今朝のEテレこころの時代は、帝塚山大学教授西山厚先生の「仏に学ぶ 悲しみの力」というお話でした。
他人(ひと)からよく「かなしみの哲学」と言われると自ら語られていましたが、
私の(想うところの)仏教ということで次のように語られていました。
日本の仏教が目指しているのは「さとり」りではないと思っています。これについては異論反論があろうとは思いますが、求めているのは「やすらぎ」だと思っています。
心満たされてやすらかに生き、心満たされてやすらかに死ぬ。
これが目指すところではないか。
旨を話されていました。
「老いて死ぬには変わりはないがその中で大きなやすらぎを感じつつ死んでいく・・・」
という言葉も続けて話されていました。
「やすらぎ」という言葉を漢字まじりで書けば「安らぎ」となります。ここで思い出すのが哲学者の山田邦男先生が同じ「こころの時代」(最近再放送された)「生きる意味を求めて~ヴィクトール・フランクルと共に~」で最後に「安心(あんじん)を求める」自己の心境を語られていましたが、西山先生のこの「やすらぎ」も個人的には同じ響きを持って聞えました。
そして金子みすゞさんの詩が紹介されました。
<さびしいとき>
私がさびしいときに
よその人は知らないの
私がさびしいときに
お友だちは笑うの
私がさびしいときに
お母さんはやさしいの
私がさびしいときに
仏さまはさびしいの
真に感動的な詩です。
人は仏さまを拝む存在であるとともに、仏さまに拝まれている存在でもある。
仏の慈愛の体得とでもいいましょうか、なんとなく安心の世界に(わたしは)置かれます。
西山先生は、
日本の仏教が目指しているのは「さとり」りではないと思っています。
といった言葉の心底には、「めざめ」「きづき」があるからだと思います。
「さとり」を漢字で書けば「悟り」であり「覚り」でもあります。
人をどうしても超越的な力や存在を期待しますが、「悟り」は吾の心の存在であり、「覚り」はまさに吾のめざめです。
超越の彼岸ではなく、足下の此岸こそ存在のありよう(有様)がある。
「かなしみの哲学」「悲哀の哲学」
ネガティブ、ポジティブの二元的相対の世界ではなく、場のやすらぎ、安心(あんじん)こそが今あることの究極なのかもしれません。
「あるということはどういうことであるのか」
という問い。
倫理学者の竹内整一先生は『やまと言葉で<日本>を思想する』(春秋社)の中で倫理学者の和辻哲郎先生のこの問いについて解説しています。
和辻哲郎全集第四巻の『続日本精神史研究』の「日本語と哲学の問題」の解説になりますが、
和辻は、実際に「あるということはどういうことであるのか」という問いを立て、その問いを①「こと」とはなにか、「もの」とどう違うのか、②「いうこと」とはなにか、「すること」といかなる差別をもつか、③「いうこと」とは何人がいうのか、④「ある」ということを問う場合にすでに「・・・・・である」として問うのはなにゆえか、の四つに分けて論じている。とくに、「もの」と「こと」論、「である」と「がある」論をていねいに検討しながら、西洋哲学とは異なる、独自なかたちの存在論・認識論を試みている(上記書p169)
と和辻先生のお考えを書いています。和辻先生と西田幾多郎先生との関係は語るまでもありません。
話が横道にそれそうですが、西山厚先生は、奈良を足場に30年余り研究に取り組んで、たどり着いた仏教の神髄を語っています、そして今朝は金子みすゞの詩も語られ大いなる観照の世界に落ちつきました。
コメントありがとうございます。
「今後のご論考、楽しみにしております。」の言葉にドキリです。
目にするもの、耳にするものに異常なほど興味を持ちひたすら考える初老です。妻に云うと笑われますが、どう考えても生きて15年ほどではないかと思っています。
文才というよりも再考をせずに書き続けています。
時々にDanzaさんのブログ内容に影響を受けています。
素人です、よろしくお願いします。
拙コラムをお読みくださり、もったいないご感想を頂戴し赤面の至りです。
信濃大門さんの文中にある竹内整一さんですが、何冊か読んだ中で “「かなしみ」の哲学” はとても良かったです。「かなしみ」は仰るとおり日本人にとってネガティブではなく、やすらぎに同感しますし、心の潤いでもあると思います。情緒や情操が育つのは「かなしみ」からかもしれません。
仏教が日本に入ってきて日本人は無常観をそのまま受け容れられず、無常感に直して文化として定着させたというくだりもありました。なかなか、悲しみ、哀しみ、愛(かな)し、…深いですよね。
今後のご論考、楽しみにしております。