バンコクからの帰国便で、ジャッキー・チェン+チャン・リー『1911』(2011年)を観る。タイトル通り、ほぼ辛亥革命の1911年を中心に描いた映画である。気がついたら日本公開が終わっていた作品だった。
個人用の小さい画面のため、字幕以外のキャプションをほとんど読みとることができず、隔靴掻痒の印象があった。映画冒頭において処刑される革命軍女性も、たぶん秋瑾なんだろうなと予想するしかない始末。
それはともかく、代表的な人物の描き方が平板に過ぎてあまりにもつまらない。孫文が革命政府への支援を求めてヨーロッパの銀行家たちを前に演説をぶつシーンなどは格好良すぎるし、袁世凱はいかにも粗暴で卑劣(それでも、紫禁城で西太后に対し、フランス革命でギロチン刑に処せられたルイ16世たちの話をネタに退位を迫るシーンは面白い)。黄興役のジャッキー・チェンが映画の総監督を務めたからといって、なぜ見え見えのカンフー格闘シーンなどを入れるのか。まあ、観に行かなくてよかったか。
それに比べれば、丁蔭楠『孫文』(原題は中国で一般的な『孫中山』)(1986年)のほうが遥かに出来が良い。以前にVHSで入手していたものを観た。
何よりも、ここには、辛亥革命前、そして袁世凱に実権を握られてからも、絶えることなく南からの武装蜂起を繰り返した革命山師としての孫文の姿が描かれている。また、革命後、宋教仁の暗殺や黄興の病死などによる革命メンバーの消滅、汪兆銘の日和見的な様子、孫文に共産党の李大釗が接近する様子、レーニンとの接近など、さまざまな運命が散りばめられている。1911年だけでは偏ってしまうことは最初から見えているのである。もっとも、その一方、中国共産党の支援のもと斯くのごとく歴史が描かれた意味も考えなければならない。
面白いといえば、革命前、孫文が日本において宮崎滔天、頭山満らのアジア主義者(その中には犬養毅も入っている)に支援されたことも、やや無批判に描かれていることもある。もちろんそうなのだが、日中戦争前までを描くのであれば、この理想が、アジア侵略というヴィジョンにシフトしていった様にも触れなければアンバランスだろう。
●参照
○菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』
○尾崎秀樹『評伝 山中峯太郎 夢いまだ成らず』
○大島渚『アジアの曙』
○入江曜子『溥儀』
○ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』