「基地があるから飛行機事故が起きる。」
という言葉が、米軍ヘリ事故の際に聞かれました。そしてまた米軍施設で爆発が起き、まことに軍事関係の施設があるところには何事かが起きるものです。
戦争になれば狙われる軍事施設、だから軍事基地の全面的撤退を望むそう考えるのは平和を望む人々の想うところだと思います。
戦後70年終戦記念日にはNHKをはじめテレビ局で関連番組を放送しない局は無かったかと思います。特攻隊の話、満蒙開拓と帰還の話、原爆の話・・・数多くの番組がありました。
「戦争になれば狙われる軍事施設」
確かにその通りで否定は絶対にできません。しかし原爆投下の悲惨さをあらためて確認すると戦時下とはいえ平和に暮らす人々の日常のなかに原爆投下があったことは、それも人権大国アメリカが行なった事実は否定できません。
その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、中近東で行われ、行われている空爆等も一般市民を巻き込んだ軍事力の行使であり、その見境のなさが浮き彫りなっています。
「基地があるから飛行機事故が起きる。」
この確かな主張をしなければならない人々の背後にある経験を思うとき、この言葉の重さは計り知れないものがあります。
体験者が語る戦後を多くの人々が聞いたに違いなく、脚色ではない事実ありのままの体験がそこで語られていました。
戦争になれば見境が無い。
争いが始まれば究極は人を狙う。沈静化の名目で”正義 ”として語られる聖戦などという言葉もあるのだから神や仏もあったものではありません。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり。」
という文言を聞くとき、そこに「死ぬ」なる「こと」の表象が立ち現れる。
認識するところの立ち現れてくるものに、何を見るのでしょう。
己の潔い自刃をみるか。
滅私奉公とみるか。
心頭滅却をみるか。
私心を捨てるとみるか。
儒教的な臣下の世界ならば「言われるがままに」とみるか。
と多種多様な言葉を紡ぐことができそうです、が、「潔き自刃」が一般的でしょう。
イデオロギーとは、空間に浮遊する何ものかを固定的な物的化に仕上げるもののように思えます。
日本文化という概念にある画一的なものを創造し、規範性を高めようとするのが支配者側の常套手段で、「己の潔い自刃」がヘゲモニーとして服従する側の同意の当然性として正当化をなし、このようにイデオロギーとして機能した時、服従側には「己の精神の滅、心頭滅却」などという想念もそれこそ身体的な「己を殺す」に収斂することとなる。
立ち現れるものがまさに物(ぶつ)的な自刃という事(こと)に納まってしまう。
時代の特殊性を思いたいが、どうみても
イデオロギーが、空間を離れ、物的な空間を偽装して行き、遂には時の正当性の発現のイデオロギーになるのです。
泰然とした態度の心底を持ちたいのですが、いつの間にか己が己を創り上げてしまいます。
正当化理由、正当化事由
己の行為の「わけ(理由・分け・訳)」を語るのが人なのだろうが、徹底した支配される側に身を置く立場になると自己本位は姿を消し集団のイデオロギーが出来上がります。
今の世の中、日の丸の鉢巻きや国旗掲揚にイデオロギーを感じるならばいつの間にか私たちは支配される側に己を置いているわけです。
開かれている空間を閉じの世界に引き下ろし図表化、物的化してゆく。
どういう「こと」なのか。
事実ありのままを語る時
「事」を大いに説かれる中で列島の人々は、持ち前の情意の、何かは知らねど、「そういうもの」を、重ねゆく。
前回アップした金子みすゞさんの詩が浮かんできます。
<さびしいとき>
私がさびしいときに
よその人は知らないの
私がさびしいときに
お友だちは笑うの
私がさびしいときに
お母さんはやさしいの
私がさびしいときに
仏さまはさびしいの
わかち合いの精神を人々は見たことがある。他国の人々が不思議に思うその姿が・・・。
そこに日本国があるわけでもなく国体があるわけでもないように思う。
そこに日本人だからという「わけ」を見てしまうと、「わかち合い」が消えていきます。
「つなぐ」
という言葉が昨日大いに聞かれました。つなぐ「こと」に重点を置く前に、つなぐ「もの」が重要なことに気づく。
物事のどのように捉えてゆくか。
事物(じぶつ)のとらえ方と物事(ものごと)のとらえ方
音読み訓読みの大いなる問いがそこに生まれます。
そういう「事」を語る時、そういう「もの」に「なる(成る、為る、生る、鳴る)」ことをしっかり見定める心をもつ必要を強く感じます。
警鐘とは「鳴る音」を聴くという事です。
「基地があるから飛行機事故が起きる。」
人間(ひと)は、何んときく(聞く、聴く、利く、効く)らん。