思考の部屋

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気配

2008年06月01日 | 仏教
 読売新聞は、5月30日の紙面で世論調査結果からの「日本人の宗教観」の特集を組んだ。

 世論調査によると宗教を信じると答えた人が「26%」、信じていないと答えた人は「72%」ということである。また、前世、守護霊、オーラなどの目に見えない見えない霊的なものとのつながりによって心の安らぎを得るいわゆる「スピリチュアル」なものに「ひかれる」と答えた人は「21%」、「ひかれない」と答えた人は「75%」であったそうである。

 その一方で「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」と答えた人が「56%」、「ない」と答えた人は「39%」であったそうである。

 このことから思うに、今の日本人は、森羅万象、山川草木など自然というものの中に、スピリチュアルな目には見えないが概念的に名詞化され、「物的」に存在するものと認める人よりも、「はたらき、関係、つながり」という感覚的掌握で「なにものか」を感じる人が多いようである。

 さらに今回の調査項目の中に「先祖を慕う気持ちを持っていますか」という質問があり、それに対し「持っている」と答えた人は「94%」、「持っていない」と答えた人は「4.5%」であったようである。

 この特集では、宗教学者の山折哲雄先生が「自然の中 感じる先祖の気配」と題して解説をしている。

 逆説的な解釈だと思うが山折先生は、解説の最後に「今回の調査結果からは、日本人の高い宗教心、信仰心がうかがえるといってよいのではないか。」と世論調査に結論付をしている。

 なぜ「気配」を宗教心や信仰心という概念で「物的」にみてしまうのであろうか。「気配(けはい)」は感覚的なものであり、主体の心とは異なるものではないだろうか。

 大野晋先生が「日本語に自然という漢語が入ってくるまでは、やまと言葉に自然に当たる言葉はなかった。なかったということは、自然という存在を一つの対象として意識しなかった。」旨をその著「日本語の文法を考える 岩波新書」で述べていたが、言葉を全て対象化される事的、物的なものにすると「気配」という言葉の本質は理解できない。

 大野晋先生は、また「日本語の水脈 日本語の年輪 第二部 新潮文庫」で次のように述べている。

 その一つ一つの言葉が言葉として人間社会に使われるには、手順がある。自然界の存在物や、自然界ではたらく作用や、あるいは人間の動作、ものごとの性質とか状態などを一つの対象として捉え、それを社会的な話題としようとするときに、人間はそれに名前を与える。名前が与えられて初めてそれは社会的な存在となる。その生まれた名前、つまり言葉がもし社会で真に必要な言葉であるなら、それはその社会に一つの位置を占め、生存権を得る。その社会の人々はその言葉を知り、理解しなければならない。

 この中に「一つの対象として捉え」という表現がある。従って言葉は、個々の独立した個物的な物になる。それでいいのであろうか。例えば、「みる」という日本語は、「見る、観る、診る、視る・・」としなければ意味が理解できず、上記でいう言葉ではないことになる。

 漢語が入る前、日本人は文脈や主体と客体の存在する空間の中に漂う気配で互いにコミュニケーションをとり生活していたのではないだろうか。だから日本語は、漢語を取り込んだ存在であっても日本語でありえたと思う。それが「気配(けはい)」にでていると思う。

 また、やまと言葉に言及してしまうが、「存在・時間」という言葉がある。これを哲学的に論じていくとわけのわからない話になるが、やまと言葉で枕詞の「ひさかたの」という言葉は、「時間の概念と距離の複合体」のような言葉で、日本人は感覚でつかむことが出来る。
 
 二元的な、分別的な志向性を持つと分けのわからないことになり、さらに「スピリチュアル」も「気配」も同じ意味にしか理解できなくなってしまうように思う。