ブックマークブログで法句経240番「錆(さび)は鉄より生ずれども その鉄を きずつくるがごとし」が紹介されていました。
高瀬広居著『法句経からのメッセージ』(グラフ社)からの紹介でした。現代語訳は、
錆びは鉄から生れてくる。しかも、錆びは鉄をくい破っていく。同じように道をふみはずした人は、自らの行為によって不幸を招く。
となっています。
わかりやすい教えです。リアルに自分の心の動きを思い描きます。錆びが徹に現われ、表面だけでなく本体そのものをボロボロにしてゆきます。
発掘される刀剣のように、刻印された文字も判読できなくなるほど原形を留めないほどに変形させる鉄の錆びです。
中村元先生の『ブッダの真理の言葉・感興の言葉』(岩波文庫)の「真理のことば(ダンマパダ)では、後の偈は、
徹から起こった錆が、そこから起こったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
と訳されています。
この偈は、第18章の「汚れ」(235~255)の中の一つです。
法句経の239は、今度は法句経で有名な、友松圓諦著『真理の詞華集 法句経』(講談社)では、
工巧者(たくみ)の銀(しろがね)のさびを除くがごとく かしこき人は徐(おもむ)ろに 一つ一つ 刹那(せうな) 刹那(せつな)に おのれのけがれをのぞくべし
と書かれています。
同じように、中村先生の「真理のことば」をみると
聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、-----鍛冶工が銀の汚れ除くように。
と訳されています。
一切の悪をなさず、善を行ひ、自己の心を清む。これ諸仏の教なり。
原始仏教の法句経の説くところが、非常に身につまされてわかりやすい教えを示す章です。
諸仏の教えるところは、日々の反省により、自分を整えることが重要なことと理解しています。
それには自律的に自律していなければなりません。自分で自分を整えるほど厳しいものはありません。
江戸初期の鈴木正三の『麓草分(ふもとのくさわけ)』に
自己を離れて道なし。専ら自己に目を着けて本源を知るべし。仏界、魔界、是非善悪、万法総(すべ)て自己にあり。
と説きます。
生きるとは、自分とは、・・・・哲学的問いの結論の一つの言葉にも重なってゆくように思います。
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上田閑照先生は、実在ということ、経験ということ、自己ということ、西田哲学の純粋経験の哲学はこの三つを一つに結び付けてゆく立場にある、といいます(『道を歩む』上田閑照講演会集 上水内哲学会200.5.16)。
ヨーロッパの学問では、「実存とは何か」を問題にするのは形而上学。「見たり聞いたり」という実際の感覚、知覚を問題にするのは、経験論。そして「自己を問題にする」近代的な哲学的思考は実存哲学の世界です。
形而上学は、経験論を超えて、経験論は形而上学をはっきり否定し、実存哲学は世界・自然から自己の内に帰ってという思考の仕方。
分かれ分かれた考え方が、分裂に導いていくことにもなります。そんな点を指摘しながら上田閑照先生は西田哲学の道を説明しています。
上記の法句経の言葉、この言葉は私の中でしっかり展開していきます。それもリアルに。
純粋経験の初源は態は「色を見、音を聞く刹那」そこでは「未だ主もなく客もない」という有名な言葉があります。
この意味は、それを超えて新しくもう一度現実の理解と、同時に現実のなかにある自覚、それを組みなおすという趣旨であるというのです(講演会論集)。
ここまでくると「絶対矛盾的自己同一」というかの有名な言葉が、これもまたリアルに頭の中をかけめぐります。
西洋哲学を知悉しようとしても、西田哲学が気にかかってしょうがないのは、私だけではないと思いますが、法句経の言葉から、今朝は改めて西田哲学のすごさを知った気がします。
なお上田閑照(うえだしずてる)先生の著書は、読みにくいという言葉も聞かれますが、講演会は非常に理解しやすく納得することが多いことを付け加えておきます。
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