思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

太田光の「ある囚人の話」から

2014年08月23日 | 哲学

 歳をとるとみるテレビ番組を見た経験が、最近のように思えるようになってきてしまいます。民俗学の柳田國男先生の『遠野物語』の番組は昨日のように思えるのですが、もう2ヶ月ほど前になっていました。

 これは最近ですが・・・・といっても10日ほどになるのですが、「2014年8月12日放送のTBSラジオ系のラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』(毎週水 25:00 - 27:00)にて、お笑いコンビ・爆笑問題の太田光が、文芸評論家・作家である小林秀雄の紹介する柳田國男の書籍『山の人生』の一節について語っていた。」

というサイトを発見し、私も何回か取り上げていた『山の生活』の「序文にかえて」の「はじめ」を飾る「ある囚人の話」に爆笑問題の太田光さんが話題にしていたことを知りました。

 私の論点とは異なり、太田さんは小林秀雄先生の講演CDでの学生との対話で、時代の中(当時)で男女間の恋愛ばかりを取り上げる小説家(自然主義文学、田山花袋等)に対して、現実的な生活の中にある悲哀の世界をなぜ物語れないのかと、悲憤する小林先生を語っておられたようです。

 『山の生活』のこの「序文にかえて」をサイト検索をしても取り上げている人も少なくなり太田さんが取り上げたことに感動しました。

「ある囚人の話」これは、絶対的虚無の深淵の現実が、実在の姿として現われ表現・・・それは足下の此岸の話・・・今の現実世界でも展開されているのではないか。

 ここに再度掲出したいと思います。青空文庫では全文を読むことができますが、ここでは太田さんの番組での小林秀雄先生の語りもあるので、そこからの文立てです。

<新潮社『小林秀雄講演』第二巻から>

 柳田さんの話になったからついでにもう一つ話そうかね。あの人に『山の人生』という本がありますよ。山の中で生活する人の色んな不思議な話を書いている。その序文にね、こういう話がある。「わたしはこの話をもう記憶している人が私一人だけだから書いておく。それで序文に替える」としてこの話を書いている。これはどこだったか牢屋に入れられた囚人の話です。この囚人はどうして牢屋に入れられたかというと、その人は炭焼きだったんですよ。

それで山の深い所で炭を焼いてそれを里にもって行って売って、それで暮らしを立てていた。もうおかみさんは早くから死んで、14歳になる子がいた。どこからもらったのかは知らないけれども、やっぱり同じ年頃の女の子を一人もらい三人で暮らしていた。

 でぜんぜん炭が売れない。まあだいたいいつも炭をもって下りてくると、お米一合にはなったと、・・・・・一合の米も無くなってしまった。誰も炭を買ってくれない。子どもたちがひもじくてひもじくて、・・・・・ある日て炭をもって里に下りるんです。

 これもやっぱり売れないんです。手ぶらで帰ってくる。もうしもじがっている男の子と女の子の顔を見るのが恐ろしくて、あんまり可哀そうで恐ろしくて、そしてコソコソって自分の部屋に入ってしまうんです。

 そしてコロンと昼寝をしてしまうんです。そしてフッと目が覚めると何か音がする。それで覗いてみると、男の子が鉈(なた)を磨いでいるんです。炭焼きで使う木を切る鉈を磨いでいるんです。女の子はそれを見ている。しゃがんでい見ている。

 フッと出て行くと夕陽が、その時入口一面に当っていたと、・・・・・・すると男の子は、鉈をもって、・・・・入口いっぱいにいい陽が当たっている入口に丸太があった。

 その丸太の上にコロンと寝て、・・・女の子もコロンと寝た。すると「おっとう。俺たちを殺してくれ」と言った。二人で丸太の上にコロンと寝てしまった。その時に、その炭焼きがクラクラと目まいがして、何が何だかわからないで殺してしまうんです。

 鉈で首を、子どもの首を二つ切ってしまうんですよ。それで自分も死のうと思った。ところがうまくいかないで、里でウロウロしているところを警察に捕まる。

 それが囚人の話しなんです。

炭焼きで生活する50ばかりの男がいた。女房はとうに死に、13の男の子と同じ歳のもらってきた女の子を山の炭焼き小屋で育てていた。世間はひどく不景気で、里に下りても炭は売れず、一合の米も手に入らなかった。子供たちはひもじがっている。その日も手ぶらで帰ってきて、飢え切っている子どもたちの顔を見るのが恐ろしい。で、小屋の奥にそっと入って、昼寝しちまう。

 眼がさめると、小屋の口いっぱいに夕日が差していた。秋の末のことだという。二人の子どもは日当たりのところにしゃがんでしきりに何かしている。そばにいってみると、仕事に使う大きな斧を磨いていた。

「おとう。これでわしたちを殺してくれ」と言って、入り口の材木を枕にして、仰向けに寝たそうだ。
男はそれを見るとくらくらっ!として、前後の見境無く、二人の首を打ち落としてしまった。
自分は死ぬ事ができなくて、やがて捕らえられ、牢に入れられた。

これを序文に書いた。序文に代えるというんです。そんな時に柳田という人は何を考えていたか分かりますか。

ちょうどその頃はね、あの日本の文壇では、中山花袋だとか自然主義文学が盛んなときさ。

それで、どこかの女の子と恋愛して、その女の子に逃げられて、女の子の移り香が布団に匂ったとか、そんな小説書いていた、そして得意になっていたころですよ。それが「自然主義だ」と。いろんなつまらん恋愛を書いてだね、心理的な小説をいくつもいくつも書いて、得意になっていた頃ですよ。いろんなつまらん恋愛、心理的な小説を幾つも幾つも書いてえばっていたころに、・・・・柳田さんはおそらく「なーにをしてるんだ諸君」と言いたかったんだな。僕はそう思うよ。

 僕がいま語っているのが人生なんだよ。何だよ、諸君の教育なんかいう、自然機微だ、これこそ人生の真相だなどとえばり腐ったものは、・・・あんなものはみな言葉じゃないか。よくもまあ、あんなこせこせした小生意気な、恋愛みたいなものを書いて、これを人生の真相なんて言っているなら、まあそういう囚人が子供二人を殺して死んだか。そういう話を・・・・・・聞いてごらん。

 そういう話。悲惨な話しですけれどね、・・・だけどだね、その子どもね、もっと違ったところから見るとねえ、こんな健全なことはないんです。お父っつぁんが可哀そうでたまらなかったんですよ、子どもは。・・・それはひもじかったけれども知れないけれど「俺たちが死ねば少しはお父っつぁんは助かるだろう」という気持ちでいっぱいなんじゃないか。

 それだから君、・・平気で君・・そういう精神の力でだね、・・・・・鉈を研いだんでしょ? そういうものを見ますとね、実になんと言いますかね、言葉に、言葉というものにとらわれないよ。・・・・・もっと言えば心理なって言っていいね。心理額にとらわれない、本当の人間の魂、そういうきっと子どもの魂がどこかにいますよ。

そういう話を聴いて感動するる私は・・・・魂はきっといるね。

<以上>

この話は最近出版された小林秀雄著『学生との対話』(新潮社)にも収められている話です。

 今の私ならば、「神はどこまで人間に無関心なのか」を重ねます。

 毎日のように展開される、悲哀の現実。

 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。(西田幾多郎『無の自覚的限定』)

 この場合の「悲哀」の主人公は西田先生で、感嘆の表現です。

 私たちは単なる「驚き」に終わってはならない。

 そのようなメッセージもあるように思います。

 昔から哲学は未(いま)だ
 最も深い最も広い
 立場に立っていない
 それを掴みたい
 そういう立場から物を見物を考えたい
 それが私の目的なのです。
          (西田幾多郎)

この言葉は、NHK「日本人は何を考えてきたのか」第11回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」番組の最初を飾る言葉で、『日本人は何を考えてきたか(昭和編)「戦争の時代を生きる」』の第三章の文頭にもある言葉。

「昔から哲学は未だ最も深い最も広い立場に立っていない」

 私はここに虚無の深淵、「もと」への探求があり、それが「何ものか」の表現であることを知ります。


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1 コメント

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空虚の欲求 (Unknown)
2014-08-23 20:48:14
『空虚の欲求、2種類の前知魔と願望』

1.水平思考の前知魔の克服願望

水平思考の前知魔の克服願望とは、前もって全ての結果を知っているが為に意思の選択という願望が叶わない場合に生じる、不確定要素の存在性を望む願望。

全知は自らを破壊する。


全てを知り、すべての結果が予測可能である。だから、自分はその結果に基づいて行動する(或決められた結果に落とし込む絶対的な力、世界の方向性に基づいて動く)意思をもった様に見える意思(可能性)無き機械である。彼は全てを知っているが故に、生きている自分というものが理解できない。

生きている自分を知るためには、全てを知る者であってはならない。自然の完全なる理解は、同時に全てを或決められた結果に落とし込むということであり、自由な意思(可能性)、選択の主体たる自分がなくなるという事である。

この場合、自分を知るためには、自然を理解してしまっている機械を未完全なものに造りかえなければならない。そこで生まれるのが然(在るがままの流れ、物の法則)とほぼ一致した志向の具現性に反する不確定要素である。


2.垂直思考の前知魔の克服願望

垂直思考の前知魔の克服願望とは、予測し得ない原因により重要な物事の決定的な確定要素を失う場合の無力感、無気力から生じる、正の不確定要素の存在性を望む願望。

健常者から身体障害者になる場合、思考上に不可能性が生じる。此処に負の前知魔が発生し、上向きの不確定要素を望む力が生じる。宗教的祈りはその最たる例であると言える。

『祈りの共同行為』
自分以外の人の協力、すなわち人的不確定要素を認識に加えることにより、目標達成の不可能性を分からなくする。自分一人の場合、経験が足枷となり目標に対して無気力になる場合があるが、結果が分からない事でその行動に何らかの有意味性を持つ。また、祈りの共同行為は行為の中でも最も単純な部類に属し、身体の不自由な者でも行う事ができる。また、共同行為は一人一人孤立分散して物事を行うことに比べ想像を絶する程の大きな成果を齎し、人類の生存と発展に大きな影響を与えて来た。すなわち、共同行為はその行為の起点と結果を有しており、予測的結果に成功を観る事が可能である。


この事から、我々は常に空虚な部分を欲求として欲している存在と言えるのではないか?
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