スミダマンのほのぼの奮戦記

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会津藩校 日新館

2020-09-11 06:28:37 | 旅 ~国内

会津藩校日新館の案内絵図。

江戸時代全国三百藩校の中でも規模・内容とも随一と謳われた

「日新館」は戊辰戦争で焼失した。その後会津の精神文化を後世に

伝えようと昭和62年に完全復元された。

https://nisshinkan.jp/

会津藩の有名な教育方針「什の掟」(じゅうのおきて)

「ならぬことはならぬものです。」

大河ドラマ「八重の桜」でも絶えず発信していた。

この什の掟は6歳~9歳まえの子供たちに徹底的に教え込まれたそうだ。

白虎隊の学舎「日新館」。

復元されたご当地は総敷地面積38000坪と鶴ヶ城の西側にあった本物

(面積8000坪)の5倍弱の広大な広さだ。

因みに観覧券は620円。

又、この獅子(永楽大康獅子)は日新館の守護にあたり世の中の安泰を願う獅子だ。

中国明時代の様式によるもの。

会津藩校の日新館は五代藩主松平容頌の時代に家老田中玄宰の

「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の育成にあり」

によって企画され享和三年(1803年)に5年の歳月をかけて完成した。

因みに「日新」の名は大学の

「筍二日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ、又日ニ新タニセン」

の文に由来している。

会津が生んだ有名な山川兄弟の三男山川健次郎の像。

健次郎は白虎隊の兵士として明治政府と戦ったが、後に国費で米国イェール大学へ

留学し東京帝国大学総長、九州帝大初代総長。

京都帝国大学総長、旧制武蔵高校校長などを務めた。

専門分野は物理学。

兄の大蔵(山川浩)は明治の軍人として陸軍少将

高等師範学校(筑波大学の前身)校長などを務めた。

妹の大山捨松は大山巌の妻。

看護師教育、津田梅子の旧友として女子教育を支援。

スペイン風邪で亡くなった。

この南門は藩主を初めとする上級武士だけが出入りを許され、普段は閉じられていた。

生徒の登下校は両側にある東門と西門を使用していた。

重要な建物を守るために「戟」(げき)という武器を持った衛兵を置いて監視させたことから

戟門と呼ばれていた。当時は門に太鼓を置いて授業の時刻を知らせていた。

その当時はさまざまな刀術の流派のもと、少年達は腕を磨きあっていた西武学寮。

今は、当時の日新館設立の様子や学習の内容、そして現在の日新館の説明も

わかりやすく映写により紹介している。

左の映写室、その先の幕末・明治記念室に続く長屋のような建物は本当に長い棟になっている。

東塾にデンと飾られている絵巻のような絵。

よく見ると日新館の広さは東西226Ⅿ南北116Ⅿ建物は1500坪あったという。

戟門から見た大成殿。

広い中庭のような所にU字型に掘られた池。

そして逆に大成殿方面から見た戟門。

ここに郷愁の旧藩校を復元し、江戸時代建築の粋を集めた観光博物館として

更に本学の教育網領にもとづく研修の場として広く社会に提供し

国際的にも開かれた社会教育の拠点とした。

ここ東塾は西塾とともに初等教育の校舎で東西塾を合わせて素読所といった。

10歳で入学すると生徒は素読所に入り、論語を中心とした漢文の読み方を勉強した。

現在は当時の授業風景を人形により再現している。

なんとなく生々しさを感じる人形で各部屋、コーナーで光景から内容を見学者に

ストレートに伝えてくる。ここは素読所での勉強風景。

白虎隊士の個人的紹介もされている。

日新館の生徒たちが使っていた書道のお手本。

書は大切な武士のたしなみでした。

廊下の天井部分には各々のテーマの表示がされてあり、とても見やすくて分かりやすい。

「掃除風景」「天文学の学習」「礼式の学習」「昼休みの風景」など。

白虎隊士が部屋の掃除をしている所、この人形を通じて実際の隊士の紹介が

されて単なる人形ではないように思えてくる。

日新館ではこのような天球儀を用いて天文学の勉強もしていた。

単なる精神論だけでなく、ずいぶん科学的な勉強もしていたのですネ。

膳椀の置き方から切腹の作法にいたるまで、武士としての必要な作法も学んでいた。

京都の医師の子として生まれ、後に全国でも知られる儒学者になった

山崎闇斎(1618-1682)の像。

会津藩主・保科正之に招かれ、会津藩士に儒学を教えて会津藩の

教育水準は飛躍的に向上したといわれている。

大学の室内の様子。

ここではおじぎの仕方(貴人に対しての真の礼、先輩・同僚に対しの行の礼

後輩に対しての草の礼)、又鼻のかみ方、箸づかい、おふろのすすめ方

扇のつかい方といった日常の細かいことまでも勉強させた。

会津松平家は二代将軍徳川秀忠の第4男、保科正之を祖として寛永二十年(1643年)に

会津班23万石を領した。慶安四年(1651年)に三代将軍家光が亡くなった後も

四代将軍家綱を助け幕府の大政に参画した。

保科正之は会津藩を「天下の各藩」と呼ばしめる基礎をつくった。

そして会津松平家の略計。秩父宮妃も松平家から出ている。

写真の右側には京都守護職を務めた松平容保の写真がある。

ここ体制殿は儒教の祖である孔子を祀っている。

又、孔子の弟子たちである顔子、曽子、孟子、子思子像が配されている。

会津藩校の資料館の入口、この館内は撮影禁止の為、貴重な資料は撮れず。

日進館の教育は藩祖(保科正之)の遺訓を旨にし、文武両道にわたる巾広い内容であった。

文は漢字を主とし、天文学・蘭学・舎密学(化学)等にわたる多数教科制で、

今日の小学校から大学まであり、武は兵学をはじめ、弓術・刀術等武芸全体に及び

学力の水準は群を抜いていたという。

弓道場は磐梯山に向かって射る雄大な道場で3つの派の弓術を教えていた。

隣りには弓道体験場があり5本300円で武士の気分を楽しめる。

弓道場では赤べこ(920円)起上り小法師(770円)で絵付け体験もできる。

ここ日新館は結構楽しめるコーナーがあった。

水練水池といわれている水練場は日本で初めて造られたプールといわれている。

池の周囲は85間(約153メートル)もあり、向井流という泳法を学び、

甲冑をつけての水練も行われた。

水練場を備えていた藩校は日新館の他に長州藩の明倫館だけでした。(2018-12-22付 ブログ参照)

幕末明治記念館は西武学寮とよばれ剣術や槍術など武道の練習場として使用されていた。

現在は白虎隊をはじめ日新館の資料などを展示している。

その中に戊辰戦争で主戦場になりボロボロに傷ついた鶴ヶ城の写真が

痛々しい姿で現代人に訴えてくる。

兵学を研究する所の「武講」。

城の造り方や軍事教練を行い、軍事奉行に属し、今日の防衛大学校のようなものでした。

入口玄関の所には会津武士の人形が、会津藩の旗印を持って立っていた。

天文観測施設として実際に使われていた天文台。

冬至にはここで天体を観測し暦をつくった。

日新館の他に天文台があった藩校は水戸藩の弘道館、薩摩藩の造士館だけといわれている。

ここに登ると結構高く、日新館の全体が見渡すことができる。

「義の想い、つなげ未来へ戊辰150周年」

こののぼりを見ると戊辰戦争で賊軍の烙印を長く背負った会津藩の想いみたいなものを感じる。

ここはみあげ物屋の「ふるさとおこし館」と会津の郷土料理などが味わえる「食事寮楽放亭」

大駐車場から入口に向かう途中に貸傘用の車がとまっていた。

よくタイヤを見ると常設している車のようだ。

このシステムも「什の掟」の精神がベースにあるのではと感じた。

 

未来に夢をはせた白虎隊の精神

「ならぬことは ならぬ」

ここ会津藩校日新館は会津若松の郊外小高い丘の上にあり、素晴らしい施設だ。

今、コロナの影響もあり訪問したこの日はほとんど人気がなく

じっくりと江戸時代の会津藩の世界に浸ることができた。

ここは是非一度は見学する価値があると感じました。

 

 

 

 

 

 

 


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