思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

自分を忘れている時

2010年02月19日 | 哲学

 「人の怖さ」というものを自分自身が気がつかず、当然のごとくにその怖さを実行しているときがあるだろうか。

 組織なり国家なりがその存続するなかで、他の組織、他の国家とは異なる独自性を表明するために境界線、国境を設定します。

 これは物理的なものである場合もあれば、自分達を際立たせるための「同一性」の政治思想なり教義などの場合もあります。

 このような同一性の論理が自然と圧倒的に強くなった組織体制、国家体制において、所属する個人はどうなるか。

 ある書籍を読んでいましたら、納得することがありましたので紹介します。

 所属する人々は独自の判断を止めて、自発的に、つまり自らの”自由意思”に基づいて、「全体」の目的に「同調」するようになる。自分の利益を自分の責任で孤独に追求するよりも、(自分をその一部として包んでくれる)「全体」の利益に合わせた方が楽である。

 「個人の自由」と「体制への同調」いわゆる「全体主義」です。
 
 閉塞的な所属に身を委ねる個人はどうなるのか。言葉を代えれば全体主義において「個人の自由」とはどのようになるのか。

 そこには、次のように語られていました。

個人の自由と「全体性」との関係を、もう少し哲学的に詰めて問題にしたのが、アウシュヴィッツの収容所での毒ガスによるユダヤ人殺害の責任者アドルフ・アイヒマンの「裁判」記録として書かれた『イェルサレムのアイヒマン』(1963)である。アイヒマンは戦後・国外逃亡していたが、60年にイスラエルの秘密警察モサドによって、アルゼンチンで発見され、そのままイスラエルの首都イェルサレムに連行された。イスラエルは、翌61年に世紀の大犯罪者であるアイヒマンを裁くための国際法廷を開いた。----当然、アルゼンチンから直接連行したことも、独断で「国際法廷」を開いたことも国際法的には大間題である。アーレントは、『ザ・ニューヨーカー』誌の特派員としてこの裁判を傍聴した。
多くのジャーナリスト・知識人たちは、数百万人のユダヤ人を計画的に虐殺したアイヒマンを、「悪」の化身のようなものとしてイメージしていた。ところが、実際に法廷に現われたアイヒマンは、アーレントの目から見て、上からの命令を黙々とこなす、どこにでもいる平凡な役人でしかなかった。殺人を楽しみにするような、めったにいない「異常者」には見えなかった。アーレントはむしろ、そうしたアイヒマン的な平凡さ、個性のなさこそ、巨大な「悪」を可能にしたのではないかと考えた。裏を返して言えば、平凡な我々のほとんどすべてがアイヒマンになる可能性がある、ということだ。『イェルサレムのアイヒマン』の副タイトルは、「悪の陳腐さ」である。
アイヒマンの分析を通して、アーレントが到達した「悪」の本質とは、日常的な「陳腐さ」の中で、自分で考える能力を喪失していくことである。組織の中でルーティン的に決まったことをやるだけで、他者に対して自分の意見を表明し、自らの個性を際立たせることを怠っていれば、人は次第に「人間らしさ」、つまり他者の外的影響から自由な思考を働かせられなくなる。そうなると、大いなる「全体」へと同化する全体主義の罠に陥りやすくなる。いったん「全体」と同化してしまえば、自分(たち)以外の存在に対する関心がなくなり、彼らが死のうと生きようと、どうでもよくなってしまう。人問的な自由な思考を奪って、動物の群れのような本能的で野蛮な集団行動へと駆り立てる傾向こそが、「悪」なのである。

アーレントは・平凡な市民である我々が、「陳腐さ」ゆえの「悪」に陥る危険に対して警告を発したわけであるが、問題は、現代において、そうした「陳腐さ」を最終的に回避することが可能かということである。人間には生れつき、自分の頭で自由に考え、他者の存在を意識する能力があるとすれば、「陳腐さの悪」は何かの間違いで偶然生じてきたものにすぎず、克服可能である、ということになるだろうアーレント研究者たちの多くは彼女は、全体主義者がが作り出した「悪」から、万人に生得的に備わっている「一人問性=自由に考える能力」を守るべくアーレントが闘つたかのように言いたがる。そういうことにしておかないと、「平凡さ」の中に「悪」の根源を見ようとする彼女が、正義の闘士ではなく、単なるペシミストになってしまうからである。
筆者に言わせれば・そうし毒でのアーレント擁護論は見当外れである。すべての「人間」に生れつき「自由に考える能力」があるのだとすれば、放っておいても、人々はいつしか自己の「本質」を自覚し、「陳腐さ」に打ち勝つようになるはずである。終末思想を語る宗教家か、「マルクス・レーニン主義の前衛党の闘士たちのように、一夜明けは近い、「目覚めよ!」と叫んでいれば充分であろう。しかし、アーレントは決してそのように声の叫びはしなかった。
アーレントは、デカルト----カント以来、近代思想の大前提になってきた「人間性=自由に考える」能力の普遍性・生得性に疑間を感じた。彼女は、アウシュヴィッツ以降も、依然としてそうした「人問性」を自明の理であるかのごとく見なしている"ヒューマニスト"に対して警告を発したのである。「人間性」とは作られたものなのである(『「不自由」論 仲正昌樹著 ちくま新書』)。

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 人間の怖さの例としては、重い話なのですが、原爆使用もその例の内にあります。

 しかし実際には、重い話だけではなく「全体」の利益に合わせた方が楽であったり、集団の中にいるほうが楽であったりする場合がほとんどのような気がします。

 世の中をそのような視点で見てみますと、確かに全体主義的な組織体、構成員が一丸となっているものを見ることができます。

 世の中と言うものが満ち溢れている世界であり、垣根を超えた共通認識が果たしてありえるのだろうかという疑問を持ってしまいます。

 「愛を守る」と語るものが、あまりにも「愛」より遠いところにいるように感じることがあったり、醜態が醜態ではないと感じる若者、是認する大人。

 彼らの所属する組織体、集団には被害者がいませんから独裁的なものとは言えません。しかし、知らないうちに所属するようになり、代わらない私であい続けたならば当然予想がつくような結果になります。

 個人の自由と思い行動する中に、自分を忘れている時があるのではないかと思うことがあります。

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