何ゆえこれほどまでに「罪意識」という言葉に、自分が執着するのか分かりませんが、今朝もこのことに関連した思うところを書きたいと思います。
そもそも道理とは何ぞやなのですが、折り合いの中で道理を共有できるとして、自分自身の中に「あの人は道理に外れているなあ」と思うことがあります。
それが犯罪ならば、「罪意識をもたないのか」と、犯罪者にその倫理感、道徳感のないことを問うている自分がいます。
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本田勝一先生の『極限の民族』によると、何か過ちを犯したときに直ぐに誤る民族は、極北の地に住むカナダ・エスキモーと峻険な山中に住むニューギニアのモニ族、それに日本人だということです。
この三民族に共通しているのはそれぞれの地勢から他民族の征服を受けなかったかだと推測されると本田先生は分析されています。
これからも分かるように、日本人らしく石川議員は、供述拒否権の行使を継続していたわけではなく、直ぐに「罪を認めます」という告白(供述)をしたことから、石川議員(北海道)は「直ぐに誤る」民族に属する人である証拠になるかもしれません。
この場合の罪の意識の告白は、誰になされたものであるか、という点ですが、内輪の犯罪行為の確認は別として、取調官である特捜部検事に対してなされたということです。
この点が、西洋人の良心が神との関係から成り立っていて、一般的な日本人とは、告白(懺悔)のする相手に大きな差があります。
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時事通信 02月09日22時13分によると「石川議員、辞職も離党もせず 」ということです(今朝2月10日現在離党の可能性があるとのことです)。
地元支持者の理解を得られたとの判断から、今後も「私に与えられた職責を果たしていきたい」と述べたようです。
「与えられた職責」と言う言葉、あまりにも抽象的すぎわかりません。職責ということですので「国会議員としての責任」であることには誤りはないようですが、一連の行動からは推測ができません。
石川議員の心の中に入ることはできませんが、彼自身が行為の善し悪しの判断は、自分自身で決するもののそれが一般的には悪しき行為であった場合、地元支持者の信任さえ得られれば、その罪は許されると解していることは確かなようです。
今現在は被告人という立場ですが、、形式犯であること、逃走の恐れもなくまた保釈金を払える高額普通預金者、高額タンス貯金者という高額所得層に属するため保釈金を支払うことができ保釈の身でもあります。
「信頼できるもの」、「私をぜったいに見捨てることのないもの」これが石川議員の心の深層にあるように思います。
私は、これだけ自由に自分の信条を吐露することができることに「愚」を感じます。
ある本にこのような記述があります、今流の自由を語るものです。納得してしまいそうになりますが、各個人じっくり考える必要がある文章です。
社会の中に「信頼できるもの」、「私をぜったいに見捨てることのないもの」をどれだけ持つことができるか、そのことが私たちの「内的成長」を深く支える基盤になる。現在の日本が目指している、「何の支えもないところで自由に競争しなさい、それが自由な社会なのです」ではこの世は地獄だ。支えがあればこそ、私たちは人生にチャレンジをすることができる。世界に信頼があるからこそ人生が自由になるのである。 (上田紀行著『生きる意味』岩波新書(p.200)
西洋人なのか日本人なのか「信頼できるもの」の発想は何処からくるのか。
最近「自由」と言う言葉の個人的な理解においてこの文章が気になっていました。そんな折り、石川議員の発言があり、上記の主張するところを考察すると、私見ですが失礼ながら思考の甘さを感じてしまいました。