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自縄自縛日記

テッサ・モーリス=スズキ『過去は死なない』

2014-08-09 09:11:04 | 思想・文学

ウランバートルから仁川に向かう機内で、テッサ・モーリス=スズキ『過去は死なない メディア・記憶・歴史』(岩波現代文庫、原著2004年)を読了。

本書は、今なお蠢き続ける歴史修正主義に抗するテキストである。「修正」という表現では、正しい内容への是正と捉えられてしまうかもしれない。より正確に、著者は、「抹殺の歴史学」と書く。

すなわちそれは、「正史」という大きな物語を確立し、それに対する異物を排除しようとする「抹殺」の絶えざる策動を意味する。具体的には、「従軍慰安婦」が日本軍の組織的な性奴隷であったこと、南京事件において日本軍が大規模な無差別虐殺を行ったこと、沖縄戦において日本が住民を意図的に犠牲として延命を図ったこと、近代以降の日本が帝国主義的な拡大をつづけたこと。それらは「なかった」ことにしようとされる、あるいは、別の物語にすり替えようとされる。もちろん、この現象は日本のみに見られてきたわけではない。

「抹殺の歴史学」の手段はさまざまだ。典型的には、抹殺の対象となる史実の説明に瑕を見つけ、その瑕のみをクローズアップし、もし間違いであることが判明したならば、全体もすべて間違いであるかのように喧伝する。しかも、国家や民族への帰属意識を利用することによって。

その過程で、映画、漫画、テレビ、インターネットといった媒体がどのように使われてきたか。著者の追及は鮮やかだ。たとえば、小林よしのりの漫画における「抹殺」の手法が、ソ連のプロパガンダに採用された手法に酷似していることなど、納得させられる。あまりにも稚拙であからさまな手法ではあるが、それだからこそ、多くの同調者を生んだのである。

それでは、如何に、「抹殺の歴史学」に抗していくのか。著者は、歴史とは「過去への連累」であり、「真摯さ」をもって対峙し、各々が抱え持つべきものだと説く。そして、それは、わかりやすい物語のみに接することであってはならない。

「歴史プロセスへの”連累”について考察しても、そこからたったひとつの権威ある”歴史的真実”が生まれてくるわけではない。それでもわたしは、そこに”歴史への真摯さ”(ヒストリカル・トゥルースフルネス)が、すなわち、過去の出来事と人びととのあいだに開かれた、発展的な関係が必要だと主張したい。”真実”(トゥルース)ではなく”真摯さ”(トゥルースフルネス)ということばを使うことでわたしはこの論考を、歴史的事実が存在する、しない、をめぐる、ときには不毛とさえ思える論争からひき離し、現在の人びとが過去を理解しようとするプロセスに焦点をあてたいと願っている。」

「・・・自分の意見をもつことなんか放棄したいー結論を”エキスパート”に委ねたいーという衝動は危険である。それは真空地帯をつくりだし、そこにすぐ最新の、あるいはもっとも魅力的に提示されるイデオロギーがするりと入りこんで埋めてしまうからである。歴史理解との関わりにおいては、政治との関わりと同じく、漠然とした無関心と、メディアによって操作された大衆向けパフォーマンスにたいする狂信的熱狂とは、ひとつコインの表裏にすぎない。」

●参照
テッサ・モーリス=スズキ『北朝鮮へのエクソダス』


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