思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

美徳の善のイデア(3)・熊田千佳慕2・細密画

2010年12月29日 | 哲学


 この番組のゲストは、分子生物学者の福岡伸一青山学院大学教授でした。福岡教授は『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)でも有名な方ですが、熊田先生に劣らず小さいころから虫の世界に魅了されていたそうです。

                    

 福岡教授は虫の世界のどんなところに魅せられてきたのか、次のように話されていました。

 少年期にアゲハチョウの卵を採取してきてそれが幼虫になりサナギになるのを待ち、やがて蝶の姿に変容するのを観察していました。その芋虫から蝶になる時の驚き、センスオブワンダーという言葉がありますが、自然の精妙さに打たれるという意味で、まさにその変容に対する驚きは私にとってセンスオブワンダーでした。

                    

このように語る福岡教授が今でもひかれている熊田作品があります。

 庭の番人という作品でコガネオサムシの絵です。

                    

 この虫は甲虫で美しい緑色をしています。福岡教授の話ですとこの緑は絵の具を塗ったような色ではなく、構造色という不思議な方法でみられる色だそうです。それは顕微鏡のようなものでしか見れない小さな鏡の破片のようなものが表面にあって、そこに光が入っていきその光が反射し、その光の相互作用によって緑に見えるのだそうです。

 少し角度が変わると緑色が少し青みがかった色にり、鉱物のように見えたりする、それが構造色ですが、熊田先生はそれを一枚一枚の質感を顕微鏡でしか見えないはずなのにここに描いているのだそうです。

 それを昆虫少年が見るとエッと驚きを持ってひかれるところですと福岡教授は話されていました。

 フンコロガシの絵については、

                    

 単なる観察記録ではなくそこに物語がある 小説のような話で、お母さんが一生懸命ある日ここに巣穴を造ろうと決め、そこに糞を固め卵を産む。

 そこから夏になると子供が幼虫になり現れてくる。これは単なる展開ではなく、プロセスに流れている時間事体が抱きしめられている、という感じがしてならない。

 熊田さんの人生に、均質化圧力からいかに自由であるか、という戦いがあったのではないかと思うのです。均質化圧力とはカントではないのですが、人間の価値基準をみいだす、真・善・美があるとすると、それがしばしば真であるから従いなさい、科学的に明らかなことだから従いなさいという均質化圧力が働くわけです。

 あるいはこれが善だから、これは悪だからと、特に戦時中はある種の善がみんなを均質化させたわけです。やはり熊田さんはそういうものに息苦しさを感じていて、でもその真・善・美の中で美だけは、これは美しいということは均質化圧力から自由になれるものだたのかと思います。

 ただそれは抑圧されたものとしてずっとあって後になって、その抑圧されたものが、これがわたしにとって美しいものだという回復されていく過程としてファーブルの大発見のようなものが熊田さんの中にあったのではないかと思います。

 ですから自由の在りかとして、虫を見たということではなかったか。

と語っていました。

 ファーブル昆虫記の絵を描くことがライフワークです。70歳半ばで描いた『天敵』(キンイロイサムシと蛙)これが新しい境地を開いた一枚です。

                    

 ヒキガエルの目線の先にいるのは、天敵ににらまれて動けなくなっているキンイロオサムシ。少しでも動くと一瞬のうちに食べられてしまいます。

この場面を描いているときにある思いがあったそうです、それは

                    

 ファーブル先生にお願いしますってお祈りして描かせていただいた。
 何か可哀そうになっちゃって・・・・

というご本人の言葉でした。

                    

 熊田先生はファーブル昆虫記には登場しない一匹の蜂を描き加えました。何とかヒキガエルの気をそらせオサムシを助けようとしたのです。

                    

このとき熊田先生は気づいたそうです。

 虫はわたしであり、わたしは虫である。

と。
 
 熊田先生には大きな目標がありました。”ファーブル昆虫記のシリーズを100枚描きあげる。 ”その決心は揺らぐことありませんでした。

 70歳後半の『枯れ葉の山への産卵飛行』という作品です。枯れ葉の中に卵を産みつけようとするハナムグリのメスたちの絵です。

                    

 枯れ葉は幼虫の大切な食べ物になります。この絵で熊田先生が最も情熱を注いだのが、枯れ葉です。

 そこには先生ならではのこだわりがありました。

                    

 結局は自分のことを描いているんですよ
 これははじめ全部グリーンで描いていたんです
 枯れ葉をよくご覧になるとグリーンが残っていますよね
 
                    

 夏は全部緑でしょう
 枯れ葉によっては青春ですよね
 ただまだ浅春が残っているんですよね
 枯れ葉になって 落っこちてきても
 はじめこれ全部グリーンで描いた

                    

 そして自分でこの枯らしていったんです
 だんだん茶色を入れて

 緑の葉が少しずつ衰えていき最後は土に還る。
 枯れ葉にだって青春があった。
 最後に命を燃やしている。
 自分と同じだな、と愛(いと)おしくなる

 80歳(1991)を迎えた熊田先生はまた新たな作品い取り組み始めました。描こうとしているファーブル昆虫記の一節は、

 雄コウロギが雌を求め巣穴から旅立つ。気が遠くなるような道のりを一人旅する。途中天敵を逃れ、ほかの雄との戦いを経て一匹の雌と結ばれる。

というものです。

 「虫の小さなからだに秘められた大きな神秘を描きたい。」

                    

 弟子の舘野さんはこの絵が出来上がっていくのを間近かで見ていました。描いてる途中で「どうなるんですか」と質問したところ熊田先生は、夜虫たちを見ながら

 求愛しているんだよ
 80過ぎていろいろ見えてきた
 見えていないものがどんどん見えてくる

といっていたそうです。ナレーターの声で、

 虫たちは今日を悔やんだり、あすを思い悩んだりせず、
 今この瞬間だけを賢明に生きている
 その生涯を精いっぱい全うしようと
 最後まで命を燃やしつづけるのだ

 そのことに気がついたら
 花や葉が枯れ落ちて
 土に還っていく姿まで
 美しいと感じるまでになった。

 自然は、自らの美しさを知らないから
 美しく奥ゆかしい

 私はその無心の美しさに
 なりより魅(ひ)かれるのである

という先生の言葉が語られました。

満天の星空のもと愛を語り合うコオロギの雄と雌。

『恋のセレナーデ』という作品です。

たった一匹のメスと出会うため雄は遥かな道のりを命懸けでやって来ました。
見つめ合う目と目、静寂の闇の中、コオロギが響き渡ります。

去年4月97歳の先生、このころ足腰が弱りほとんど外出もできなくなっていました。61作目となるファーブル昆虫記のシリーズ。

この1枚を描くために7年もの間デッサンを続けていました。

                    

子どもが糞玉から出てくるまで、4か月もの間、飲まず食わずで寄り添う母親の姿、しかしこの1枚が新たなファーブルシリーズに加わることはありませんでした。

                    

2009年8月13日、先生はこの部屋で眠るように息を引き取りました。
虫の命を見つめ続けた98年の生涯でした。

 亡くなられた当日展覧会場で対談を行う予定だった聖路加国際病院理事長・名誉院長の日野原重明先生(99歳)、医師として命を見つめ続けてきた日野原先生は、熊田先生の絵から命を守り育て上げることの大切さを教えられたといいます。

 糞玉どろぼうという題で書いてある糞玉運びはとても面白い。次の時代を造るということ、育てるというのは英語ではナースという言葉を使う。ナースという言葉には、お乳をやるとか、子供を育むといういみがある。熊田さんはおそらくナースという言葉をおそらく感じとってこの絵に具現化した、傑作ではないかと思う。

と語っていました。

 時が変わり季節が移ろう中、生まれ続ける虫たち。そのいとなみを熊田先生は、生涯見つめ続けました

 先生が残した絵は、命の美しさを語りかけます。

 番組最後に、ゲストの福岡先生が2枚の絵「『天敵』(キンイリイサムシと蛙)」「『恋のセレナーデ』(雄と雌のコオロギの出逢い)についての感慨を述べていました。
 
 【福岡伸一】

 蛙は実は動くものしか見えません。だから虫が動く瞬間を待っているのです。虫はその気配を感じてできるだけ息をひそめているわけです。

                    

 熊田さんは、それぞれの生物(蛙・オサムシ・蜂)に成りきって体験しようとしている。そこには植物や景色もそれぞれ固有の世界として描かれていて、それが互いに独立したものではなく、物質のやり取り、エネルギーの循環ということで結びついているわけです。

                    

 私たちは環境が大切だとか、環境を保全しなければいけないと言っていますが、環境とは結局人間が勝手に作り上げている世界なわけです。人間が見える可視光というのは限られた波長でしかなく色も限られたものだし、聞こえる音もある音波帯でしかありません。また、見えているものも解像度が異なります。

 実はほかの生物は、固有の世界を持っていて、これを環境の環に世界の世を付けて「環世界」という言葉を作った人がいます。

 固有の生物はそれぞれ自分の主体的な世界を持っている。そのような公平な、フェアーな自然観がこの1枚の絵に現れていると思います。

 自然には主役がいないということです。

                    

次に『恋のセレナーデ』という絵ですが、これを見ていると非常に写実的に書いてありながら宇宙的な広がりがあります。私が気がついたことはこんな暗闇の中で、虫たちに非常に強い光が当っていて、それが反射しているのです。

                    

 この光はどこから来るのだろうか、熊田先生の心から来ているんではないか。

                    

 これを見ていると私は分子生物学者、その前に昆虫少年で標本をつくるためにたくさんの虫たちを殺して、生物学者として細胞を分けて、世界を分節化して細かいことを調べてきたのですがすが、その間抑圧されてきたものがあるとすれば、熊田先生やファーブルが行なった生きている動的な生命に光を当ててあるいはここに耳を傾けて、物語を聞き取るということが、私が忘れてきた大事なことのような反省を呼び覚ませれます。


と語っていました。

                   

 熊田千佳慕先生の絵は、細密な写実画ですが、事物そのままの世界だけではなく、実在としてのとらえ方で描き出しています。人間の感覚的な働きだけを基準にした唯物論の世界と人間の頭の働きだけを基準にした観念論の中間的な立ち位置にあるように思います。

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