思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

聖浄の分化

2008年06月21日 | 宗教

 ことば足らず「ものさし」話に、少しつけ足しをしたいと思う。

 今月の7日に「真っ当に生きるよろこび」で、茂木健一郎先生の「思考の補助線(ちくま新書)から

 「もともと、情熱(passion)という言葉は、キリストの「受難」(passion)と同じ語源を持つ。この世で難を受けるからこそ、困ったことがあるからこそ、情熱は生まれる。誰だって、生きていくうえでくるしいことや悲しいことくらいある。だからこそ、生きるエネルギーも湧いてくるのである。親しみやすい演歌の世界からバッハのマタイ受難曲の至高の芸術性まで、情熱は受難によってこそ貫かれているのである。

を引用した。
 情熱と受難ということばは、感覚的に正反対なことばに感じてしまうが語源的には同じというところに驚かされる。

 情熱や受難という西洋の聖浄概念やこのようなことは、やまと言葉にも似た面がある。やまと言葉に同じ発音のことばであっても全く異なることを言っているように思えて、その実その背後というか本質的にその表現する世界を、働きという動的な面から見ると共通面があることが分かる。

 情熱や受難ということばは、聖浄概念ともいえるが、日本で神聖観念の同一性から分化について精しく考究された方に民俗・宗教学者で東海大学名誉教授原田敏明先生がおられる。

 原田先生は、昭和58年に91歳でお亡くなりになっているが、その著書の「日本古代思想 中央公論社」は、日本の古代精神史の研究には欠かせない。
 この中で先生は、「聖浄の分化P46」で次のように述べている。

 神聖概念はがその歴史的変遷により、聖浄と汚穢の二方面が対立したという事実は、もともとこの二方面が分化することなく内在していたことを示す。したがってこの二方面を了解することによって、神聖概念の本来の内容を明らかにすることができる。これはまた逆に、神聖概念の内容を明らかにすることによって、それが将来に分化していくべき方向を、大体ながら知ることができるともいえる。
 もともとcommonに対するすべてのuncommonの意識が含まれるのである。そういう神聖概念が。一方に望ましいものと他方に望ましくないものとに分化して聖浄(sacre pur)と不浄(secre impur)の両方面となった。したがってここにいう聖浄の概念のうちには、単に神的とか清浄とかいうだけでなく、少なくとも人間の生活にとって実際的に価値があり望ましいものという意識を持たしめるものが、すべて包含されていることになる。

 さらに原田先生は十二光仏、コーランにおける神の九十九の別名など神聖概念の表現、そして八百万の神々の世界である日本の神概念と論考を進めている。その中で問われていくものは、「清浄なものに関して如何に表現し、宗教的に清浄な心意を如何に表したかという点の吟味」である。

  私自身の個人的な興味は、前回ブログの「心の中のものさし」に通じることなのだが、同一の神聖性の中でその「はたらき」の向きを分化させる感覚、すなわち「実際的に望ましいものという意識をもたらしめるもの」と「望ましくないという意識をもたしめるもの」という心意、「望ましい。望ましくない。」という心の発動のときの感覚である。

 心の中の尺度がそのような分化を行うのだが、その尺度は、現代人は「ものさし」のようにある地点を境に「よし、あし」の判定をする。それはあたかも正義という名の下に判断される不正義というように、基準点としてはあやふやなものであるが、しかしそのあやふやも「多数決」的なものさしにより「このましいもの」とされる。

 特に現代人は、国境という目には見えない境や「社会常識」という、国家によっては正反対である「ものさし」を使い、また子どもの世界、大人の世界、ある集団の世界の中で、世の人々は、「目に見えない境」をもってことごとを判断している。

 身体や心を悩ませ、かき乱し、煩わせ惑わし汚す精神作用である煩悩も現代人は、個々の持っている「目に見えない境」をもつ「ものさし」が心意の根底にある。
 しかし、このような境はあるのではなく、心の中から「流れ湧き」出てくると感ずるのが人の持つ本来的な姿であるというのが、前回のブログでの「煩悩」の「流れ」の話なのである。

 今日の写真は、有明神社である。太平洋戦争中は、出征兵士、その家族で賑わいを見せていたこの神社も、例祭以外はひっそりとしている。

 太平洋戦争中は、確かにここに「和御魂・荒御魂」が存在していた。