思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

一里塚

2008年12月29日 | 仏教
 信濃毎日新聞の内山節さんの「風土と哲学」というコラムが12月27日105回をもって終了しました。

 近代以降の世界は矛盾のない社会をつくりだそうとして、巨大な社会、経済、政治システムをつくりだしてきた。だか今日ではこの巨大システムこそが矛盾の原因をつくり、自然も人間も無力な存在になっていった。

 本当の課題は、矛盾をなくすことではなかったのである。そうではなく、誰もが矛盾と向き合う社会をつくることであった。矛盾と向き合いながら、矛盾とも折り合いをつけて共存していける力強い生き方が可能な社会を創造することであった。自然と人間の関係には矛盾も発生するが、その矛盾とも折り合いをつけながら共存しなければ、自然と人間の友好的な関係は築けないようにである。

 そしてそれを考える時、日本の民衆の伝統的な生き方や精神が、今日では未来へのヒントとして存在していることに、私たちは気づかざるをえない。自分たちの深く根を張って生きる世界をつくり、矛盾と向き合い、自然とともに生きたのが日本の伝統的な民衆の姿であった。それを基盤にして、人々は平和で無事な社会を作り出していた。

 風土とともに生きるローカル性を人間は取り戻すことはできるのか。それを可能にする想像力をつくるために、過去から学ぶ時代がいまはじまっている。

と語、りこのコラムを終わりとしています。

 「ローカル性」とは何かということについて、知りたくなります。

 内山さんは、1950年生まれの方で、以前ブログにも書きましたが、群馬県上野村に住み立教大学や東京大学で教鞭をとる哲学者です。

 哲学者となられるまでの、思想的な影響過程について、哲学の冒険(生きることの意味を探して)という哲学ノートが平凡者から出版されています。エピクロス、三木清、ヘーゲル、キェルケゴール、親鸞等の出会い、父と会話の中で哲学の道に入る過程が語られています。

  昨年出版された「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか 講談社現代新書」の中で日本の伝統的な民衆精神に影響したものとして、本覚思想、親鸞の中に見える自然観について語っています。当然 伝統的な民衆精神ですので当然日本の神々の存在も語られています。


  内山さんの哲学は、民衆精神というように「民衆」の中にその哲学を追求しています。「哲学の冒険」では「日本的常民思想」という言葉が使われており「常民」と非常民の思想を分別しています。「哲学の冒険」では、「古代ギリシャでは、都市の市民にとって労働は卑しいものであり、当然古代ギリシャの哲学者たちも自分で働き作物を育てたり、物を作ることはなく、鴨長明も貴族でありけっして田畑を耕すことはなかった。」と語っています。

 内山さんの言う「ローカル性」とは、このような分別的な思考の中から「常民思想」を導き出しているようです。

 支配者・知識層と民衆の精神文化を語るとき、中国において仏教が、その社会(老荘・儒教等)の中でどのように浸透していくか、老荘思想が「道教」となり仏教が「禅浄」の形になってゆくそこには、労働をしない支配者・知識層と支配される民、生きる方法を容易に知ることができる思想を求める民の姿がある(老荘と仏教 森三樹三郎著 講談社学術文庫に詳しい)。

 内山さんは、知識層としてではなく、民の中で、労働の中でその思想を見い出そうとしているようです。

 今日の写真は、東山道の「一里塚」です。約4キロごとに設置されて旅人の昼間における歩きの速度の指針になる重要な役割がありました。宿泊先である宿場へ日の落ちる前に着くことができるか。殿様も民衆もみんなが頼りにする一里塚です。

 そこには時間ではなく距離という空間があるような気がします。
 

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