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ケンタとジュンとカヨちゃんの国 (2010/日)(大森立嗣) 75点

2010-06-16 15:04:36 | 映画遍歴
「世の中には二種類の人がいる。一つは人生を自分で選べる人。もう一つは選べない人。」若い時に人生を自分で選べる人って何人いるだろうか。恐らく選んだと思っていても実は選んではいないのだ、、。

そういえば最近人生論っていうのもあまり売れていない気がする。人生いかに生きるか、ということ自体私のような年になっても気恥ずかしく無意味だと思われる。であるからにして、若い人が人生そのものを考えるときもあまりないのではないか、と思う。

人生は歳月であり、過ぎて行くものなのである。生きるということは死ぬということの裏返しなのである。だから、死を意識しない人たちに生きることの意味を分ることは難しいのではないかと思っている。

何故このようなことをぐつぐつ言うかといえば、映画の若者、特にケンタとジュンは動かない人たちである。ずっと閉塞感のある所で過ごしている。孤児院からへ移行しただけで東京から出ようとはしない。休日もあまり遠くへ出かけたようなことも言わない。閉所に閉じ籠っている。

兄のしでかした事件の被害者を上司として過酷な仕事といじめに遭遇している。それでも彼らは今そこにいる所から動かない。娑婆の空気が怖いのだろうか、そこにずっと蹲っている。彼らは茨城かスキーで行った知らない所より北に行ったことはないという。動かない。何故か動かない。エネルギーを貯めている。

そして爆発する。彼らは人間を傷つけることなく、上司の車をぶっ壊し、銅線を盗み、上司がひそかに密売していたシャブを川に放り投げ、何かを求める旅に出る。

だが、網走という刑務所に行くことに何の意味があろうか。家族に会うという甘い幻想は恐らくなかっただろう。ただ、偶像のように自分の脳裏の中で大きな存在となっていた兄というものに会いたかっただけなのだ。だから、会って結局人との巡り合いは完全な幻想だと気付く若者たちにもう住む国というものはなくなってしまう。

どこにもない場所を求めて若者たちは国の向こう、海を越えて新しい国へ向かう。しかしそこはもはや自由の国ではなく、死へと旅立つ国であったのだ。生きることが死ぬことだとすれば彼らは人生の意味を初めて知ることになるのだろうか、、。

この映画を見てたまたま昨日、40年ほど前のアメリカ映画『真夜中のカーボーイ』という映画を見た。彼らも自由を求めて暖かい所、フロリダにバスで向かうのだが、若者の一人はバスの中で自由を夢見つつ死んでゆく。40年前と全く変わらない若者の人生。そう、この僕もこの40年間人生を彷徨していました。この目の前の人生に、明日というものはないのだ。ただ、よく見ると美しくもあり、汚ならしくもある幻想ははっきりと見えている。だからこそ人生を終えるとき、走馬灯のように一瞬にして人生を知るときがあると人は言う、、。

暗いからといってこの映画を毛嫌いする気にはなれません。むしろ人生を模索する青春という時じっくりこういう映画を見て何かを考えるというのもいい経験ではないでしょうか。でも、生きるって、結構大変だが喜びもあるものですよ。

ラストの歌がいい。「私達の望むものは生きる苦しみではなく 私達の望むものは生きる喜びなのだ 私達の望むものは社会のための私ではなく 私達の望むものは私達のための社会なのだ」 さて、この映画って本当に現代の映画だっけ?

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