思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

真っ当に生きるしあわせ

2008年06月07日 | こころの時代

  「思考の補助線」を読みつつあります。茂木健一郎先生の本(ちくま新書)で、前々から読もうと思っていましたが、書評のブログを見て読まねばと思い購入しました。
 茂木先生からは、いろいろな思考の視点をこれまでいただいてきましたが、今回もいきなり序文から新しき視点を与えられました。

 「もともと、情熱(passion)という言葉は、キリストの「受難」(passion)と同じ語源を持つ。この世で難を受けるからこそ、困ったことがあるからこそ、情熱は生まれる。誰だって、生きていくうえでくるしいことや悲しいことくらいある。だからこそ、生きるエネルギーも湧いてくるのである。親しみやすい演歌の世界からバッハのマタイ受難曲の至高の芸術性まで、情熱は受難によってこそ貫かれているのである。

 「そうなんだよなあ」と思う。分別の真っ只中に生きている人間だからこそ時として悪人であり、ものにこだわり、対立し「困った困った」と嘆き苦しみ生きている。

 毎日を生きることは、悪人のままに分別の中で生きていることで、従って「受難」がおとずれる。悪人といっても「人を殺し、人をだます」などの極端な状態ではないが、どちらにしろ「そのような方向に陥りやすい」その中に我々は「ある」ということを意味しています。

 従ってそのような我々であるからこそ「信仰心」や「宗教心」を持つようになるわけです。親鸞さんの阿弥陀さんへの「情熱」はそのようなことに起因するわけで親鸞さんは本当に自分が「悪人」と思ったのであり、そのようにいう私自身も「悪人」そのものだと思う。

 「真っ当に生きるしあわせ」というエッセイがある。シンガーソングライターのみなみ・らんぼうさんが「本当の時代(19年6月)」に書かれた文章である。

 映画「男はつらいよ」の何作目だか忘れてしまったがで始まる話です。

 寅さんの妹さくらの一人息子満男が彼女にふられ、大学受験にも落ちるというダブルショックの中で寅さんと江戸川縁いを歩きながら寅さんに満男はこう訊ねる。
 「伯父さん。人間どうして生きなくちゃならないんだ」と。すると寅さんはいつもの明るい調子で答えます。
 「バカだなお前、大学に入ろうとする人間がそんなことも分からないのか?」
とまずくさしてから、
 「今まで生きていて良かったと思ったことがあるだろう。そんなときのために生きるんだよ」
と答える。

 このような短い会話ですが、みなみらんぼうさんは「ゾクッと来た。」と書かれています。わたしもこの文章を読んで、また情景を想像しながらゾクッと来ました。
 さらにらんぼうさんの語ります。

 僕らは短い期間で大金持ちになったり、名声を得たりした人を幾人も知っている。そうした人を見ると、成功に釣り合いがとれるほどしあわせかと言うと、そうでないことも実は知っている。拍子木を叩いて、町内の安寧を、守る方が、億万長者よりもしあわせだと言うのは皮肉でもなんでもない。本当だ。
 だから僕は真っ当に生きる。しあわせの方向が分からなくなったら寅さんに聞けばよい。

と。

 真夜中にこのような文章を書いているのは、普通ではないのですが、徹夜仕事で昼間から眠りに入り気がついたらこんな時間になってしまいました。
 徹夜中は「受難」の時でしたが今は至福の一時です。

 北アルプスから流れる雪解けの水は、たくさんの沢を作り川を作ります。その川はまた何本かの大きな川を作り日本海に流れていきます。今日の写真は安曇野市と松川村の境を流れる川に架かる「ねずみあな」という橋から望む蝶ヶ岳です。

 最後にらんぼうさんのこのエッセイには「夢がモノであるうちは、しあわせは夢物語であろう。」という言葉があります。ここでいう「モノ」とは、お金で買える「物的」なことを言っています。

 本当の「もの」をつかめたとき、もとめるときそれが幸せなんだろうと思います。