きのうのあさ早くに、NHK総合で「心静かに心激しく~禅と闘病2つの生き方~」という番組の再放送がありました。
ノンフィクション作家柳原和子さんのガンとの闘い。何をしていくべきか。心のよりどころは何処にあるのか。自問自答の毎日。そんな柳原さんのガンを克服してゆく姿と、曹洞宗永平寺78代目住職宮崎奕保禅師(106歳没)と作家の立松和平さんの対談の姿が放映されました。
宮崎禅師の「息とひとつになり、欲が出る隙がない。」という坐禅の話から始まりました。
106歳の老師のお話をまた聞くことができたことを感謝するとともに、こころ打たれます。
「修行ではなくあたりまえのことをする。」禅師は、11歳の時から親元を離れ坐禅をつづけました。
(恩師の)小塩奕童老師老僧の温かい死骸を見たときに、
「偉い人やたな」と思った。
80にもなっておって、雲水と同じものを食べて雲水と同じように1日を、わたくしのない生活をする。
老僧の口だけではない、実行で示した、それが元や。
できたら老僧ののような坊さんになりたい。
だから人間はまねをせないかん。
学ぶということは、まねをするということからでておる。
1日まねをしたら1日のまねや。それで済んでしまったら・・・・
ところが一生まねをしておったら、まねがほんまものや。
69歳の時に大病を患い入院をしたのですが、禅師は、医師や看護婦に止められても、坐禅を病院でも継続しす。入院は3年4ヶ月つづきました。禅師の言葉はさらに
人間は何時死んでもいいと思うのが悟りかと思っておった。
ところがそれは間違いやった。平気で生きておることが悟りやったと。
平気で生きておることは難しい。
死ぬときが来たら死んだらいいんやし、平気で生きておれるときは、平気で生きておったらいいのや。
自然は、立派やね。
わたしは日記をつけておるけれども、
何月何日に花が咲いた。
何月何日に虫が鳴いた。
ほとんど違わない。
真理を黙って実行するということが大自然だ。
誰に褒められるということも思わんし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。時が来たならば、ちゃんと花が咲き、そして黙って、褒められても褒められんでも、すべてのことをして黙って去っていく。
そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。
と語り番組は終わりました。