金沢大学法学類教授仲正昌樹先生の著書『現代アメリカ思想-リベラリズムの冒険』(NHKブックス)に次の記述があります。
『アメリカ人であるとはどういうことか』(一九九二、九六)でウォルツァーは、ヨーロツパ的な「国民国家」の場合とは違って、様々な民族、人種、宗教の連合体である「アメリカ」においては、イギリス系、ドイツ系、ロシア系、日系などの特定のエスニツク集団に属することと、「アメリカ人」としてのシティズンシップを有することが矛盾することなく両立してきたことを改めて確認している。
言い換えれば、<Irish-American(アイルランド系アメリカ人)><Jewish-American(ユダヤ系アメリカ人)>……といった各種の「ハイフン付きアメリカ人」としてのアイデンティティが既に形成されている。
しかも・それらのハイフン付きのアイデンティティは固定化しているわけではなく、歴史の中で変容してきたし、ハイフンのどちらの側に重点をおいて精神生活を送るか-----主としてエスニック集団の一員として生きるか、それとも「アメリカ人」として生きるか-----は集団ごと、個人ごとにバラつきがある。
自らをハイフンなしの「アメリカ人」として同定している人たちもいる。自分とは異なる「(ハイフン付き)アメリカ人」と共存できることが、「アメリカ人」であることの証明になっていると言ってもよい。
ウォルツァーに言わせれば、「差異の政治」の追求は、そうした「アメリカ人」のアイデンティティの本来的な多様性を再発見することに繋がるのであって、(もともと単一的なものであったことなどない)「アメリカ人」としてのアイデンティティを解体することにはならないのである。
アメリカという国家の価値中立性を前提したうえで、多文化共存の可能性を強調するウォルツァーの議論は、「リベラリズム」を補完する性格を持っている。(上記書P176から)
ここに登場する「ウォルツァー」という人物は、マイケル・ウォルツァーのことで、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、
マイケル・ウォルツァー(Michael Walzer, 1935年3月3日-)は、アメリカ合衆国の政治哲学者。プリンストン高等研究所教授。
ニューヨーク生まれ。ブランダイズ大学卒業後、ケンブリッジ大学留学を経て、1961年にハーヴァード大学から博士号(政治学)取得。プリンストン大学、ハーヴァード大学で教鞭をとり、1980年から現職。
マイケル・サンデルやチャールズ・テイラーなどとともに、コミュニタリアニズム(共同体主義)の一人とされる。
と紹介されています。ハーバード白熱教室のサンデル教授と同じコミュニタリアンです。
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今朝、留めおきたい思考は「ハイフン付き」です。日系アメリカ人、中国系アメリカ人、韓国系アメリカ人。日本では「系付き」ということに成りますが、在住する外国人、移民外国人の呼び方です。
市民権を得た得ないに関係なく、その言葉はあるようです。日本の場合、韓国系日本人、朝鮮系日本人、中国系日本人という言葉は聞いたことがなく、当然アメリカ系日本人もありません。
在日韓国人・在日朝鮮人・在日中国人というアイデンティティが既に形成されているように見えますが、足元は民族を主眼においた本国であって、中には本人が行ったこともない母国である場合もあるように思います。
この場合に在日○○といった場合、○○系アメリカ人の抱く「アメリカ合衆国」のような「日本国」はその人々の存在していないように見えません。
○○系日本人といわない理由は、過去の日本の歴史の犠牲者という歴史認識あるのでしょうか。
○○系日本人という呼称が定型化するとき、参政権も付与されたときなのかもしれません。
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「○○系日本人」という言葉の「○○系」を「民族、人種、宗教等の連合体」として考えるときその下にある「日本人」にどのような価値観の共有が存在し妥協の折り合いの中の国民であることができるのか。
今の日本にはこの価値観を共有する努力が皆無であるように見えます。
連合体が異なれば、異なる連合体の価値観を認めない、妥協点を見つける努力をしない。
それは政治の姿と相似系をなしている。そんなことをふと「ハイフン付き」ということばから思いました。