「寒時には闍梨(じゃり)を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺す」 (碧巌録43)という言葉があり、「寒い時は寒さであなたを殺し、暑い時は暑さであなたを殺してしまえ」と、文字を解釈すればこのようになるが、「暑いときは暑さと一つになり、寒いときは寒さと一つになり、更に一歩進めて、積極的に暑さや寒さをたのしんでゆけ」ということだという、青山俊董先生の話を聞いて「思考の世界」にある私というものの位置的感覚について考えてしまいました。
というのは、最近上司の考え方と私の考えるところに正反対の相違があって、不満をもつ私を見たことが原因しています。事象に対する見解の相違で、「そうですね」といえばよいのにそれをいえない私があったのです。
まったく大したことではなく、ただそれに従えばよいことなのに怒りが湧くのです。無我などと言ったところで現実には私が明らかに存在するのであって、また、そう思うだけとも言ったところで、やはり現実には「ある」と思うのが現在の私です。
そこで思うことは、良し悪し、善悪等の概念を思考するときに私は幾何学的な「ものさし」を自分の中にもっているということです。ゼロ基点を持つ尺度や、プラスマイナスの絶対値を考えたり、空間的な立体的な心もちがあるということです。それでも良いではないのかという話なのですが、煩悩の元の意味が「流れ出る、湧き出る」ところにあることを再度考えたいと今朝は思ってしまいました。
写真は、前回の角度を変えたものです。
というのは、最近上司の考え方と私の考えるところに正反対の相違があって、不満をもつ私を見たことが原因しています。事象に対する見解の相違で、「そうですね」といえばよいのにそれをいえない私があったのです。
まったく大したことではなく、ただそれに従えばよいことなのに怒りが湧くのです。無我などと言ったところで現実には私が明らかに存在するのであって、また、そう思うだけとも言ったところで、やはり現実には「ある」と思うのが現在の私です。
そこで思うことは、良し悪し、善悪等の概念を思考するときに私は幾何学的な「ものさし」を自分の中にもっているということです。ゼロ基点を持つ尺度や、プラスマイナスの絶対値を考えたり、空間的な立体的な心もちがあるということです。それでも良いではないのかという話なのですが、煩悩の元の意味が「流れ出る、湧き出る」ところにあることを再度考えたいと今朝は思ってしまいました。
写真は、前回の角度を変えたものです。