思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

勝れる宝子

2008年06月28日 | 仏教

 6月26日付読売新聞33面の「平成万葉の旅」は、山上憶良の

 (しろかね)も 金(くがね)も玉も何せむに 勝れる宝子に及(し)かめやも

という万葉歌(803)であった。

 中西進先生の講談社文庫の訳文が引用されていたが、これは反歌なので折角なのでので、802も含めて掲出します。講談社文庫万葉集(一)P366から

   子らを思へる歌一首并せて序
 釈迦如来の、金口
(こんく)に正に説きたまはく「等しく衆生を思ふことは、羅?羅の如し」と。又説きたまはく「愛(うつくし)びは子に過ぎたるは無し」と。至極の大聖すら、尚ほ子を愛(うつくし)ぶる心ます。況むや世間の蒼生(あをひとくさ)の、誰かは子を愛びざらめや。

802 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思(しの)はゆ 何処より 来たりしものそ 眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 安眠し寝さぬ

   反歌
803 ・・・・・・

中西先生訳
   子らを思える歌
 釈迦如来が口ずから説かれることには「なべて衆生を思うことは、わが子ラゴラのごとくである」と、また説かれて「子を愛する以上の愛はない」と悟達の大聖人ですら、やはり子を愛する煩悩をもっておられる。ましてや世間の凡人の誰が、子をかわいいとと思わないであろう。

802 瓜をたべると子どものことが思われてならない。一体、子どもというものはどういう因縁によって来たものだろう。目の先にちらついては、私を安眠させない。

   反歌
803 銀も金も、玉とても、何の役に立とう。すぐれた宝も子に及ぶことなどあろうか。

 連日の殺人報道、その中には親殺し、子殺しが含まれている。

 空海は、「心地観経」による四恩を提唱して、生涯それを実践し、衆生永遠救済の「定(じょう)」(瞑想)に入った(入定)。四恩の実践こそ、正常な社会への回復の原動力となる。(大法輪4特集弘法大師・空海を知る P94から)

 畑のブルーベリーが、ごらんのとおり色づき始めた。
 私というこの身(み)も一木一草の実(み)も、すべて古代人は(み)と発声した。
 結実なることを体感する言葉なのである。親から子へ、子が親となり、子へと、果たして現代っ子は結実なる実に生(な)れるであろうか。
  


道しるべ

2008年06月28日 | 仏教
 道しるべは、旅の指針である。中房線を走り通ると、いつも通る道なのに宮城の公民館の道を挟んだ反対側にあるこの道しるべに目に留まり、足を止めた。

 今年はサルを見かけないなあ。「有明通り」と書かれているが、軽井沢のような通りがあるわけではなく、林の中を道が走っているだけである。

 最近2年も前のブログに「トラックバック」がなされ、行き着き先は「南の国、南伝仏教」であった。指導者の名前をブログ内に書いてあるので、検索で見つけ「トラックバック」したのだろう。

 そのトラックバック先は、「なやめる・・・・」で南伝指導者のドアップの顔写真があるページがいきなり出てくる。
 「道を歩いているんだなあ」素晴らしい道しるべを得て、集団とともに生き素晴らしい一生を終わるのだろう。

 お釈迦様が、農村の家族団らんの夕食をして、笑いながら妻と子や、父母らと過ごす姿を時々思考の世界で思うことがある。
 王子に生まれなかったお釈迦様である。貧しき中に、それが定めとして生き、病気、死者は、時々出来事として身近に起きる。

 当然薬草治療や葬儀を行い、そして時は流れる。

 「トラックバック」をした人は、全体を見る目を養うように「道しるべ」が示す方向をよく見極めていないようだ。

 ということで削除させていただいた。

「自灯明・法灯明」の教えも、最終的に理解するのは己なき己である。
 心の時代では、南伝の指導者もいい話をしていたのにと、早朝ランニングを終了し、「般若心経」の谷間に響いた余韻の中で「道しるべ」と題し書いてみました。