思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

叡智の結集

2008年12月31日 | 仏教
 残すところ今日一日となりました。昨夜雪が降り、周辺に1センチほどの積雪となりました。たぶん1キロほど穂高駅方面に行けば積雪はないだろうというほどの積もり具合です。

 連休で散策と読書とゆっくりしています。最近読んだ宗教学系の本に「宗教学の名著30」があります。著者は、東京大学文学部・大学院社会学系研究科宗教学・宗教史研究室教授島薗進さんで「ちくま新書(筑摩書房)」から今年の10月に出版されています。

 購入のきっかけは、帯の「叡智の結集」そして「名著30」という言葉に引かれたわけで、作者を宗教学に導き、また思考の基礎になっている書籍に興味があることと、どのような本を一般の読者に薦めるのか、好奇心をそそられたのです。

 持ち前の好奇心を掻き立てられる書きたてられたのです。特に日本の宗教学を語る日本の名著に興味があるのでそのことについて、きょうはブログを立ち上げたいと思います。

 先ずこの本は7項目の段階的な分類がなされています。

1 宗教学の先駆け
2 彼岸の先駆け
3 近代の危機と道徳の源泉
4 宗教経験と自己の再定位
5 宗教的なものの広がり
6 生の形としての宗教
7 ニヒリズムを超えて

の7項目です。この中で取り上げられている、日本人の手になる本ですが、

「1 宗教学の先駆け」では、
 ・ 空海『三教指帰』---比較のまなざし
 ・ 富永仲基『翁の文』---宗教言説の動機を読む
「4 宗教経験と自己の再定位」では、
 ・ 姉崎正治『法華経の行者 日蓮』---神秘思想と宗教史叙述の地平融合
「5 宗教的なものの広がり」では、
 ・ 柳田国男『桃太郎の誕生』---説話から固有信仰を見抜く
 ・ 五来重『高野聖』---唱導とと勧進の仏教史
 ・ 井筒俊彦『コーランを読む』---言語表現から実存解釈
「7 ニヒリズムを超えて」では、
 ・ 湯浅泰雄『身体論』---修行が開く高次システム

の7冊が紹介されています。7冊の限定については、「はじめに」で著者は、

 30人の著者、30冊の名著を解説する仕事はなかなかやっかいだが楽しいものでもあった。著者の仕事の全体像の紹介に力を入れた場合もあるし、一冊の書物の紹介に集中したものもある。著者の息づかいを伝えるため、引用文を多用した。また、各著者、書物のおもしろさを印象的に述べるために臨機応変に書き進めた。

としています。

 柳田国男の「桃太郎の誕生」が紹介されています。ユング派の河合隼雄先生の神話、昔話のもつユング派の個性化の関係からと読んだことがあります。昭和17年の初版で手元にありますがかなり多くの昔話が収集されている本です。

 盲目の職能集団による、説話の伝播、信仰性を含むとおかしさが倍増し、各地に似た説話が残ることになったとしていいます。柳田国男には「日本精神史研究」もありますが「常民」の宗教性を知るには「昔話」の方が良いかもしれません。

 7の湯浅泰雄先生の「身体論」にも論じられていることですが、宗教的な説話の伝播には、高野聖等の行者の存在も大きいようです。

 湯浅先生ですが、ユング派の深層心理学を勉強していると湯浅先生に出会います。ユング派の自己と自我、意識と無意識、普遍的無意識、元型、そして個性化と深まるにつれ「身体論」にめぐり合います。島薗先生の湯浅先生の「身体論」、柳田国男の「桃太郎の誕生」の項では、説話・昔話のもつ深層心理的解釈に言及していませんが、河合先生の「昔話の深層 福音館書店」「物語をものがたる 小学館」には、説話のもつ個性化の過程が語られています。イニシエーション(通過儀礼)は、ユング派は、個性化の過程、自己と自我の統合と考察してゆきます(夢と神話の世界 通過儀礼の深層心理的解明 J.ヘンダーソン著 河合隼雄 浪花博訳 新泉社に詳しい)。

 話がそれてしまいますが、ユング派の先生の本は大変参考になるものが多くあります。たとえば秋山さと子先生の「聖なる次元 思索社」には、

 第三章 聖における内在と超越
 1 瞑想と宗教
 2 宗教経験の伝達---禅と精神分析の出会い
 3 観とイメージ---浄土と精神分析の出会い
と、興味深いな内容が書かれています。

 話がそれました。さて湯浅先生の「身体論」の島薗先生考ですが、論中には西田幾多郎先生の「行為的直観」「無の場所」や「沙石集」も出て来ます。
 また、空海さん、日蓮さんの名があって「道元さん」がいないと思っていると、しっかり湯浅せんせいのところで言及されていました。たとえば

 他方道元は禅の修業について「身心学道」を説いたが、これを身体を心より上位に置き、まず自己の身体を「形」に入れてゆくことを促すもので、中国禅にもまして身体の意義を強調されている。道元の瞑想にあたって「諸縁を放落し、万事を休息」せよと指導している。これは精神が身体を支配するという日常意識を脱して、「非日常的存在様式の中に自己を閉じこめ」ることを意味する。そのとき、ひとは「生の根源的受動性へとさしむけられる」。自らの生が絶対的な限界のなかにあることの自覚から根源的な心身変容が生じるという。これが道元の禅が目指した境地(「身心脱落」)の本来的意味だと湯浅は説く。(155-61ページ)

と書かれていました。

 きょうの写真は、塩尻市小曽部地籍にある曹洞宗青松山長興寺のある柳田国男と釈迢空(折口信夫)の短歌碑です。この碑は、昭和5年長興寺で「民間伝承大意」を柳田が講じられ、「この寺がまさに日本民俗学の発祥の地であると云い得べきか。」とゆかりの地として建てられてました。
 折口は柳田の高弟で当寺で同じく講義をしているので一枚の石碑になっています。
    

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