Sightsong

自縄自縛日記

『けーし風』読者の集い(16) 新自由主義と軍事主義に抗する視点

2012-01-28 23:42:17 | 沖縄

『けーし風』第73号(2011.12、新沖縄フォーラム刊行会議)の読者会に参加した。参加者は6人。

本号の特集「新自由主義と軍事主義に抗する視点」が広すぎるテーマということもあって、話の内容もかなり散漫なものとなった。

○八重山で問題化している育鵬社の中学校教科書について、公民は存外に普通、しかし歴史は集団自決や米軍基地の記述がない(乏しい)など、確かに問題のある内容。
○太平洋や米国という視点から、ハワイと沖縄との共通項を考える記事は良かった。
○原発事故以降、沖縄の人口は短期的に6千人増えて、空き家がずいぶん無くなった。
○沖縄でとくに若年層の失業率が高いことについて、本土から来てバイトに従事している人が多いことも影響しているのではないか。
○山中に多くできたカフェは、本土からの人がやっていることが多い。
○沖縄は公務員天国であり、給料が相対的に高い。
○沖縄の観光インフラはまだ不足している。例えば、那覇からちゅら海水族館に直行できるバスがない。
○イタリア人監督による映画『誰も知らない基地のこと』が4月公開。
辺野古のアセス評価書について、埋立に使う土砂のことがやはり曖昧なままであり、指摘すべき評価書の欠陥のひとつ。ここには、辺野古ダムあたりから200万m3を採取し(地図でみると広い)、さらに残る1700m3については沖縄内外から採取すると書かれている。これは非常に大きな環境影響を及ぼす。その場合の土砂業者も恐らく特定できる。
○新アセス法(2012年4月1日に部分施行)には、「都道府県知事等が許認可権者の場合の環境大臣助言手続の新設」が含まれている。この施行前に駆け込むため、沖縄防衛局は、評価書を年内に沖縄県庁に持ち込みたかったと考えられる。つまり、このままなら、環境大臣は評価書に対して何か言うことになるかもしれない(義務ではない)。

などさまざま。

終わってから、さらに飲みながら四方山話。

●けーし風
『けーし風』2011.12 新自由主義と軍事主義に抗する視点
『けーし風』読者の集い(15) 上江田千代さん講演会
『けーし風』読者の集い(14) 放射能汚染時代に向き合う
『けーし風』読者の集い(13) 東アジアをむすぶ・つなぐ
『けーし風』読者の集い(12) 県知事選挙をふりかえる
『けーし風』2010.9 元海兵隊員の言葉から考える
『けーし風』読者の集い(11) 国連勧告をめぐって
『けーし風』読者の集い(10) 名護市民の選択、県民大会
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える
『けーし風』読者の集い(8) 辺野古・環境アセスはいま
『けーし風』2009.3 オバマ政権と沖縄
『けーし風』読者の集い(7) 戦争と軍隊を問う/環境破壊とたたかう人びと、読者の集い
『けーし風』2008.9 歴史を語る磁場
『けーし風』読者の集い(6) 沖縄の18歳、<当事者>のまなざし、依存型経済
『けーし風』2008.6 沖縄の18歳に伝えたいオキナワ
『けーし風』読者の集い(5) 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊
『けーし風』読者の集い(4) ここからすすめる民主主義
『けーし風』2007.12 ここからすすめる民主主義、佐喜真美術館
『けーし風』読者の集い(3) 沖縄戦特集
『けーし風』2007.9 沖縄戦教育特集
『けーし風』読者の集い(2) 沖縄がつながる
『けーし風』2007.6 特集・沖縄がつながる
『けーし風』読者の集い(1) 検証・SACO 10年の沖縄
『けーし風』2007.3 特集・検証・SACO 10年の沖縄


丸山健二『ときめきに死す』と森田芳光『ときめきに死す』

2012-01-28 11:02:59 | 思想・文学

バンコクにいる間、たとえば便座に座っているときなんかに、丸山健二『ときめきに死す』(文春文庫、原著1981年)を読んでいた。丸山の作品に接するのは『千日の瑠璃』(1992年)以来だが、ずっと気になってはいた。


マナブ間部の表紙が良い

自暴自棄な生活を送っていた40間近の「私」。かつての同級生から大金で依頼され、信州の別荘である若い男の世話をすることになる。若者は、ある大物政治家の暗殺という指令を受けていた。「私」は、それをうすうすと知り、かつてなかった興奮と生き甲斐を覚える(ときめき)。遂に訪れた決行の日、若者は何故か自殺する。

これはハードボイルドである。そのため、淡々と、現象と「私」の気持ちとが、事実として積み重ねられていく。そこに理由はなく、ましてや心の通い合いなどはない。あるとしても「私」の心に浮かびあがるに過ぎない。従って、この世界は時に暴力的になる。そして、世界も自分も破滅ぎりぎりの場所にとどまらざるを得ない。それがハードボイルドであろう(と、勝手に納得する)。

先日亡くなった森田芳光の映画『ときめきに死す』(1984年)も観る。「私」が杉浦直樹、若者が沢田研二、原作にない女性が樋口可南子。暗殺対象は政治家ではなく新宗教の教祖、場所も北海道へと設定が変更されている。

この映画のあとに撮られた『それから』(1985年)でも感じたこと。上滑りな工夫が空回りしている。かつて評価されたのかもしれないが、突き抜けるほどの映画的才能ではなく、どちらかといえば感じられるのは小器用さだ。本作でも、「私」の「ときめき」はどこへやら、丸山世界がおかしな新宗教という大組織構造や若者の孤独に置きかえられており、杉浦直樹の「気を許すと何をするかわからない卑屈さ」的なキャラクターが完全にミスキャストだとしか思えない。樋口可南子は悪くないが、今観ると、80年代のトホホな雰囲気がさらに映画を古びたものにしているようで。