思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

本当というのは一番最後にあるという錯覚

2018年07月19日 | 哲学
 テレビのクイズ番組で写真と画像が時間経過とともに変化した場所の発見を競ったり、モザイク場所のモザイクごとの面の明暗が異なるように見えていても実は同じ色調のものであるという視覚の不思議を語り、人間の「錯視」「錯覚」を話題にするものがよくあります。

 他に山道に落ちている小枝やツタが蛇に見えたり、日の出の太陽、昇る満月が大きく見える現象も人間の視覚の錯覚によるものと説明されます。

 見たものが実際とは異なるという誤りの認識が生じることがよくあるのは何故か。事実そのままに見えればそれでよいのに、何故か、人間の日常生活に必要な認識回路、思考回路は誤ることを前提になっているようで、人間は誤れる存在として進化してきたように思われます。

 言葉を変えれば進化論における利便性による淘汰を考えると錯視、錯覚は生命存在にとって効率的、合理的な選択であると考えてもいいのではないかということです。

 ものを認識するという場合、個々のもつ知識や経験則によるが、直感という短時間の反応が先立ち、自己保存において危険性の認識には緊急の直感が必要だと考えられます。
 危険からの回避は善し悪しを異なる次元の錯視、錯覚、錯誤が不効率と思われますがより速い事態認識にとってなくてはならないことのようです。

 そう考えると人間には視覚上で起こる錯視、錯覚だけではなく、ものの考え方、捉え方でも錯覚のようなことが起こります。詐欺の被害に遭うということも詐言による錯覚が次々に頭の中で物語を形成し、オレオレ詐欺などは相手の声そのものが実の子や孫の声に聞こえ、身内が金銭トラブルに巻き込まれているという状況を創ってしまいます。

 そこには被害者の暗黙の「正しい」判断が行われます。

 まさに「人間とは想像する存在」であって正誤判断でいうならば「正しさ」の物語が錯覚により現れるのです。

 又吉直樹さんのヘウレーカ「本当のことは目で見えない」(Eテレ)で視覚の錯覚からこのような思考における錯覚の話になり、そこで又吉さんが、

「本当というのは一番最後にあるという錯覚」

ではないかということを話されていたが、真面(まとも)で、真っ当な生き方は個人の錯覚による現れとも言えそうです。

 善人にも見え悪人にも見える。救世主にも見え悪魔にも見える。心ゆり動かされて時々の最終判断の形がそこに創り出されているということになります。

 番組タイトルの「ヘウレーカ」は雑誌の「ユリイカ」とともに「何かが解った」という意味があるらしくアルキメデスが浮力の発見したさにに裸で街中を「ヘイレーカ!ヘウレーカ!」と叫び回ったことに由来するそうである。

 そもそも事態の状況判断の過程で紐解かれて行き、「分かった」「判った」「解った」と紡ぎだされ成り立つことが錯覚の最終章と言われても、この錯覚それ自体は私の使用語ではなく第三者の解釈や指示説明です。

 「本当というのは一番最後にあるという錯覚」

という又吉さんの言葉自体、他者からの視線で解されています。

 最近話題になったオウム信者の死刑執行、心の平安を求めて信じ切る。洗脳されたといわれても錯覚でもなく教祖様の言葉は詐言ではなく「まとも」なものでしかなかった。
 苦しみから逃れるためには最終の錯覚に陥るのも一つの術。信仰というものが形成されるのも人間の存在には不可欠なものということになりそうです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。