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自縄自縛日記

上野英信『出ニッポン記』

2018-06-25 07:21:18 | 中南米

上野英信『出ニッポン記』(現代教養文庫、原著1977年)を読む。

 『追われゆく坑夫たち』(1960年)の続編的に書かれたルポである。1960年前後には既に石炭産業が傾いており、また三井三池炭鉱の大量解雇と争議があった。それに伴い、資本側は国策にのって炭鉱労働者の海外への移民を企図し、実施した。上野英信は、ブラジル、コロンビア、ドミニカ、アルゼンチンなど、中南米に流れていった炭鉱労働者のもとを訪ね、何が起きたのかについて聞き書きを行った。

もとより中南米移民の歴史はもっと遡る(1908年~)。石炭産業においても、人を人として扱わず資源として使い潰す国策と資本の歴史があった。著者も指摘するように、三井資本は1886年から囚人を使って西表島での採炭を開始した(三木健『西表炭坑概史』に詳しい)。また、1889年には三池炭鉱を下賜され、1930年まで囚人使役を継続した。その石炭産業が斜陽になった時期の棄民政策の実施であったと言える。 

南米での労働は、炭鉱がそうであったように、極めて過酷なものであったようだ。甘言に釣られて海を渡り、騙されたと知るケースが多々あった。多くの者がろくでもない土地を転々として、野菜や穀物や果物の栽培を行い、貧困にあえいだ。既に炭鉱労働で指を無くしていたり肺をやられていたりという者も多く、そのために現地で亡くなったという話も少なくない。そして契約文書には、もし日本に帰らざるを得ない場合には自己負担などといった酷い条件が書かれていた。医師もろくにいなかった。戦争遂行体制と同じである(吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』)。

現地での受容はどうだったか。確かに「順応性」を買われた場合もあったが、日本人特有の醜い行動もあったようだ。出身県で固まり(南米まで行って、他の県の者を排他するのだ)、現地の人を一段下の存在として蔑視し、そのために日本人に対する激しい拒否反応が起きた場所もある。一方で、現地に溶け込み生き延びた人たちも多かった。

中南米の移民の中には沖縄出身者が多い(著者はのちに『眉屋私記』を書いている)。数で言えばブラジル、割合で言えばアルゼンチンである。このきっかけは、1898年の沖縄県民に対する徴兵令であった。それに対して、沖縄県民は希望のために移民を選んだのだが、政府は、それを徴兵忌避として厳しく弾圧した。また帰国すれば反軍思想を持つ者とみなされた。これは沖縄戦においても、移民帰国者がスパイ扱いされ、またチビチリガマとは異なりハワイ等から戻ってきた者がいたシムクガマでは、かれらの真っ当な発言があったことにより、「集団自決」が起きなかったといった現象につながっている。

その挙句、戦後には炭鉱離職者が不要になったという理由で、政府は海外移民を押し進めたのであった。いずれにしても棄民政策であることに違いはない。

●上野英信
上野英信『追われゆく坑夫たち』
上野英信『眉屋私記』
『上野英信展 闇の声をきざむ』

●移民
上野英信『眉屋私記』(中南米)
『上野英信展 闇の声をきざむ』(中南米)
高野秀行『移民の宴』(ブラジル)
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(台湾)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー


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