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自縄自縛日記

高橋哲哉『デリダ』

2015-06-16 22:53:13 | 思想・文学

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』(講談社学術文庫、原著1998年)を読む。

互いに対になるような概念や存在を設定する、形而上学的な世界認識、汎用的な論理。抽象。繰り返し可能なもの。法。何ものかの対象や自己に名前を付けること。これらは根源的に暴力をはらんでいるものであり、正義ではない。「脱構築」とは、不断のそのような問い直しに付けられた考えであるだろう。

ここで、他者というものに目が向けられる。他者は、上の考えからしても、世界における位置が事前に認識され、いつどのように自己に関与するか予測可能な存在ではありえない。そうではなく、「まったき他者」に自己を委ねること。ここで、確かにジャック・デリダにとっての正義が、エマニュエル・レヴィナスの苛烈な倫理思想と重なってくることがわかる。レヴィナスは、完全に予測不可能な他者に対し、もっとも無防備な自己の顔を晒すことがすなわち倫理だと説いた(デリダは、『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』を書いている)。

そして、何かを志向する活動に(正義に、倫理に)限界があること。アブラハムは、神に、息子のイサクを生贄として捧げよと告げられ、ひとり苦しみながら自分の手で息子を殺そうとする。デリダが『死を与える』において思想している『旧約聖書』のエピソードであり、あまりにも理不尽な「まったき他者」としての神である。しかし、アブラハムの行動がどうあれ、神の意志がどのようなものであれ、必然的に、他の「まったき他者」は、アブラハムの行動と無縁ではありえない。これこそが限界であり、絶えずその無限の縁を問い直さなければならない。

「私は他の者を犠牲にすることなく、もう一方の者(あるいは<一者>)すなわち他者に応えることはできない。私が一方の者(すなわち他者)の前で責任を取るためには、他のすべての他者たち、倫理や政治の普遍性の前での責任をおろそかにしなければならない。そして私はこの犠牲をけっして正当化することはできず、そのことについてつねに沈黙していなければならないだろう。」
「あなたが何年ものあいだ毎日のように養っている一匹の猫のために世界のすべての猫たちを犠牲にすることをいったいどのように正当化できるだろう。あらゆる瞬間に他の猫たちが、そして他の人間たちが飢え死にしているというのに。」
(『死を与える』)

ところで、思想家の概説書にはいろいろなものがあるが、概して、読んだあと時間が経つと何が書かれていたか忘れてしまう。まとめてポイントをつかむようなプロセスが、意味のある思想とは正反対に位置するからである。いかに難解で晦渋なテキストであろうと、それに直接取り組まなければ脳内に沈殿することはあるまい。それはわたしのような素人にとっても同じことだ。

本書は、その中で思想し、簡単にはポイントを示してくれない。驚くほど明快でもあるのだが、果たしてこちらがもやもやと抱くデリダの思想のイメージが、身勝手で偏ったものなのか、少しでも正鵠を射たものなのかについては確信できない。逆説的だが、それゆえに良書である。

●参照
ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(2006年)
ジャック・デリダ『言葉にのって』(1999年)
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(1997年)
ジャック・デリダ『死を与える』(1992年)
ガヤトリ・C・スピヴァク『デリダ論』(1974年)
エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(1984年)
エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』(1982年)
エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』(1974年)
合田正人『レヴィナスを読む』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント
高橋哲哉『記憶のエチカ』
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』
いま、沖縄「問題」を考える ~ 『沖縄の<怒>』刊行記念シンポ(2013年)(高橋氏発言)
10万人沖縄県民大会に呼応する8・5首都圏集会(2012年)(高橋氏発言)


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