思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

思想する人

2010年04月14日 | 哲学

 あるブログのニーチェ評を読んでいましたら、最後の方に次のようにまとめられていました。

どんな人の心の奥底にもある論理であるからこそ、ニーチェの言葉は人を捉えるわけです。しかし、所詮ニーチェの論理は強者の論理にすぎません。どのような状況に置かれても、それを徹底できるような人はいないのです。

 実に納得のゆく批評であると思います。

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だからといって、ニーチェの言葉は人を捉え惹きつけます。上記のことをしっかりと自認した上で惹きつけられてしまいます。

 ドイツ文学者、学習院大学名誉教授の秋山英夫先生はその著『思想するニーチェ」(秋山英夫著 人文書院)』の中で、その題名のとおりニーチェの思考の実体を書いています。

第一章「思想する人」の在り方
「哲学者」という言葉を避げて「思想する人」と言うのには、多少の理由がある。というのは「哲学者」という言葉でまっさきに連想されるのは、カントやへーゲルといったドイツ流の体系的講壇哲学者であり、ニーチェの在り方はそれとはまったく違っているからである。哲学はなにも頭だげの仕事ではなくて、フランス流のエスプリのきいた「心の仕事」としての哲学もある。

 エモーション(感情や情緒)を抜きにした哲学の索漠さとまったく異たった、感想・随感を軸としたいわばエッセー風の哲学、空想をはせ構想をたくましくする一種予言者風の哲学も可能なのであり、ニーチェの実体はむしろそういう趣きにあるからである。(同書P13)

秋山先生は最終章にもまた、「思想する人」の在り方について書かれています。

「思想する人」の在り方(再論)
 ニーチェ哲学は、彼の発狂によって、「体系」として完結するにはいたらたかった。しかし「体系」をありがたがるのは、いわばドイツ的徹底性の悪趣味ではなかろうか。この世から偶然を除げぱ、なんの面白味があるというのか。ひょんなことが起きればこそ、われわれは抽手喝采して、陽気に暮らせるのである。「そもそも秩序・概観性・体系的なものが、事物の真の存在には当然のことであり、これに反して、無秩序・混沌としたもの・予測を絶したものは、誤った世界のうちに、認識不十分な世界のうちにのみあらわれると見ること、要するに一種の誤謬と考えることこそ、根本的な偏見である」と、価値変革時代のニーチェは言っている。「私は一体系にかかわるほど偏狭ではない」とも言っている。(同書P207)

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 思うにニーチェを体系的に理解しようと思うと私も含め素人に理解できるものではありません。

 しかし、その思考のスタイル、視点のおき方そんなところに理解の技的なものを学べば、物事を考えるときによい意味で役に立つように思います。

 NHKの番組でグッさん(山口智充)が母校を訪ね子ども達に、色々な品物を本来の使用法と異なるものに代える遊びを教えていました。

 執着することも物を大切にするという発想からは然りですが、囚われすぎて固執し泥沼に落ちるのも惨めなものです。豊かな発想は、豊かな人生を自ら作り出すと信じています。

 そのような発想の視点でニーチェを見ると、「ニーチェの言葉は人を捉えるか」が分かるような気がします。

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7 コメント

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あなたのブックマーク (七海半太郎)
2010-04-14 09:05:47
思考の部屋さんへ 七海半太郎
はじめまして、日本古代史で、倭女王卑弥呼を書いています。あなたのブックマークした方の誤り解釈を、ここにお知らせいたします。
あなたのブックマークで、ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだか。⇒やまとことばの研究に勉強になります。この件で書きました。
2010・1・29  ネアンさんは、中西進さんの「花が咲く」解釈に、注文を付けておられます。・・・これに対するこの方の解釈。花が裂くは、ほんとうですか。また、思考の部屋さんの上記⇒文は、ほんとうに、勉強になりますか
七海の解釈・・・加藤常賢「漢字の起原」角川書店昭和45年を参考
1 華は、222から589年の六朝以降、花の字と同じになりました。
字義は、蕾が咲く。華は、木の蕾が美しく開く意味です。
2 (花が咲く)の咲く
中国では、華が開く、を笑とする。咲くの原義は、笑うです。両者は、セゥ音です。
日本では、天のウズメが踊ると、八百万の神が咲った。わらったの意味です。具体的には、植物も笑ったのです。中国と同じです。
本字は、口に草冠と夭です。木の蕾がほころびる意味でした。
草の蕾がほころびる場合は、榮(栄)を使います。(爾雅) 注記:枖を借りてきて、転音の榮を当てています。
3 花が裂く・・・ネアンさんのでたらめな解釈です。
裂くは、一目見て人為的な漢字です。衣を細かく切り分ける意味です。
花が咲く ・・・これを、花裂くにしたのは、間違いでした。
自己流の解釈をすると、ブログが反故になります。その前に、調べてください。
4 2010・1.27の花と鼻・・・ネアンさんが、中西さんを批判する。
七海の解釈
鼻は、自が原義です。仮借して、半島とか物の突き出た先端の意味です。
したがって、端(はな)に通じてきます。よって、中西氏の展開は、あながち、間違いとは、言い切れません。
注記
ネアンさんは、いう。
中西氏は、「花が咲く」の「さく」は、「クライマックス(頂点)」という意味からきている、と語っておられる。「さく」=「さかり」……だから「花の盛り」という。
これでは、中西進さんの引用文献が、文脈不詳ですので、私が追跡の仕様がありませんので、書けませんでした。
参考
(説文) 木、少にして盛なり
枖(ヨウ)は、木の若芽が柔らかく出て、夭屈している。しかも、木が少にして盛りなり。・・・解釈は、木の若芽が盛長する意味です。木は、小梢です。
返信する
Unknown (ネアンデルタール)
2010-04-14 21:06:39
漢字なんか関係ないのです。
漢字と共通する語原の部分もあるだろうが、、僕はひとまず漢字などまるで無縁な縄文時代まで遡行して語源を考えるというのが基本です。
原初、ことばのあけぼのの時代に、「さ」という音韻はどのようにして発せられたか。
まず、そこから考え始めます。
「さあ?」と首をひねる。「さっさ」とやれ、と注文する。前者は気持ちが分裂してまとまりがつかないさま。後者は、あざやかに時間や空間が裂けているさま、時空に一本の線が走るようなさまを「さっさ」という。
「さ」は、閉じていた口をすばやく開いて口の中の空間を裂くようにして発声します。

決定や変化の鮮やかさに対する小気味よさの感慨から「さ」という音声がこぼれ出る。

つぼみが裂けて花という「空間」が現出することに対する感動は、四方を海に囲まれた日本列島での暮らしのある閉塞感やいたたまれなさが水源になっている。そういう閉塞感や生きてあることのいたたまれなさを知らない人間には、つぼみが裂けて花という空間が現出することに対する感動はわからない。
日本列島の原始人がどんな思いで花が開くさまを眺めていたか、その心の動きに推参したいのです。
「笑う」という解釈も魅力的ではあるが、ことばの発生の現場においては、そんな「意味」の説明の意識はないのです。意味は、ことばのあとから生まれてくる。
やまとことばは、「意味」の説明として生まれてきたのではない。
その起源においては、あくまで直接的な「感慨の表出」だったのです。
そこが、漢字の起源(からごころ)とはちょっと違うところです。
「花」だろうと「鼻」だろうと「端」だろうと、起源においては、「先っぽ」という「意味」の説明ではなく、根源的にはその「空間性に対する親しみ」の感慨からこぼれ出る音声なのです。「先っぽ」という「意味」は、そのあとから生まれてくる。
だから、「鼻」は、「空間=空気」と親しむ場所だからそういったのだろう、と解釈した。
僕は、誰も考えていないところを考えようとしているわけで、「自己流」になるしかないのです。既成の知見なんか、どんな偉い学者が言うことだろうと、何も当てにしていない。
服を裂くとかなんとか、そんな「意味」などあとから生まれてきただけのこと。
「さ」は、決定や変化の鮮やかさに対する小気味よさの感慨からこぼれ出てきた音韻、これが、僕の語原解釈です。
本で読んだ知識をいじくりまわしたりひけらかしたりしながら妙な「物語」に耽溺してゆく、というような趣味は、僕にはありません。
返信する
思考の深さ (管理人)
2010-04-14 21:55:12
>七海半太郎様

「七海半太郎の倭女王卑弥呼」をお書きの方かと思いますが、コメントありがとうございます。
 私のブログは「思考の部屋」としていますように、「思考する」に力点をおいています。
 
 人が物事を認識し、認容しながら意識、無意識の作用により行動する。その中で思考はものごとの認識にとって最も重要なことだと思います。

 自分を中心に、対物するものに視点を向け何ものかを認知し、知識で認識できるものならば認容し理解しますし、言葉ならば自分の知識に照合し理解に努めます。

 やまと言葉を考えるとき中西先生は、動詞的な思考、固定されない(形容詞的・名詞的)思考で理解しなければわからない「やまとことばの世界観」という20年程前のNHKラジオ番組で放送されていました。

 私はこの説に非常に影響され、そのころ記紀を中心に「つみ(罪)」という初源的な探求していましたが、国文学者西郷信綱先生の雨障(あまつつみ)等の解説のなかに自分なりの答えを出してきました。

 そこにはやはり中西先生の動詞的な思考、これが明らかに理解できました。

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 ある面動詞的な思考は、多様性の理解でもあります。多様性の理解にはまた、現象学的な、志向性の向け方も重要な意味をもつと理解しました。

 私のブックマークについては、多様性のある、志向性の広がりをもたれる方が多く含んでいます。貴殿のおっしゃる方はその最たるもので、発想の中には私の思いつかない思考の世界があります。

 点で捉えるのではなく、総体的にその志向性を捉えていただきたいと思います。

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 今回は「はな」「さく」という言葉が中心だと思います。参考文献で中西先生の『古代日本人・心の宇宙』(NHKライブラリーP170補章一水とことばの宇宙)の文頭に次のように書かれています。

宇宙水
 たとえば「花が咲く」といっムーこ場合、現代人は植物の花が美しく開いた状態しか想像しませんが、この「サク」ということばは、「サキ」「サカ」などと同語で、漢字で説明すると、物の先、半島の突端の岬(みさき)、幸福を意味する「幸(さきはひ)」の「さき」、事物の盛り、繁栄の意味の「栄(さかえ)」などと別表記されるものがすべて同じ認識にもとづくものであることを示しています。

>「さく」は、「クライマックス(頂点)」<

を上記の中西先生の言葉を、どのように理解するかです。

>花が裂く<

ですが、これについては魚の鮭(さけ)を「シャケ」と方言とする根拠に、東国の古代における鮭の乾物を割ることを裂くということから来ていることに起因しますが、そもそも古語辞典の「サ行」と「カ行」の組み合わせをみると非常に参考になると思います。

「さか~さこ」なのですが、「切れ目、ささくれ、みだれ、先頭、高まり・・・」等の情感(このことばは哲学的になるとやや異なりますが、折り合いの理解で)面でどこかつながりのある感覚を意識できるやと思います。

裂くを漢字の「さく」で見るとやまと言葉の広がりが見えてきません。志向を広げて理解しなければならないということです。

 冬ごもり春さりくれば

は蕾がこもりにこもって(春の花開きの力を貯えて)、春到来とともに裂けて花開く季節のことと理解します。
 
 この際の「裂ける」は、私見で蕾が割れる情景を見ています。

 したがって私見で「花が裂く」と見ても志向性の思考に誤りは内容に思います。

>天のウズメが踊り・笑い<

ですが、記紀の時代に草木が笑うという表現をしていることは、小生のブログで仏教の山川草木と仏性の問題で考察したことがあります。漢字の文化到来以前にその「笑う草花があった」ことは明白な事実です。

 中西先生もいっているのですが、漢字は合理的な言葉です。それに比べやまと言葉は抽象的でしょう。しかしこれを共有できたのが古代の日本人です。

 最近やまと言葉から離れているのに、折角のコメントに答えていないかもしれませんが、その発想の深さは理解していただきたいと思います。
返信する
お返事有難う (七海半太郎)
2010-04-15 01:11:06
ネアンさん、思考の部屋さんへ  七海半太郎
古代人あるいは近・現代人が、事・物に対する思いや解釈をされて、持論を展開されることを、私は理解しないとは、一言も述べていません。むしろ、人々が気付きにくい諸点を、御二人が、新展開される意義を望んでいます。
お二人のお気持ちは、上記の点を強調されたこと、了解していますし、御返事についても、おおむね、理解いたしました。
私の論点は、次の言語上の問題のみ、申し上げた次第です。
日本語(やまとことば)が、話し言葉から書き言語になった時、多くの読者が、できます。この時に、共通の言語が無ければ、通じるかどうかです。
日本国は、言霊のさきはう国、これは重要です。
柿本人麻呂は、言霊をわざわざ事霊としたのは、なぜでしょうか。
そもそも、古代にあっては、物と言う字にも、人間が含まれています。例えて言うと、裸虫とは、人の別名でした。人間を自然と一体、いや、自然の一部と、古代人が看做していると、想います。
花が咲くは、花が笑うというさまが、緒言的ですし、言い得て妙です。
はちきれんばかりに、誇る花。ミツバチが忙しいほどに、旬を謳歌する。そして、実を結び、次の子孫を残す。
また、人間にとっては、ベニバナの染料をとる時期も、事です。よって、口語の中に、人為的な事が含まれていました。
花が咲く
やまとことばに、裂くと書かず、ひらかなで、さくと、されればよいと思います。漢字で裂くとやれば、間違いです。漢字は、文脈からも明確に字義が出てきます。
そして、借りてきての意味が、あとから加わりますので、本義を忘れてしまいます。
古事記のように、日本語の一語を漢字の音で書く場合は、近似音で、よいと考えます。・・・巴奈我佐久(はながさく)とやればよいのです。
古事記の場合、ネアンさんの持論の場合とは、全く別の話でした。
そして、花が裂くは、字義の上で誤りです。その理由の一端を示します。
初めに、花という総称そして蕾・ふくらみ・ひらくという過程があります。
大きな花の泰山木の場合、その鑑賞者の視点で、割く、あるいは裂けるように、開くとやればよいと思います。これで、別の観点で捉えているのだと、わかるからです。これが、ネアンさんの思いと考えます。
従って、古代人の思いは、人としての営み:労働と科学する中から、おのずと生じた「事(こと)」の産物と、人麻呂は、言及していると、回想します。
字源があって、そののちの借りてきた漢字なり文言を、うまくつくれば、一味違う文章となります。
七海半太郎は、上記のように、物・事を峻別しています。ですから、決して、御二人の意(こころ)をあれこれ細かく述べる筋合いはありません。あくまで、言語上の問題を申し上げた次第です。
以上、誤解の無きようにお願いします。
返信する
Unknown (ネアンデルタール)
2010-04-15 16:35:23
あなたは、僕のいったことを何も理解していない。
泰山木がどうとかということなど関係ないのですよ。
理解した、という言い方のなんと傲慢なことか。人と人は、そうかんたんには理解しあうことができないのです。ただ、ときめきあったり、尊敬しあったり、憎みあったり、さげすみあったりしているだけで、これらのことはすべてある意味で「誤解」の上に成り立っているのです。
あなたが「理解した」というのは、自分の都合のいいように曲解しているだけのことです。
「理解する」なんて、たんなる自己中心的な心の動きであり、「唯我論」なのです。
僕は、そうかんたんには「理解した」などということはできない。
僕にできるのは、他人を理解することではなく、他人にときめいたり尊敬したり憎んだりさげすんだりすることだけです。
僕は、あなたの言うことなんか、ぜんぜん理解できない。ただ、くだらないなあ、と思うだけです。
お前らの言うことは理解した、だなんて、よくそんなえらそげなことがいえるものだ。他人を見くびるのもいいかげんにしていただきたい。
僕が、原始人の心に推参する、というのは、ひとまず自分が原始人になってみる、ということであって、現代人として原始人の心を推量する、ということではない。

やまとことばをひらがなで考えるということなら、あなたの百倍もやっていますよ。
ひらがなで考えるから、「さ」は世界の変化や決定の鮮やかさに対する感慨からこぼれ出た音声だといっているのです。「さく」という音声がこぼれ出たのちに、「裂く」という「意味」が生まれてくる。
「さく」という言葉=音声の「意味」をあらかじめイメージして「さく」といったのではない。「さく」といってから、そのあとに「意味」が浮かんでくるのです。
だから、原初、「さく」という音声が「笑う」という「意味」をともなって発せられた、などということはありえないのです。そんなものは、「緒言的」でもなんでもなく、あとの時代になってからのたんなるこじ付けなのです。
やまとことばの語原においては、「咲(さ)く」も「裂(さ)く」も「柵(さく)」「策(さく)」も、ぜんぶ一緒なのです。なぜならひらがなの「さく」だからです。そこのところ、僕とはちがうかたちで説明してみなさいよ。ちゃんと説明がついて、はじめて「緒言的」といえるのです。花が咲くことだけを「さく」といったのではないのですよ。

やまとことばの「咲く」が「笑う」という意味なら、「笑う」といいますよ。何をとんちんかんなことを言っているのだろう。
やまとことばの「笑う」は、「笑(え)む」でしょう。
語尾の「む」は、さしあたり除外して考えるとして、やまとことばの「笑う」は、「え」です。
あなたの言うとおりなら、縄文人は「咲く」といわないで「え(む)」といいますよ。
「え」は、「えいやあ」「得(え)る」の「え」。「可能性」の語義。「可能性」に向かって「えい」と掛け声をかける。人は、「可能性」に向かって微笑み、笑う。そういう心理というか人情の機微を、原始人は無意識のうちに認識していた、ということです。認識していた、というより、人情の機微そのものを生きていた、というべきでしょうか。
やまとことばを使っていた原始人は、可能性に対する希望のことを「え(む)=笑う」といっていた。したがって「さく=笑う」というような「意味」をもてあそんで「さく」といったのではない。
「さく」という音声がこぼれ出る感動があった。
あなたなんか、しゃらくさい「意味」をもてあそんでいるだけじゃないですか。漢字を生み出した大陸人はそうだったかもしれないが、やまとことばにとって「意味」は二義的な機能なのです。
そこのところ、あなたはなんにもわかっていない。

花が咲くことは笑っているみたいだ…という直喩的な表現は、日本列島では、万葉後期になってから生まれてきたものです。
昔にさかのぼればのぼるほど、「喩」は暗喩的になってゆくのです。「あいつは猿みたいだ」というのではなく「あいつは猿だ」という。その違いです。つまり、「花は鼻だ」という。だから、大昔の人は、「花」も「鼻」も「端」も、「はな」といった。
大雑把にいってしまえば、「は」は「空間」の語義、「な」は「親愛」の語義。「花」は、親愛なる空間。「鼻」は息をする=空気との親密性。そして「端」は、真っ先に空間と関係している先端の部分。だから、「花(はな)」は「鼻(はな)」であり「端(はな)」であった。これが、原始的な「暗喩」の世界です。
花が咲くのは笑っているみたいだ、などというのは、現代的なたとえ方なのです。だから、あなたのような現代人が、ころりとしてやられる。
僕は原始人だから「そんなことあるものか」と思う。
中国人だって、漢字を生み出す何万年も前から「さく」という言葉を交し合っていたのですよ。そのときの「さく」がどういうニュアンスだったのか、と僕は考えているのです。
「さく」と「せう(笑)」は、大昔の中国人だって別の言葉だったのです。そんなこと、当たり前じゃないですか。
そして、そういう大昔の言葉のタッチをそのまま洗練させていったのが、やまとことばです。

「もの」と「こと」については、僕はまだ考えている途中なのだけれど、あなたはほんとうにつきつめて問いただしたのですか。
僕は、あなたていどの安直でステレオタイプな解釈では納得できないのです。
「もの」は、「まとわりつく」うっとうしさやいたたまれなさからこぼれ出てくる音韻。
古代の日本列島の住民は、存在そのもの、あるいは生きてあることそのものに対するうっとうしさやいたたまれなさを共有していた。そういうニュアンスで「もの」といっていっていた。
たとえば、「だってあたし女ですもの」というときの「もの」は、良きにつけ悪しきにつけ「私は女であることにまとわりつかれている」という感慨がこめられている。
妖怪のことを「もの」というのは、心にまとわりついてくる対象だからです。
そして「こと」は、「コトン」「コトリ」の「こと」。「こぼれ出る」あるいは「出現」の語義。事件は、「出現する」ものでしょう。「すでにあるもの」ではない。
何かが「出現する」ことに対する感慨から「こと」という音韻が生まれてきた。のちの時代にそこからさまざまなニュアンスや意味が生まれてきたとしても、根源的にはそういうことです。
われわれのこの生は、「すでにあるもの」のうっとうしさやいたたまれなさの上に立ち、そこから「心が動きはじまる=出現する」いとなみとして成り立っている。
いちおう、そこまでは考えています。

七海さん、あなたていどの言うことなんか、いくらでも反論できますよ。

信濃大門さん、勝手にここを使わせてもらってすみません。
返信する
Unknown (ネアンデルタール)
2010-04-15 19:12:05
もうひとこといわせてもらいます。

あなたの「ことだま」ということばに対する解釈も、ずいぶんいいかげんだと思います。
当時の中国人の「霊魂」のイメージと日本人のそれと同じではなかったはずです。「れい」と「たま」くらい違っていた。
「たま」とは、ゆったりと充足している心地、というくらいの意味です。ひらがなで考えれば、そういうことになる。
したがって「ことだま」とは、ことばを交わしあうことのよろこび、ということになる。それ以上でも以下でもない。そのことに古代人のどんな思いのたけが込められているか、と問われなければならない。
薄っぺらな「霊魂」などという概念の解釈で思考停止してしまうわけにはいかない。自然の森羅万象がどうのとか、人間は自然の一部だとか、そんな安っぽい結論で居座るわけにはいかない。そんなことは関係ない。あくまで人と人が語り合うことに対する古代人の思い入れの深さに錘を垂らしてゆくべきです。
「こと」は、「人間と自然の関係」などというもったいぶったことを説明しているのではない。「出現」を意味しているだけのこと。語り合ってよろこびが出現するから「ことだま」といっただけのこと。そしてことばは、口からこぼれ出て空間に出現するものだから、「ことのは」という。
よろこびが出現することを「事(こと)」といい、ことばが出現することを「言(こと)」という。だから、「ことだま」の「こと」は、「事」でも「言」でもどちらでもいい。それだけのことさ。
やまとことばで語り合うことは、心と心が響きあうことだ、と古代人は考えていた。「ことだまのさきはふくに」とは、そういうことです。
中国語が入ってきて、われわれのやまとことばは、あんなふうに意味を伝えるための道具として機能しているだけじゃない、と万葉びとは意識していった。そういう思いで「ことだまのさきはふくに」といったのです。
わざわざ「くに」といったのは、中国大陸=漢語を意識している、ということです。
「たま」とは、生きてあることのうっとうしさやいたたまれなさから解放されるカタルシス(浄化作用)のこと。
中国大陸の観念的な「霊魂」という概念など関係ない。
漢語が「観念的」だとすれば、やまとことばは「実存的」なことばなのです。

あなたの言語論など、思想的にも哲学的にも、まったく薄っぺらです。たぶん、知識をひけらかして自己満足を得たいだけの動機で語っているから、そこで思考がストップしてしまっているのです。
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 (管理人)
2010-04-15 22:04:14
>ネアンデルタール様

可ですから大いに意見を書き込んでください。
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