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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

秋の田沢湖周辺

2019-12-11 05:08:39 | 旅 ~国内

秋田新幹線こまちに乗ってみちのくの秋を訪ねてみました。

E6系の愛称こまちのラインカラーはピンク。

今から20年以上前の1997年3月22日に開業しました。

田沢湖駅のプラットホームには「たざわ湖龍神まつり」で登場する

辰子姫の龍が展示してありました。

永遠の美と命を求め龍の姿を得た辰子姫の伝説によって田沢湖は

「縁結びの湖」「出会いの湖」として知られています。

さいたま竜神祭がスタートしたばかりの頃、

このたざわ湖の龍神が来てくれたことをきのうの様に思い出します。

田沢湖駅の歴史は大正12年の開業。

現代の近代的な駅舎は平成9年秋田新幹線の開業によって建て替えられました。

この駅舎の設計は現在注目されている坂 茂氏。

集成材が耐火被覆と仕上げ(美観)を兼ねる工夫がされ

グッドデザイン賞を受賞しました。

これが田沢湖周辺の地図。

田沢湖駅、田沢湖は平成の大合併によって

田沢湖町、角館町などが合併して仙北市となりました。

田沢湖湖畔にある広い広いドライブイン。

紅葉の季節というのに人気があまりなくさびしい所でした。

先日BSTVでここを放映していたがそのいくつかを紹介しましょう。

このドライブインに来訪予定の団体名が書かれた札を見ていると

つくづく時代は変わったと思います。

確かに秋田新幹線に乗ればわけなくここに来ることができますが、

日本の中ではそれ程ここはメジャーな観光地ではない。

それなのに台湾の団体が3グループ、

香港のグループが1つと4割を占めています。

秋田といえば薩摩地鶏、名古屋コーチンと並んで

日本三大地鶏の1つに考えられている比内地鶏が有名です。

比内鶏の特徴は歯ごたえがあるが、

加熱しても硬くなり過ぎず、肉の味が濃い。

濃厚な脂の旨みなどがあげられています。

秋田名物料理のきりたんぽ鍋と相性が良く、よく使われています。

現在、比内地鶏より評判になっているのがロシアの女子フィギュアスケーター、

アリーナ・ザギトワの愛犬マサルで有名になった秋田犬です。

ここにいる天空(そら)という秋田犬もTV放映ですっかり有名犬になってしまいました。

お客がほとんどいないのに日本三大うどんのひとつ、

稲庭うどんの手延べ製法の実演をやっていました。

稲庭うどんはひやむぎより太く、やや黄色味かかった色をしています。

製法としては、うどんというより、そうめんに近い。

打ち粉としてデンプンを使う点や、平べったい形状が特徴です。

ドライブインのレストハウスを下りた所からいよいよ遊覧船に乗って田沢湖巡りだ。

この遊覧船は4月から11月まで営業しています。

遊覧船乗り場の近くは浜辺になっていて、湖水浴場として認められている。

海水浴場と同様の利用ができます。

田沢湖にはクニマスなど数種の魚が生息していましたが、

強酸性の源泉を含んだ水を湖に導入する水路が作られた為、

ほとんどの魚類が姿を消しました。

現在は水質を改良したため、ご覧の様な沢山のウグイを中心に復活しました。

船着場で販売されていた餌をあげたら、気持ち悪い程食べに来ました。

この遊覧船は羽後交通興業が運営しています。

前述のレストハウスも同じ会社が経営しているそうだ。

田沢湖は直径約6kmの円形カルデラ湖で国内で19番目の大きさの湖だ。

この湖が有名なのは最大深度423.4mと日本で最も深い湖ということ。

因みに第二位は支笏湖、第三位は十和田湖、

そして世界一深い湖はバイカル湖だ。

田沢湖は世界では17番目の深さで日本のバイカル湖と呼ばれています。

丁度行った時(11月9日)は紅葉の季節で田沢湖を囲む山々も

よい感じだったので多くアップしてみました。

緑濃く見えるのが有名な秋田杉。

赤・黄・緑のグラディエーションの美しさに暫し船上から見とれてしまった。

田沢湖は日本百景にも選ばれている景勝地だ。

湖の北岸にある御座右神社。

ここには辰子が竜になるきっかけとなった水を飲んだと言われる泉がある。

太陽の光の具合もあるのだろうが、

このあたりの湖水の色は特に美しく、

ペルシャンブルーと言われているとか。

本当に美しい紺碧の色でした。

田沢湖でもう一つ有名なものがこの「辰子姫像」。

舟越保武作の像だ。

田沢湖には民間伝承に基づく辰子伝説がある。

イワナを食い水をがぶ飲みし、龍の体になった辰子が

八郎(八郎潟)とやがてめぐりあって夫婦となったという辰子伝説だ。

たつこ像の近くに湖に張り出す形になっている小さな神社「漢槎宮」。

この山の紅葉した姿を見ると浦和出身の画家で点描画で知られている

高田誠画伯の絵を思い浮かべる。

田沢湖の豊富な水量は湖底の湧水が支えていると考えられています。

田沢湖から乳頭温泉に向かう途中に燃えるように紅葉した

カエデの木が数本あったので途中下車してしばし記念撮影会となった。

まさにこれが紅葉だと言った風景に感激!!

田沢湖周辺では、はちみつが採れるらしい。

昭和52年に開業した「山のはちみつ屋」さん。

当店の建物は蜂の巣を模したのだろう。

天井もハニカム的形態の構造になっています。

ここは、はちみつ、はちみつジャム、はちみつフルーツ酢、

はちみつだらけの甘~い店だ。

 


雷電神社

2019-11-29 06:42:03 | 旅 ~国内

こんな所にこんな立派な神社があるとは、まだまだ日本で知らない所が

いっぱいあるという思いをさせる雷電神社。

板倉町にある雷電神社は関東一円、

特に利根川中上流域に点在する雷電神社の総称で、

創建は聖徳太子によるものだといわれている。

延宝2年(1647年)には上州館林藩主・

徳川綱吉公(後の第5代将軍)の命により社殿の大改修が行われ、

以後徳川三ツ葉葵の紋章の使用を許されている。

主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神。

この地は古くから雷の被害が多い土地のこともあって繁栄したのだろう。

それにしてもこの赤い雷の顔はなんとなくかわいい。

はっきり言ってこんな田舎の地にこんな立派な彫刻が

廻らされている社殿があったとは驚きだ。

本社社殿には左甚五郎から10代目の

石原常八の作とされる彫刻が全面に彫られている。

現在の本社社殿は天保6年、奥社社殿は慶応4年の造営である。

明治時代には郷社に列せられ、今日では雷除けはもとより、

氷嵐除けや豊作祈願、厄除けや安全、

特に電気関係をはじめとする請工事の安全の神として名高い。

この奥宮は安産、家内安全、縁結びの女神である

伊邪那美命を祀っている。

東広場の向こうの門の中には災難除け、

元気回復のなまずさん像がある。

なでると地震を除けて自信が湧き出るという。

授与所の前にあるのは御神木だ。

鳥居の近くの一番目立つ石柱にはいつ寄贈されたのかわからないが

金百圓の文字がはっきり読みとれる。

本殿から見た鳥居越しの参道。

入口の近くには左右に名物なまず料理が食べられる

いかにも古そうな食堂が2軒並んでいる。

この日は左側にある鰻の「林家」さんで昼食となった。


佐野厄よけ大師

2019-11-27 06:46:44 | 旅 ~国内

佐野厄除け大師とは通称で正しくは山号は「春日岡山」、

寺号は詳しくは「春日岡山転法輪院惣宗官寺」と称し、

天台宗の寺院である。

又、当山は厄よけ元三慈恵大師を安置し、厄よけ、身体安全の祈願を続け、

年毎に信者が激増して正月大祭には約百万人以上の参拝者が来るという。

http://www.sanoyakuyokedaishi.or.jp/

この山門は当山が江戸初期(慶長8年)、

現在の城山公園より現在地に移転する際、

移されたもので約10万石の格式の大門といわれており、

総けやき造りの堂々たる風格を誇っている。

厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された。

金銅大梵鐘は人間国宝・香取正彦によって謹製された

日本一大きな金の梵鐘で昭和59年4月に完成した。

明暦4年(1658年)天明鋳工105人が合作して寄進した大鐘の銅鐘。

竜頭は蒲宇(想像上の動物)の首を現している。

天明鋳物の中でも代表的作品である。

先代住職が三大師を提唱、以後当山は関東の三大師として定着した。

因みに他の二大師は青柳大師、川越大師だ。

これが今年の厄よけ、方位よけの一覧表。

健康は最上の利益

満足は最上の財産

信頼は最上の縁者

心の安らぎは最上の幸福である

当山では次の祈願もしている。

方位除災・身体安全・家内安全・商売繫盛・心願成就・

交通安全・進学祈願・無事安産・海外渡航安全・

虫封じ・新築祈願・社内安全

奇跡のれいすい観音。水は生死の海の水を意味している。

平成24年1月9日未明、盗難に遭ったが

皆様の願いが通じたということで同年2月22日朝、

駐車場(佐野市大町地内)に雨の中一人でたたずんでおり、

無事に帰ってきたという逸話がある観音様。

昭和53年に建立された子育て地蔵尊。

ふくよかで愛らしい笑顔のお小僧さんで

竹ぼうきを持って立っているまめまめしい姿は

お子様の無事成長を願う親達の心に言い知れぬ期待感を与える。

-はけば塵拭えば又散り積もる 人の心も庭の落葉も-

当大師さまには驚いた。

御礼の気持ちの奉納所、おみくじ、絵馬などが

自動販売機で取り扱われていた。

その自販機にはおみくじのひきかたまでもが書かれている。

「目をとじて生年月日を唱えながらひいてください」

こんなやり方でご利益の気持ちが起きるのかしら?

神仏の神秘性が無くなってしまうのでは。

義人・田中正造の墓が当山にあるとは知らなかった。

田中正造翁(1841~1913)は佐野市小中町に生まれ、

この惣宗寺を本拠地として政治の道に進み、

栃木県会議長を経て帝国議会代護士となり、憲政史上に不朽の名を留め、

全生涯を正義の旗手として人々の尊重と自然保護のために捧げた。

翁の没後、当寺院で本葬が執行され、

遺骨は、ゆかりの地5ヶ所に分骨埋葬された。

近代日本の先駆者・田中正造翁は明治34年12月10日、

第16議会開院式から帰る途中の明治天皇に、

足尾鉱山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民の窮状を直訴した。

当時盛岡中学四年在学中の石川啄木は

この感動を31文字に託したのがこの歌碑の歌だ。

夕川に葺は枯れたり 

血にまとう民の叫びの

など悲しきや    啄木

この佐野東照宮は徳川家康公の御霊が静岡県久熊山より日光遷座の途中、

元和3年3月28日、一泊、この仏縁により

諸大名の寄進にて本殿等の造営が成り、

江戸後期を代表する華麗、精緻な技巧によって完成された。

全国に祭祀されている東照宮社殿400余社の中、

最も優れた建造物と高く評価されている。

佐野といったら佐野ラーメン、いもフライに大根そば。

それをキャラクターにした記念写真用パネルが境内にありとても目立った。

 

 

 

 


三浦半島の旅

2019-10-19 07:03:56 | 旅 ~国内

比較的近い三浦半島へは宿泊でなかなか行く機会が少ない所だ。

ここは温泉も出てなく満足できるホテル旅館も少ないのもその理由にあるかもしれない。

しかしこの地には城ヶ島、三崎港、油壺などの景勝地もある。

今回の研修旅行はこの地に着いた時あたりから状況は激しく変化してきた。

宿泊先はホテル京急油壺 観潮荘。

外観から見てもここはイマニのレベル。

そこへ夜中に強烈な台風15号が上陸してくるとは・・・。

宴会も終わり二次会あたりから外が雨と風で騒々しくなってきた。

ファクサイと命名された台風15号がまさかのこの地、三浦半島に上陸。

台風の上陸地点に居るのは人生初めての経験だ。

夜中になると部屋の窓に激しい雨と風がバチャバチャ吹き込み、

微妙に建物が揺れ、なかなか寝付けない。

トイレに行くと真っ暗くら。

初めは電球が切れたのかと思ったが、この時間から停電だ。

そうこうするうちに館内放送が始まった。

「只今非常警報が鳴りましたが、確認をしたところ問題はございません。

ゆっくりおやすみ下さい。」

外はもうゴーゴーすごい風と雨の音。

ゆっくり寝るどころの騒ぎじゃありませんでした。

明け方、風呂に入ろうと廊下に出たら真っ暗。

廊下の隅にランタンが置いてあり、お風呂のお湯もぬるくなっていた。

そうだ、ここは沸かし湯だった。

露天風呂は木の葉と小枝でいっぱい。こんなこと初めての貴重な体験だ。

そして朝食になると停電の為ごはんが炊けず、

近くの系列ホテルに取りに行くので若干待って下さいとの事。

当ホテルはどうやらオール電化らしい。

その後この台風15号は主に千葉県に甚大な被害をもたらした。

台風が上陸する前の三浦半島のなだらかで広々した畑。

三浦半島の魅力のひとつは人気を誇る広大な自然で育った野菜だ。

三浦・横須賀野菜は一流ブランド野菜として注目を集め、

都内のレストランシェフが朝獲れ野菜を買い付けに訪れるほどだ。

ブランド野菜でも有名なのが三浦大根。

今では紅しぐれ大根、紫大根など種類のラインアップも増え、

その緻密で柔らかい肉質、みずみずしさからサラダピクルスにも大活躍。

又、煮崩れしにくいという特性から煮物にもぴったりだ。

その他カブ、ルッコラ、パクチー、クレソン、ベビーキャロットなど

西洋野菜まで広がっている。

こちらは台風通過後の畑。二枚目の写真には富士山が写っている。

今思うとこの近辺の台風被害の写真をなぜ撮らなかったのだろうと反省しているが、

停電によって信号が消え、あちらこちらに樹木が倒れ、

一番ひどかったのは住宅の2階屋根部分が吹き飛んで道路をふさいでしまった事だ。

その結果、大渋滞。この交通事情は帰る迄続いた。

三崎港にある三浦市超低温魚市場冷蔵庫。

冷凍技術の進歩は大げさに言えば鮮魚の世界に一大革命を起こしている。

このエリアに到着した頃にある所から緊急連絡が入った。

今回の研修の最大の目玉「防衛大学校の視察」の防衛大から

夜中の台風の風と雨により防大へ入る道が多くの倒木によって遮られ入校できない。

又、校舎も雨によって漏水し見学の対応ができないのでヨロシクお願いします、との事。

ヤァーマイッタナ!残念!

大変なタイミングに来てしまったナ。様々な思いが去来しました。

しかし一行の一人が言った言葉が気持ちを変えました。

「また来ましょうヨ。今回はかならず記憶に残る研修になりましたヨ。」

台風一過の三崎漁港。

ここは全国の水揚量ではカジキ2位、キンメダイ2位、ブリ2位、

マグロ2位、サメ5位、タイ5位を誇る漁港だ。

その中でも取扱量の約80%を占めるマグロは日本でも指折の水揚量だ。

三浦漁港のすぐ隣にある三崎フィッシャリーナ・ウォーフ

「うらり」内にある「みうら・みさき海の駅」。

1階はさかな館で2階は三浦野菜で有名なやさい館。

http://www.umigyo.co.jp/

因みに海の駅は全国になんと168駅もあるそうだ。

これがうらりマルシェ1階の店内。

到着が9時過ぎという早い時間だったので他に来客はゼロ。

我々で貸切り状態でお店の方も丁寧に対応してくれた。

ここはなんといってもマグロ。

各部位のマグロが山積みになっていて、

高いイメージのマグロが安く感じる程でリーズナブル価格。

多少まとめ買いしたら端数はカット。

その上マグロ商品のおまけ付きとサービスがとても良かった。

 


港ヨコハマ エトセトラ

2019-10-15 13:18:31 | 旅 ~国内

今回の一泊研修は「行きは良い良い。帰りは怖い」を

絵に書いたみたいな旅となりました。

では初日、全てがスムーズに進んだ日のブログをアップします。

あまりにもスイスイとバスが順調に来た為、予定に余裕が生まれ明日アップする

「海上保安資料館 横浜館」へ急遽訪問。

その時、横浜港大桟橋には大型豪華客船ダイヤモンドプリンセスが停泊していた。

この大桟橋で見たのは2回目だ。

(1回目は2015-5-16付ブログ横浜ベイエリアを参照して下さい。)

この大型客船は写真の被写体としては絵になる。

この風景を一生懸命撮っていたカメラマンが又さらに絵になっていた。

この公園から見たみなとみらい21の風景。

そのシンボルとなっているのが真ん中に写っている横浜ランドマークタワー。

三菱地所が保有し、1993年に開業した日本で2番目に高い超高層ビルだ。

この角度から撮ったみなとみらい21は初めてだと思う。

ガラスのトンガリ帽子屋根をびっしり覆い隠した緑の草木。

その前を颯爽と歩く若い女性達。

なにか清々しいものを感じる一枚だ。

毎度お馴染みの赤レンガ倉庫。

いつもの角度とは違う裏側サイドから撮った2枚。

こちらは緑が多くて違った味わいがある。

この広い公園の中にうっかりしたら見逃してしまいそうな古いレールの跡を発見。

昔、倉庫に物資を運ぶために布設された路線かもしれない。

わざわざ残したのには何か理由があるのだろう。

ストーリー性を感じる。

バスの車窓から撮った赤レンガ倉庫とダイヤモンドプリンセス。

一枚目の車窓に付いた赤いステッカーが気になる。

よく見ると非常ブレーキの案内。

あまり見ないステッカーだが、このバスはまだホカホカの新車だそうだ。

横浜ベイエリアには横浜三塔と言われる有名な塔の建物がある。

その内の一つ横浜税関庁舎。

昭和9年に完成した建物でクイーンの塔と呼ばれている。

こちらは大正6年に竣工した横浜市開港記念会館でジャックの塔と呼ばれている。

赤レンガの建物でとてもお洒落、この塔は重要文化財だ。

肝心のキングの塔と言われる神奈川県庁庁舎は近くを通ったが車窓からの為、

上手く撮れなかったのが残念だ。

 

 

 

今回の横浜は写真集のようなものになってしまいました。

 


名古屋城本丸御殿 PARTⅡ

2019-06-24 06:14:18 | 旅 ~国内

名古屋城には4年半振りの訪問。

2015-1-6付ブログで主に本丸中心にアップした。

本丸御殿については2014年5月29日から公開されているが、

今回本丸御殿が完成し、

2018年6月8日から豪華絢爛の上洛殿も公開された。

これが名古屋城の全体地図。

名古屋城は徳川家康が天下普請によって慶弔14年(1609年)築城。

以降は徳川御三家の一つでもある

尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。

大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭は

「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。

この名古屋城大小天守、御殿などは昭和20年の大空襲で焼失。

戦後昭和34年、SRC造で今日の天守閣に復元された。

そして現在この天守閣を本来の木造に建て直すことが決定し、

平成30年5月から入場が禁止されている。

因みに木造天守閣の復元竣工予定は令和4年12月の予定で、

工費は約500億ということだ。

名古屋城といったら金のしゃちほこ(金鯱)。

別名「金鯱城」といわれ名古屋の街の象徴になっている。

金板張りの木造鯱では、現在はここ名古屋城大天守へ

載せられていたものを復元したもののみとなっている。

城内では68回にもなるさつき大会が行われていた。

多くの展示されていた作品の中で目に留まったさつきをアップしてみました。

1つは銘花(大)の部、もう1つは女性の部の作品です。

名古屋城本丸御殿は尾張藩主の住居かつ藩の政庁として

慶長20年(1615年)徳川家康の命によって建てられた。

昭和5年には天守閣とともに城郭として初めて国宝に指定されたが

昭和20年の空襲により建物のすべてを焼失してしまった。

今度復元された本丸御殿は日本を代表する近世書院造の建物で

総面積3,100㎡、13棟の建物で構成されている。

尚、玄関、表書院は2015-1-6付ブログに

掲載してありますので割愛いたしました。

身内だけが立ち入れる、豪奢かつ私的な殿舎の「対面所」。

藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた建物。

上段之間(18畳)・次之間(18畳)・納戸一之間(24畳)・

納戸二之間(24畳)の四部屋からなり、

上段之間と次之間の障壁画は「風俗図」と呼ばれ、

京都や和歌山の四季の風物や名所がおだやかな筆致で描かれている。

対面所と上洛殿を結ぶ鷺之廊下の格天井。

天井の障壁画がまだ描かれていない。

逆に、まだ未完成な所がリアリティを感じる。

本丸御殿の建築様式である書院造では、部屋の格式や用途によって、

天井や欄間、飾金具などのつくりや意匠が大きく変化する。

江戸時代初期に完成したと言われている武家風書院造の様式美と

現代の職人による匠の技は見応えがあって大したものだ。

特にこの欄間の彫刻は目を見張るものがある。

金をベースに派手な鳥が彫られている。

一見すると金ピカで超派手な感じもするが、

決していやらしさは感じなかったのは自分だけだろうか。

それにしてもすごい技だ。

ここ上洛殿は、寛永11年(1634年)に三代将軍家光の

上洛にあわせて増築された御成御殿だ。

江戸時代は御書院、御白書院と呼ばれていた。

本丸御殿の中でも最も格式の髙い建物であり、天井には板絵、

部屋の境には極彩色の彫刻欄間がはめ込まれている。

又、襖絵には王の正しい行いを描いた障壁画

「帝鑑図」や「雪中梅竹鳥図」は当時33才の狩野探幽によるもの。

ここにも「この部屋の天井板絵(復元模写)は現在制作中です。」

との注意書きが。

なかなか文化財見学の中でこの様なものは見ることがないので、

かえって新鮮に感じた。

この日も多くの観光客が本丸御殿に来ていた。

この中には最近は慣れてきた中国系の団体客も居た。

梅の間は将軍をもてなす役割に任じられた

尾張上級家臣の控えの間として使われた部屋だ。

上洛殿と共に寛永11年(1634年)に増築された。

上御膳所の中の御膳所。簡単に言うと台所だ。

西の丸の広場には何やら怪しい忍者たちがいた。

海外では忍者はポピュラーらしくアジア系外国人が一緒に記念写真を撮っていた。

又、何かの撮影の為か、前田家の武士に変していた人達もいた。

ここはこの様な人達がよく似合う。

昨年3月にオープンしたばかりのホットスポットが「金シャチ横丁」。

ここは名古屋城正門側エリアの伝統・正統の義直ゾーンと

名古屋城東門側エリアの新風・変化の宗春ゾーンの2つのエリアに分かれている。

尾張徳川藩主の名を冠したのがユニークだ。

ここ義直ゾーンは名古屋の歴史が醸す魅力に触れる

定番・老舗のなごやめしが10店舗も集結している。

「うまし尾張を馳走せん。名古屋の歴史と今に舌鼓」。

名古屋コーチン親子丼、手羽先唐揚げ専門の

「鳥開総本家」 052-218-2422

ひつまぶし、金シャチひつまぶし、鰻いなりの

「びんちょうひつまぶし」 052-223-5777

名古屋めしの名物みそかつの「矢場とん」 052-231-8810

以前、東京駅八重洲口でもブログで紹介した。

個人的には大好きな店で、この店も豚の商標マークが

これでもかとばかり、あちらこちらにデザインしてあった。

他にも煮込みうどん、きしめん、味噌田楽(八丁味噌)、

宗春ゾーンには、あんかけスパなど

名古屋めしの個性豊かな19店舗が出店している。 


おはらい町とおかげ横丁

2019-06-21 05:46:45 | 旅 ~国内

伊勢神宮内宮の参拝を終えて宇治橋を渡り右の方へ行くと

そこは江戸の街へタイムスリップしたようなおはらい町通り(旧参宮街道)へ。

ここは伝統的な建物、お料理、暮らしの道具と食べ物、

催し物で伊勢の風土と日本の文化を楽しむことができる。

おはらい町は伊勢神宮内宮の鳥居前町で伊勢参宮街道に沿って

約800Mの両側に広がっている。

その町の中央におかげ横丁がある。

沿道には伊勢うどんや手こね寿司などの郷土料理を提供する飲食店、

真珠や伊勢茶などを販売する土産物屋が軒を連ねている。

ほぼすべての建物が切妻、入母屋、妻入の木造建築で統一されている。

これらの建物の多くは1970年代以降に民間主導で進められたまちづくりの結果、

景観維持を目的に整備されたものである。

それではその中で目に止まったお店、建物を紹介しましょう。

いかがですか?雰囲気ありますよネ。

こんな建物、お店がずーっと続いています。

おはらい町は江戸時代には参拝客が年間200万人~400万人も押し寄せた

庶民の憧れの地であったそうだ。

当時日本全国から参宮客を集めた街師と呼ばれる人々がこの通りに館を連ね、

客人をお祓いや神楽でもてなしたことからいつしか

「おはらい町」と呼ばれるようになった。

髙度経済成長の時代を過ぎた1970年代後半、観光客は参拝を終えると

おはらい町へ立ち寄らず次なる目的地の鳥羽・奥志摩方面へ行く人が増加し、

伊勢神宮の参拝客が500万人であるのに対し、

おはらい町を訪れた観光客は20万人までに落ち込んでいた。

この状況を憂慮して立ち上がったのがこの地に本店を構える

老舗和菓子店の赤福であった。

赤福社長の濱田益嗣の「洋風化したものが氾濫する時代だからこそ、

日本的なこころのふるさとが求められている」という考えに基づいて

伊勢の伝統的町並みの再生が始まったのがこの「おかげ横丁」だ。

1993年(平成5年)の式年遷宮に合わせておかげ横丁がオープンした。

おはらい町通り、新橋のたもと、おかげ横丁の正面入り口の前にあるのが

伊勢名物「赤福餅」で有名な赤福の本店がある。

https://www.akafuku.co.jp/

赤福の正確な創業年は不明だが、江戸時代初期には皇大神宮前、

五十鈴川のほとりで既に「赤福」の屋号を持つ餅屋を営んでいたといわれる。

現在は1707年(宝永4年)を創業としている。

実に310余年の歴史を有する老舗和菓子店だ。

赤福の名は明治28年、餡を入れた餅を大福と呼ぶ対比として、

赤い餡をつけた餅であるから赤福と称したと推察している。

しかし赤福のホームページでは、まごころ(赤心)を尽くすことで

素直に他人の幸せを喜ぶことが出来る(慶福)という意味の

「赤心慶福」に由来するとしている。

本店での店頭では、この部屋で手作りの実演販売がされているが、

現在は手作りなのはその場で食べる分など一部に限られている。

赤福はあんころ餅の一種で餅を漉し餡でくるんだもので、

漉し餡には2本指で三つの筋を付け、

五十鈴川の流れを表しているとされる。

おかげ横丁には20店の料理店、茶店、15店の名産品・お土産店(食べ物関係)、

15店の名産品・お土産店(工芸物)、そして10店の見て体験できる店がある。

正に江戸時代のおかげ参りの頃の伊勢の様子を再現した町だ。

その内の一つ、伊勢の老舗牛肉屋「豚捨」で

昔懐かしいコロッケをつまみ食いした。

このつまみ食いというのがなぜかすごく旨いんだナー。

この豚捨さんは創業明治42年で、ユニークな屋号は牛肉にこだわって

豚を捨てたことから名づけられたと言われている。

伊勢地方ではこの様なしめ縄を飾ってある。

門符に書かれた「蘇民将来子孫家之門」とは何?

その由来は須佐之男命がこの地を通った時、暴風雨に遭って、

蘇民将来という人の家で暖かく迎えられた。

命が立ち去る時、「悪疫が流行したら蘇民将来子孫家門と書いて

門口にはるとよい」と言い残した。

以後この地方ではこの木札を注連縄で飾り、

厄除けするようになったという。

 

 

 

 

 

 

 


伊勢神宮 内宮

2019-06-20 06:54:58 | 旅 ~国内

伊勢神宮内宮は太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を主祭神としている。

我々国民からは総氏神のように崇められている神様だ。

又、伊勢神宮は正式には単に神宮と称し、神社本庁の本宗でもある。

しかし他の神宮と区別する為に伊勢神宮と通称している。

そして親しみを込めてお伊勢さん、大神宮さんとも呼ばれている。

一級河川である五十鈴川は伊勢南部に発した北流。

伊勢市街を流れ、伊勢湾に注ぐ。

倭姫命が御裳のすその汚れを濯いだという伝説があり、

御裳濯川の異名を持つ。

古くから清流とされ、和歌にも多く歌われた。

因みに、いすゞ自動車の社名の由来にもなっているとか。

五十鈴川に架かる宇治橋は神聖な世界への架け橋。

聖俗界を分ける境界だ。

この擬宝珠に触れて帰ると、また参拝に訪れる事ができると言われている。

玉砂利を敷き詰めた長い参道。

ここには心のふるさとと称される日本の原風景が広がっている。

これが皇大神宮(内宮)の宮域図。

伊勢神宮は二十二社(上七社)の一社。

他に石清水八幡宮、上賀茂神社、下鴨神社、伏見稲荷大社、

春日大社、松屋大社、平野神社などがある。

観光案内人のお伊勢さん。

この人達は検定「お伊勢さん」上級編に合格した後、研修を経て認定される。

観光案内人になると世界とは違う日本人の素晴らしさはどこからくるか?

伊勢の地にある天照大御神様とは?

神様の世界に隠された日本人の魅力、文化や歴史を伝えるなど

日本人の原点を伝えることを旨としている。

伊勢神宮の御手洗場は神聖な川、五十鈴川だ。

清浄な川として知られる五十鈴川の水で心身ともに清めてから参宮する。

この川には数段の広々した石段を下る。

ここの雰囲気はやはり他の神社とは違いとても清々しい気持ちになる。

内宮は外宮と違って右側通行。

他にも違いがあるが先日の外宮のブログに記述したので参照して下さい。

ご祈祷の奉仕とお守りなどを授与する内宮神楽殿。

天照皇大神宮の御神札は剣祓(500円)、角祓(1,500円)、

大角祓(2,500円)の3種類がある。

他に各種の御守を売っていた。

神聖なる伊勢神宮の大木にはご神木としての気を皆感じるらしい。

多くの人が大木に寄り添ってじっと瞑想する姿を多く見た。

こちらは別宮、風日祈宮、祭神は外宮別宮の風宮と同じ

級長津彦命・級長戸辺命。

別宮とは「わけみや」の意味で正宮に次ぎ尊いとされる。

内宮の別宮は他に4宮ある。

ここは正宮の裏手に当たる所。

ここも静寂な空気が流れていて裏手からも何かを感じる。

正宮に近づくと参道の中にある杉の大木には竹が編まれた幹が何本もあった。

これも何か意味があるにちがいない。

正宮の鳥居の前には外宮にもあったが木の小さな壁が立っている。

ガイドさんにこれは何かと聞いたら魔除けだという。

いよいよ正宮へ参拝。

しかしここからは撮影禁止との事。

外宮では多少ルールを破って撮ってしまったが、

よく考えると神様にたてつくこととなり、

仕事に悪影響を及ぼしてはいけないと思い、

一切写真を撮ることをやめた。

これが正宮。

伊勢神宮内宮の創建は垂仁天皇26年(日本書紀)、

崇神天皇と垂仁天皇記の分注(古事記)に

「倭姫命、菟田の篠幡に祀り、更に還りて近江国に入りて、

東の美濃を廻りて伊勢国に至る」とある。

又、伊勢神宮は歴史的に皇族、朝廷との結びつきが強く、

現代でも内閣総理大臣や農林水産大臣が

年始に参拝することが慣例となっている。

尚、20年に1度の式年遷宮はおよそ2,000年前から続き、

平成25年10月に62回目の遷宮を終えた。

 


二見興玉神社

2019-06-18 05:38:19 | 旅 ~国内

バスの駐車場の関係で二見興玉神社にはおみやげもの屋、

飲食店が入居しているビル(伊勢夫婦めおと横丁)の中を抜けていく。

この商店街の通りは「めおとちょうちん参道」といい

天井にちょうちんがずーっと下がっていて雰囲気を作っている。

ここを過ぎると海と海水浴場になりそうな海岸に出る。

とても景色の良い風景が続く。

この海岸線を歩いていくとそこが目的地だ。

初めに出て来たのが二見興玉神社境内社の龍宮社の赤い鳥居だ。

当然、形は伊勢鳥居型だ。

海の守り神・綿津見大神を御祭神とする神社「龍宮社」と

夫婦岩が描かれた絵馬。

どうしても前を通って行く為、通り過ぎることもできず、

お参りに寄って行く。

これが遠くから見た伊勢夫婦めおと横丁の建物。

これを見ると随分長い建物で、これで多くのお店が

入っているのがわかると思います。

海の上に架けられた禊橋。

意外にも三重県では2番目に参拝者の多い所で、

2013年には約260万人の方が参拝に来たとか。

この神社は境内の幾合にある夫婦岩で知られている。

夫婦岩は日の下神(天照大神)と興玉神石を

拝むための鳥居の役割を果たしている。

又、年2回夫婦岩を結ぶ注連縄の張り替え神事が行われる。

ここの神社の神使は蛙で境内には無数の蛙像が並んでいる。

カエルとは無事に帰る。貸した物が還る。

お金が返るのカエルを掛けた験担ぎから生まれた。

これを聞くといつも思うことがある。

日本の文化は庶民的、ある意味レベルが低く

ダジャレ文化に負うところが多い。

最後になってしまったが、これが二見興玉神社だ。

猿田彦大神、宇迦御魂大神を主祭神としている。

猿田彦大神は天孫降臨の際に髙天原と豊葦原中津国の間の

道案内を務めたことから「道開きの神」といわれている。

夫婦円満、縁結び、交通安全などのご利益があるという。

実は大分以前、修学院離宮で買ったお気に入りの

携帯ストラップがほどんど同時に2本切れてしまった為、

この神社でボケ防止になるという、

ボケナスのナスが付いたストラップを新調した。

これからのテーマはボケをいかに防止するかが

大事なテーマに成って来たからだ。


伊勢神宮 外宮

2019-06-17 06:01:48 | 旅 ~国内

こちらの伊勢神宮は一般に外宮といわれているが

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)を主祭神とした式内社(大社)です。

皇大神宮(内宮)とともに正宮を構成し、両宮を参拝する際は

外宮を参拝した後に内宮へ参るのがしきたりとされている。

社地の面積は内宮の10分の1ほどで、

内宮とは異なりなぜか左側通行になっている。

火除橋を渡ると大きな手水舎がある。

豊受大神宮の御神は内宮の天照大御神のお食事を司る御饌都神であり、

衣食住、産業の守り神としても崇敬されている。

鳥居は神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)で、

神域への入口を示す一種の門の役割を果たしている。

その為、本来参拝する際は鳥居をくぐる前に一礼し、

帰りの際も鳥居をくぐってから振り向いて再び一礼することが

ひとつのマナーと言われている。

伊勢神宮の鳥居形式は伊勢鳥居と言って、

貫が四角形で柱を突き抜けない構図と成っており、

靖国鳥居と同じだが、笠木が五角形というのが特徴的で、

両端が欅墨となっている点は靖国鳥居と異なる。

鳥居についてはあまり知識が無かったが神明鳥居で7つの形、

明神鳥居で13の形があるそうだ。

以前アップした日枝神社の一風変わった鳥居は山王鳥居というそうだ。

こちらは皇室関係の方が入る斎館の門。

そして皇室関係者の乗り物(昔は馬)を駐車する所の縄張り。

ここで外宮の鎮座の由来について触れてみましょう。

外宮について、古事記、日本書紀には記載がないが、

804年(延暦23年)に編纂された社伝「止由気宮儀式帳」によれば、

雄略天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ

「自分一人では食事が安らかにできないので丹波国の

等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と

神託したということからだそうだ。

神楽殿では古代より神事に用いられてきた神楽、

御饌などのご祈祷の奉仕とお守りなどを授与してきた。

ここでご朱印、ご祈祷の受付、お礼、お守りなどが売られている。

本当に立派な建物だ。

境内には多賀宮、土宮、風宮の3つの別宮がある。

ここは正宮に次ぐ髙位の宮だ。

ガイドさんの話では、この玉砂利を踏んで拝むと

3別宮に行ったことに成るとか。(かすかな記憶です。)

これは三ッ石といって御装東神宝や奉仕員を祓い清める

式年遷宮の川原大祓が行われる場所となっている。

外宮にはご覧のような杉の大木が幾本もある伊勢の中心にありながら

自然が豊かに残され非日常空間を形成している。

正宮近くのこの杉大木には観光客が寄り添い

木から気を感じているようにも見える。

その気持ちがよくわかる空気が境内に流れていた。

正宮は正殿、西宝殿、東宝殿の3つからなる。

幾重に板垣が巡らされており、拝所からは直接見ることはできない。

内宮と外宮にはいくつかの違いはあるが東・西宝殿に関しては

内宮は正殿後方の左右にあり、外宮は正殿前方の左右にある。

又、正殿の鰹木(屋根の棟に乗っている丸太のような木)は

内宮は10本の偶数で外宮は9本の奇数になっている。

なぜだろう?

伊勢神宮の神明造は日本古来の建築様式を伝え、ヒノキを用い、

切妻平入の髙床式の穀倉の形式から宮殿形式に発展した。

姿は簡単にして直線的で素木の美しさを最も輝かせる建築様式といえる。

この板垣も素木で簡素だが趣を感じる。

丸柱に付けられた飾り物はなんだろう。

気に成ったのでパチリした。

次の神宮式年遷宮の際に正宮が建てられる御敷地。

古殿地とも呼ばれる。

因みに式年遷宮は20年に一度行われる。

今一度、緑濃き樹々の中に立つと

神々の気配を感じてしまいそうになってしまう。