思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

念ずれば花ひらく

2008年06月22日 | 仏教

 庭先に、なでひこの花が咲いている。
 万葉集にも登場する花で、「やまとなでひこ」などと表現されることもある。

 今日は、部屋内の整理に着手した。その中にNHKの「こころの時代」を録画した、ビデオテープが20本ほどあり、一本一本手に取り見ているとつい見たい衝動に駆られた。

 その一本に「念ずれば花ひらく」故坂村真民(さかむらしんみん)さんの番組を見つけた。見たい衝動に駆られ早速見ると録画当時の感動が甦って来た。

 神宮皇学館(現皇学館大学)を卒業された坂村さんは、神道の「山・神・人間」は同じものという教えを受け、その後禅や仏教から「悉皆有仏性」を知り「花一輪の宇宙」観を感得されたようだ。
 しかし、その根底にあるのは「念ずれば花ひらく」という母の言葉であったということである。

 この番組の冒頭の方で、「信仰」について述べられていた。
 「信仰は、疑うな」に尽きるとのこと。
 あるとき有名な先生の本の中で次の言葉に出会い、その出典根拠を知りたくて大蔵経を3回も読んだそうである。しかしそこには書かれておらず病に陥り、その中で大蔵経には解説書があることを思い出し遂に「十住毘波沙論」の中に次の偈を見つけた。

  疑えば、花開かず
  信心清浄なれば
  仏を見たてまつる


妙好人坂村真民さんの世界が分かる番組であった。

念ずれば花ひらく

 苦しいとき
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしもいつのころからか
 となえるようになった

 そうして
 そのたび
 わたしの花が
 ふしぎと
 ひとつ
 ひとつ
 ひらいていった

講談社α新書「花ひらく心ひらく道ひらく」P22から
                   


やまと言葉の世界観で見る和荒魂と仏性

2008年06月22日 | 古代精神史

 神聖の分化に引き続き、日本の古代精神史の神概念の中から、過去にも「和御魂(ニギミタマ)」「荒御魂(アラミタマ)」について言及したことがありますが、この「分化」について述べそこに見えてくる「やまと言葉」のもつ「もの的思考」と日本仏教の「仏性」の感覚的な共通性を書き込みたいと思います。

 これから述べるに当たっては、やまと言葉という日本に漢語が入ってくる前の言葉の成立の中に、「もの」としての自然という一木一草から自然現象も含めた森羅万象に至るまでのすべてが、「もののけ」の「け」という不思議なつながりの中で存在していると感じていた古代人の世界があるということと、それは「はたらき」を重視した動詞的に把握する精神作用によるものだという考えが前提となっています。

 日本人にとっては、神なる存在は、畏敬の念をもって祈るとき、そこには「柔和な願いと」「神鎮めという鎮魂の願い」の二作用を意識した存在です。
 信仰の深層にこのような分化された分別があるわけではなく、形の無い統一体としての「神」にその力があると認識してしまうのです。

 民俗学研究家に松平斉光さんという方がおられましたが、その著「祭 本質と諸相 古代人の宇宙」(朝日新聞社)の中で松平さんは次のように述べられています(P43~46)。

 一言で神と呼ぶ中にも善神と悪神とが対立している。善神とは自分の望むところを人に与え、望まぬ所を人から防いでやる霊力である。悪神とは自分の望む所を人から奪い、好まぬところを人に与えようとする霊力である。
 人間を愛護することの最たるものは氏神である。人間をその子孫として慈しみ、眷属として信任して、陰となり、日向となって庇護する。悪神とは鬼とか、天狗とかいう荒神で、人間を悩ますことを快と心得るかに見える。・・・・・
 しかし、よく吟味してみると、善神が常に必ず人間を甘やかすのでもなく、悪神が常に必ず人間を迫害するとは限らない。いかに慈悲深い氏神でも氏子のはなはだしい冒涜行為に対しては怒りを発し、厳罰をもってこれを戒める。涙を知らぬ鬼神であっても、機嫌がよければ病魔を逐い、害虫を駆除し、人間の福利に貢献する。・・・・

・・・すなわち同じ氏神が仮に自己を二分し相対立しているのである。だから二分された氏神の一方を善神とすれば他方は悪神なのである。おなじうじがみが怒れば鬼神となり、喜べば善神にとなるのである。・・・・

・・・・善神としての氏神と、悪神としての氏神と、両者を総合したような氏神と。これがわが国の三位一体である。

・・・・善悪二性の対立は、和魂、荒魂と称する所の対立と同じものである。同じ氏神は和魂、荒魂に二分され、その各々を独立した神と考えると、それがまたさらに和荒の両要素に二分されうることになる。

・・・・人間に眼に見、耳に聞き、手に触れる全てのものは、ことごとくそうした神霊の複雑な愛憎の糸に引かれているのである。この間に無力な人間が無事に生きてゆくのは容易なことではない。いずれかの神の怒りに触れ、いずれかの悪霊に取り憑かれ、予期せぬ災害を蒙ることはいつ起こるかも知れないのである。・・・・

・・・・・神と称するものも、その本質は霊魂だということである。そもそも、神なるものの各々を、あたかも人間の個人のごとく、独立の主観を持つ個的存在者と観念すれば、諏訪神と鹿島神とは別者であり、鹿島神と山の神とは別者である。しかし神というものも霊質たる点でみな同じだと考えれば、個々の神格の相違は、ただ、同じ霊質の偶然的性質の相違にすぎないこととなる。いな、神を個的存在者と見ること自身便宜上の問題なのである。霊魂は一様に霊質とも称すべきものと考えられる。それはちょうど水のような、電気のようなものである。時あってから分離されて、あるいは一椀の水となり、あるいは山間の清水となるが、注ぎ合わせればたちまち融合して大海の水となる。無色の水あり、有色の水あり、酸味の水あり、塩水あり、毒水あり、清水あり、種々さまざまであるが、それらが注ぎ合わされると、それぞれの偶性を折衷した水を得る。・・・・

・・・・宇宙には諸種の偶性を持つ霊質が充満し、たがいに相離合集散し、千変万化の様相を呈するものである。そして、これを人間の所属する共同体の利害に関係させて判断すれば、宇宙は「あらま欲しき」善魂の要素と、「あらま欲しからざる」悪魂の要素との千差万別の組合せであることとなる。すなわち、宇宙は善悪、和荒両種の霊質の雑多極まりない変遷流動の坩堝(るつぼ)であることとなる。(管理人注:ここで書かれている「和魂」は和御魂であり、「荒魂」は荒御魂のことである。)

 実に興味引かれる文章ではありますが、霊魂を「水のような電気のような」と表現しているものの物質的な物としてのイメージが強く、私はそれよりもやまと言葉の原点に帰って「はたらき」や「ただよう」ような「何ものか」を観る視点から考えたほうがよいと思うのです。

 物質に霊的なものを求める思考は、西洋的な二元的考え方に重なってきます。古代日本人が持っていた霊性についての感覚は、当初は「はたらき、だだよう」のような動的な感覚であったのですが、その後は「鏡」とか「石」とか「山」という個物的なもの自体に、霊性を持つ感覚に変化し、後に渡来するキリスト教や西洋的な二元的思考により、さらにあらゆる事象の存在認識に分別的な分化する思考法が無意識の内に行われることになってしまっています。

 また「物の中にはたらきがある」ではなく「はたらきの中に物がある」という現象学では表現できない世界が「やまと言葉の世界」であるとも思います。
 さらに、大きな混乱も無く渡来した仏教の中に「仏性」というものを見いだすのをみるとき、「やまと言葉の世界観」が大きな影響をもたらしていると思います。しかし、今の世の中の物的にみる「あるか、ないか」の思考法ではなかなか理解できないような気がします。

 毎日の生活の中で「なにものかの声を聞き」「なにものかのはたらき」を感ずる。そのような感受性を持ちたいものです。

 今日の写真は、安曇野宮城の有明神社に向かう坂道に鎮座します双体道祖神です。