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自縄自縛日記

カロリン・エムケ『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』

2018-06-24 10:30:39 | 思想・文学

カロリン・エムケ『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』(みすず書房、原著2016年)を読む。

恣意的に作り出され、共有される、憎しみの対象。その対象に対しては知性や倫理のリミッターが外れてしまい、野蛮な行為が許され、それが「必要なこと」であったとの評価さえがなされる。それは、うっかり、ではない(「失言」というおかしな言葉が暗喩するように)。著者曰く、「ユダヤ人」「女性」「信仰のない者」「黒人」「レズビアン」「難民」「イスラム教徒」「アメリカ合衆国」「政治家」「西側諸国」「警官」「メディア」「知識人」。日本であればどうなるか、残念ながら思いつくのは実に簡単だ。

それはなぜなのか。著者は平易なことばを使い、しかし、本質を突く。

憎しみは突如個人の中で沸くわけではなく、差異を覆い隠す外的なストーリーに沿ってあらわれる。憎しみには常に特有の文脈があり、ときにそれは歴史的な思考パターンである。視線の向きは積極的に曲げられる。そして極端な者だけでなく、傍観者が多く存在することによって、憎しみの共犯関係が生まれる。

たとえば、憎しみを発生させる装置として「懸念」というものが挙げられている。課題評価される「懸念」、批判してはならない「懸念」。そのフィルターが、「懸念」についての合理的な判断をはねつけている。しかし、実のところ、「懸念」とは「異質なものへの敵意」を覆い隠し批判を防ぐものでもあるのだと、著者は指摘する。「懸念」が、「問題の解決策を探すふりをして、問題解決の妨げになる」のだ、と。

こうしたフィルターのかかった世界観や人間観に馴れてしまうと人間はどうなるか。著者の言うのは「想像力の枯渇」である。実際のところ、可視化のプロセスが曖昧なフィルターにある概念が、何を指しているのか明らかにされることはない。そのような概念で世界や人を括ろうとすること自体が暴力だということである。フィルターによる正当化と承認がどのように成立しているのか観察・分析し、可視化することが、その抵抗手段として挙げられる。

逆に、そのようなフィルターの対象となってしまう者はどうか。かれらは脅威にさらされ、攻撃する側は人生のごく一部の時間を使うのであっても、受ける側は、常に防衛をしなければならない。冨山一郎『流着の思想』が、「沖縄」という名で呼ばれる沖縄にとっては名を呼ばれるという暴力的な位相があるのだと説いたように。それに対して、真っ当な抵抗の術があらかじめ奪われ、ことさらに「明るく」「おおらかに」振る舞い、「感謝」さえも示さなければならないような、痛ましいことが少なくない。しかし、著者のいう解は、フィルターを解除した姿を示すしかないというものだ。(ハンナ・アーレント「ある種の人間として受ける攻撃には、その人間として抵抗するしかない」)

「今日、ある種の政治的運動は、自身のアイデンティティを均一、根源的(または自然)、あるいは純粋であることを特に好む。」

均一への抵抗、根源的への抵抗、純粋への抵抗。これがサブタイトルの意味だ。あらゆる独立した個人の民主的意思であったはずのものが、いつの間にか、全体=あいまいな集団の意思へと変わっていく。社会集団のアイデンティティの怖さである。

著者はこの抵抗に希望を見出してもいる。それはすなわち社会の学習であり、自己批判の可能性であり、想像力の拡張であり、権利と自由を侵害されることへの抵抗が本人に押し付けられないようにするための全員の仕事であり、何より不純で多彩なものへの支持だとする。それはときに危険な行為でもある(ミシェル・フーコーの「パレーシア」)。さらにもうひとつ、重要な抵抗は、誰でも幸せを望むこと、あるいは「世間の基準から外れていても幸せな生き方と愛し方の物語を語る」こと。これは力強いメッセージである。

本書はドイツでベストセラーになったという。ヘイト本が氾濫し、電車では組織人としてのノウハウ本ばかりが読まれる日本においても、広く読まれて欲しい。


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