尚、仙台城には荒城の月の歌碑が昭和27年に晩翠の胸像とともに建立された。

この除幕式には病をおして晩翠は出席し

「身にあまるほまれをうけて ただなみだ 感謝をささぐ一切の恩」と詠み、

その場で号泣したという。

本丸城跡にある宮城縣護国神社。

明治維新以降の諸事変、戦没における宮城県関係

あるいは縁故のある戦死殉難者、5万6千余柱を祀る。

創建は明治37年。

 


仙台駅構内風景

2021-02-02 06:49:16 | 旅 ~国内

仕事の関係で仙台へ日帰りで行って来ました。

それにしても大宮駅から仙台駅まで東北新幹線で1時間半で行ってしまう。

改めて近くなったナーと実感いたしました。

JR仙台駅の2階および3階のコンコース部分。

この新駅舎は昭和52年に竣工した。

東北新幹線が昭和57年に大宮駅と盛岡駅の間で暫定開通し、

この時に新駅舎は全面的に共用を開始した。

尚、新幹線ホームの発車メロディーは仙台フィルハーモニーによる青葉城恋唄が流れているそうだ。

コンコース内では1月12日~1月23日まで京都展が行われていた。

仙台で京都とは若干変な気もした。

牛たん、ずんだ、寿司など定番の宮城グルメをはじめ、白石温麺やはっとなど、

宮城ならではの郷土料理やご当地食材を精巧なミニチュアで再現。

山海の幸に恵まれた宮城ならではの食文化やお料理、食材…その数男と80個。

思わず手に取ってみたくなるミニチュアから、宮城の豊かな食文化を感じる。(ヨリ未知 SENDAI)

広い駅構内3階の一角に有名な「牛たん通り」と「すし通り」がある。

2003年7月に開業した。

牛たんは仙台が発祥の地で、この通りには6軒、すしは宮城の旬のもので寿司屋さんが4軒ある。

ストリート中程に「仙台の牛たん」について詳しく書かれたパネルがあった。

(1)仙台牛たんは何故ここまで有名になったのか。(仙台名物になるまでの道のり)

㋑発祥は戦後の混乱の時代の1948年(昭和23年)。

牛たんを日本人の好みに合うように調理法を考案し提供したのがはじまり。

高度成長時代サラリーマンたちの間で評判に。

単身赴任や転勤により、仙台にやってきたサラリーマンたちの心をつかむ。

㋺高たんぱく、低脂肪、低カロリー!

健康食品としてマスメディアで紹介「牛たん」が話題に。

因みにコレステロール0、良質たんぱく質はロースやカルビの約1.5倍、

脂肪分はロースやカルビの約3分の1、カロリーはロースやカルビの約2分の1。

㋩定番・牛たん定食は今も昔も変わらないスタイル。

牛たん焼き(南蛮味噌、浅漬け)テールスープ、とろろ、麦飯。

(2)牛たんとは「牛の舌」

一頭の牛から取れる量は約1.3kg~1.6kg。

うち牛たん焼きとして使うのが約800g、約7人前。

部位(たん先、たん中、たん元、さがり)によって食感や調理法が異なり、様々な料理を愉しむことができる。

(3)仙台牛たん、美味しさの3つのこだわり

㋑味がなじみやすく、食べやすいよう、一枚一枚に気配りの切り込みを入れる。

㋺熟練の職人による仕込とよばれる熟成作業がある。

㋩職人が本格炭火で心をこめて丁寧に焼き上げる。

「仙台に来たら食べていってけさいん。」

前述したとおり、牛たん通りには6軒入居している今回行った「善治郎」を含むと

行っていないのは「牛たん焼助」「伊勢屋」の2軒のみになった。

牛たん通り、すし通りのリニューアル工事が2020年6月26日に完成したのを記念して

伊達政宗の3代目の騎馬像が新たなシンボルとして造られた。

もつ一つのすし通りの「みやぎの寿司」の看板。

(1)みやぎのすしがおいしい3つの理由

㋑日本屈指の漁港と世界三大漁場と呼ばれる恵まれた漁場を持つ水産県。

㋺142の漁港と9か所の産地魚市場があり、新鮮なネタの仕入れが可能。

㋩米どころ宮城のお米で作るシャリと新鮮なネタが相性抜群。

(2)みやぎおすすめの海の幸

メバチマグロ、アカガイ、牡蠣、フカヒレ、ホヤ、鮃えんがわ、金華さば

(3)おすし屋さんが使うすし用語、すしの数え方、

粋な数字の数え方(ピン、ののじ、げた、だり、めのじ、ろんじ、せいなん、ばんど、きわ、よろず)

(4)おすしを美味しく味わうための注文の順番

淡白な味から味の濃いものへ

①白身魚②光り物③赤身魚④サーモンなど⑤ウニ、イクラなど⑥大トロ⑦玉子焼き⑧巻物

又、牛たん通り、すし通りの壁ポイント・ポイントにご覧のような

仙台の工芸名産品のPRコーナーがあった。

全部でいくつ紹介されているのかわからないが目に入ったものをアップしてみました。

伊達政宗公が産業奨励の観点から、御所の筆師を京都から連れ帰り、

下級藩士に副業として習わせたことから始まった「仙台御筆」、

東北地方に古くから伝わる「伝統こけし」。

全部で11系統あり宮城県内には「鳴子系」「遠刈田系」「弥治郎系」「作並系」「肘折系」の5つがある。

伊達政宗公が鮎釣りに愛用したという「仙台釣竿」。

この釣竿は一本の竹のように平均して力がかかるように工夫され、

強さと美しさを兼ね備えた逸品です。

もう一つ目立ったのが仙台張子のだるまさん。

古くから仙台庶民の信仰の中に親しまれてきた仙台張子は天保年間(1830~1844年)ごろ、

仙台藩の藩士・松川豊之進によって創始され、

以降、仙台藩の下級武士の内職として盛んになったと伝えられている。

仙台張子の主流である「松川だるま」は、顔の周りが群青色で縁取られ、福の神や宝船といった

絢爛な飾り物を身にまとっており、仙台の縁起物として親しまれている。

そんな東北の工芸品を売っている店があった。

そんな中の一つに幸福を呼ぶ福の神「仙台四郎」は個性的なキャラクター人形として知られている。

又、通りの壁にはもう一つシリーズ物の写真が掲載されていた。

せんだい旅日和として世界的建築家・伊東豊雄氏の大表作「せんだいメディアパーク」。

変化に富んだ渓谷を紅葉が鮮やかに彩る「鳴子峡」。

そして日本三大御湯と称される「秋保温泉」などの仙台観光情報も並んでいた。


横浜みなとみらいエリア

2020-12-22 06:51:24 | 旅 ~国内

今回の横浜みなとみらいエリア視察研修で若干かぶったものもありますが

気になったものをピックアップして並べてみました。

キングの塔(神奈川県本庁舎)・クイーンの塔(横浜関税)・ジャックの塔(横浜市開港記念会館)は

地元では「横浜三塔」と呼ばれ、横浜港のシンボルとして長年市民に親しまれている。

都市開発が進んだことによって、周りにビルが建ち目立ちにくくなってしまったが、

建った当時は他に目立つものはなく、横浜港に入港してくる船の目印になっていた。

またキングの塔には横浜港の守り神である伊勢山皇大神宮の分霊が祀られていた。

これらの塔の愛称は入港する船の外国人船員達がトランプのカードに例えて名付けたといわれている。

また、みなとみらい地区の都市計画にも「ジャックモール」・「クイーン軸」(クイーンズスクエア)・

「キング軸」とこれらの名前が使われている。

現在ではこの三塔を同時に見ることのできるスポット(神奈川県庁の正面、横浜赤レンガ倉庫、

大桟橋、国際客船ターミナル)を全て回ると願いが叶うという。

三塔を同時に見られる場所は、いずれもみなとみらい線大通駅から徒歩10分以内の場所にあり、

現地には目印も設けられているので訪れることは比較的容易である。

三塔の建物同士も半径100mの範囲内に近接して建っている。

エースのドーム「神奈川県立歴史博物館」

旧館(1904年明治37年、横浜正金銀行として開業・国の重要文化財)を加えて「横浜四塔」とする場合もある。

(ジョーカーでないのは三塔より古く荘厳かつドームがエースのように見えるからだという。)

キングの塔 1928年(昭和3年)完成 高さ約49m

クイーンの塔 1934年(昭和9年)完成 高さ約51m

ジャックの塔 1917年(大正6年)完成 高さ約36m

みなとみらい地区にある都市型遊園地「よこはまコスモワールド」。

ここは泉陽興業(株)が経営している。

元々は1989年の横浜博覧会の開催時から大観覧車「コスモクロック21」と共に運営されていた

「コスモワールド子供共和国」という出展施設の一つで

「コスモロック21」が博覧会終了後も存続することに決まったことからコスモワールドも運営が続けられた。

その後、コスモロック21が対岸の新港地区(15街区)側に1993年3月18日に移転リニューアルオープンした。

ここコスモワールドは「ワンダーアミューズ・ゾーン」(15街区)と

「ブラーノストリート・ゾーン」「キッズカーニバル・ゾーン」(共に23街区)の3ゾーンからなる。

「ワンダーアミューズ・ゾーン」は水と緑にあふれた空間の中に、

前衛的でアートフルな建築デザインが融合した”未来の理想的な遊空間”がテーマコンセプト。

「ブラーノストリート・ゾーン」はイタリア・ブラーノ島にある

水辺のカラフルな町並みをイメージテーマに展開している。

「キッズカーニバル・ゾーン」は子供達が現実の世界を忘れて思う存分遊べるように

運河に挟まれた出島部分に子供向け遊具を集約、夢のある「おとぎの島」のイメージを追及している。

また、2020年度末の開業を目指している「YOKOHAMA AIR CABIN(ヨコハマ・エア・キャビン)」は

桜木町駅周辺から新港地区まで汽車道沿い約600mに日本初の都市型ロープウェイを運用予定。

このライトアップ(照明デザイン)は横浜ベイブリッジや東京タワー、

姫路城などのライトアップを手掛けた石井幹子が担当する。

みなとみらい地区(23街区の一部)にある周地区で

最初に整備された公園(港湾緑地)の「日の丸メモリアルパーク」(前身は三菱重工業横浜製作所)。

展示施設として帆船日本丸および展示ドック、海事博物館の横浜みなと博物館がある。

日本丸と展示ドックは国の重要文化財に指定されている。

日本丸の展示ドックとなっている横浜船渠は、海軍技師・恒川柳作が設計、1898年に竣工した。

2000年12月に国から重要文化財の指定を受け、

さらに2007年11月に経済産業省による近代化産業遺産にも指定された。

また、1930年に進水した文部省の航海練習帆船「日本丸」は1984年9月16日に退役した後、

1985年4月よりパーク内の展示ドックで浮体展示されている。

2017年9月に国の重要文化財に指定された。

そして横浜みなと博物館内の一部エリアにはサントリートリスの漫画で知られている

「柳原良平アートミュージアム」の常設展示室もある。

https://www.nippon-maru.or.jp/

横浜ランドマークタワーは横浜みなとみらい21の中核を担っている超高層ビルで

オフィスのほかホテルやショッピングモールなどからなる複合施設。

三菱地所が所有し、1990年3月20日に着工され、1993年7月16日に開業した。

70階建てで高さは296.33m。

超高層ビルとしては2014年に開業した大阪市のあべのハルカスに次いで日本で2番目に高い。

特徴的な建物のデザインはアメリカの建築家ヒュー・スタビンスによるもの。

日本丸メモリアルパークをはじめ、よこはまコスモワールド一帯の樹木に写真のように

LED照明が巻き付けられ華やかなイルミネーションが輝き、

この一帯はただでさえロマンチックな街並みなのにこの光でさらに幻想的空間を作り上げていた。

帰路、すでに夜の帳が落ちた中、真新しいビルが立ち並ぶみなとみらいエリアも美しい夜の顔が

いたるに現れてきたのを車中からパチリ。

雰囲気ありますよね!