今朝のこころの時代は、「弱き立場の人々に学ぶ」と題しカトリック司祭本田哲郎さんのお話でした
。
お話の中で、聖書の創りの過程における啓示が語られていました。司祭ご自身の求めの姿勢が、貧しきものの中に「神」を観ることで、その姿勢が大きく開かれ、「貧しきものは幸いである」というイエスの言葉の本当の意味が判ったとのことでした。それも一枚の弱きもの達の行列と中央の行列内に照らされる行列者の一員イエスの御姿の絵も心の扉の鍵になったようです。
このように作り出された新しい日本語の聖書作り一度読みたいものです。
この話を聞いて内山興正さんの次の句を思い出したので、書棚から取り出し再度読んでみましたのでここに掲出させていただきます。
興正法句詩抄(柏樹社)から
光明蔵三昧
貧しくても 貧しからず
病んでも 病まず
死んでも 死なず
すべて二つに分かれる以前の実物の
絶対一元光明のなかに生き
絶対一元光明のなかに深まりゆく
この光明蔵三昧の生活
ここには 無限の奥がある
諸悪莫作 衆善奉行
自浄其意 是諸仏教
よいとわるいは あたまのはなし
ふたつをこえた いのちにいきて
いのちのふかさに ただむかう
ぼけず いからず むさぼらず
おびえず うれえず
おんいのちのみ
弱きものを弱きものにしか見えず、絶対救済を求め、弱きものの敵を見つけ出そうとする。
「慈悲」を絶対救済の真理に祭り上げ、絶対理性を求める信仰は、宗教ではない。長谷川如是閑さんの「私の常識哲学 講談社学術文庫」に次のような言葉があります。
・・・信仰というものには宗教という立派なものがあるのです。これは間違った間違った信仰によって人をあやまらせないように、正しい信仰態度というものを万人に教えて、そして一つの信仰の対象、信仰すべきものを与えて、これを信仰していれば、人間の生活をあやまらないぞ、というのが信仰なのです。------ところが、そういう目的でできた宗教でなしに、学説なんていうものは、人をあやまろうが、あやまるまいが、そんなことはちっともかまわない、ただ、これが真理だというだけの話なのです。だからこれを宗教のように盲信した日には、出鱈目になるのは分かりきった話なのです。