小説家の村上春樹さんのエルサレム賞授賞式が2月15日に行われました。この時の演説が報道され、私自身の「ある場」においてはすごく感動的な感覚を受けました。
「爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁」
「これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵」
高い壁というのが「システム」であり国家が作り出すもの。その国家に生きる市民は、システムにより作り出された者、否、システムを作り出すのはそこに生きる市民ではないか。
村上さんは「高くて硬い壁があり、それにぶつかって壊れる卵がある。私は常に卵側に立つ」旨をはなされた。
こういう話に素直に「そうだ」とうなずく心をもっていることは重要だと思います。
そしてそれがそれだけに終わらず、その時に村上さんから語られた「私たちが作り出す」の中の「わたし」、それに「システム」、そして「壁」と「卵」これらの言葉に思考を凝らす。
これらの全ての集約は、悲惨な現状であり、そして「死」との対面ですし、「平和」でありたいは、「幸せに生きたい」に集約される。
ここでさらに思考を凝らします。これらの全てに係わりをもつのは「わたし」でそれを感じるわたしの「こころ」です。
すると「こころ」とは何か、脳生理学をはじめことごとく知悉の欲は自分を駆りだします。
「自分が自分で自分を自分する」言葉が、沢木興道老師の口ぐせであったことを無量寺の青山俊董先生から教えてもらいましたが、村上さんの演説からここまでの思考の流れ、経過は私にとっては、この「自分が自分で自分を自分する」と「自分」のおかれる場に終着します。
もう一つ沢木老師の言葉に「仏法とは此方(こちら)の目や耳や頭をかえることじゃ」ということばがあります。
卵側に立ち、卵たちを守る、助ける。
そのとき私はどうするか、「立ちたければ立てばよく、立ちたくなければ立たなければよい」ことで、選択はその刹那にある私の行の中にあります。この時の選択は二律的な判断を意味しません。
ひろさちやさんは「他人のことはほっとけ!」といいますが、その通りだと思います。
このような個人主義的な身勝手な生き方と即断するする方は、そいう自分を倫理的な、道徳的なまた良心の塊を自覚しています。
形而上学的な倫理観を私たちを作り出すとき、囚われの身、世間の奴隷になってしまいます。道元さんの禅が倫理や道徳心を作り出すものでないところはそこにあると思います。
「助けるとか助けないとか」世間の奴隷となった思考の言動は最終的には、心の内にしまっておくか、そのような垣根や壁の心をもたない「私(わたし)」をもつ(つくる)ことにあります。
「自灯明」を「他人のことはほっとけ!」と文字化にするとき、「不立」をすごく感じます。
今朝は北海道方面は荒れ模様のようですが、安曇野は今陽が暖かくさし込んできました。
荒れ模様もあれば、穏やかな天候も同時進行にある今日の日本列島です。
村上さんの受賞、当初は色々と批判もありましたが、そういう批判者の意図すら超えたことをしてくれましたね。信念を感じました。
> もう一つ沢木老師の言葉に「仏法とは此方(こちら)の目や耳や頭をかえることじゃ」ということばがあります
この言葉ですが、昨日の勉強会で、たまたまこのことを話しておりました。澤木老師もお話しだったんですね(といいますか、拙僧、澤木老師の教えを余り学んでいないので・・・)。いや、『正法眼蔵』を学ぶと、誰しもその結論に到らざるを得ないのかもしれません。
tenjin95さんのブログ内容(専門の内容にもの)を理解するのに数週間はかかります。が勉強になります。
『正法眼蔵』については、西嶋先生の金沢文庫版をベースに増谷先生、石井先生等の一般書、NHK番組などで知識という形のみを造っています。
澤木老師は、青山先生のお話から発展し、老師の凄まじい人生からどのように澤木老師という一人ができあがった(言い方が不敬ですが)のか、私は動かされました。従って貪ってしまいました(過去形ではなくつつあるのが正しいかもしれません)。
コメントありがとうございます。