Sightsong

自縄自縛日記

島尾ミホさんの「アンマー」

2007-04-01 22:26:10 | 九州

先日、島尾ミホさんが亡くなった。

島尾敏雄の妻、『死の棘』に描かれた凄絶な夫との諍いとその果ての狂乱、故郷奄美での快復、夫亡き後の生活。

幻視者でもあった。

第一艇隊第一番壕(島尾の乗る隊長艇が格納されていた壕)の前に立つと、過ぎ来し方を壕が語りかけているようで、涙が止め処なく零れてきました。暗い壕の奥に続く夜見(よみ)の国からの亡き夫の声のようにも思えました。すると空気の中の太陽熱が冷たい霧と入れ替わったかと思えるしっとりと皮膚に滲む寒気が全身を包み、私はいつものあの青黒く冷たい世界へと沈んで行く目眩き(めくるめき)に襲われました。夫の没後私は時折奇妙な状態に陥るようになりました。脳の機能に変調が兆し始めたのか、視覚神経の一過性異常なのか何れにしろ真昼の太陽が突然明るさを失い、あたりが深い青味を帯びた薄闇に暮れて、眼に写るものはすべて暮色に染まり、庭の樹木や、濃緑の照り葉を覆い隠す程に咲き誇る深紅の椿の花々でさえ薄墨色に色褪せ、物音も消え果てた深々の静寂の底に引き込まれる心地で立ち尽くすことを繰り返すようになったのです。
(島尾ミホ『島尾敏雄の戦争文学について』)

2006年、詩人・吉増剛造が奄美・沖縄を歩く映画、『島ノ唄』(伊藤憲)が公開された。「僕は島尾ミホさんの追っかけ(笑)をしていて、生と死の、海と陸の境を覗き込むような眼を盗みたいと思って奄美大島に行っています」と語る吉増剛造(『燃えあがる映画小屋』)にとっては、アレクサンドル・ソクーロフの映画『ドルチェ-優しく』以来の島尾ミホとのコラボレーションであり、『島ノ唄』での出演は必然的だったのだろう。

『島ノ唄』では、島尾ミホが、ガジュマルの木の下で、奄美の昔話「鬼と四人の子ら」を朗読する。その声は高いが底知れず優しいものに聞え、表情は穏やかだった。奄美の言葉―――お母さんのことをアンマーと言い、その頻発が何とも言えない語りのアクセントになっていた。

アンマー・アンマー。
(母上さま。奄美のとおーく呼びかける甘い声。ミホさんのお母さまは、汐路に、立ったまゝ亡くなられた、―――

(吉増剛造『序章 光の扉』(部分))

畑に出ていた母を鬼が喰らい、その頭と顔の皮をかぶり、母になりすまして四人の子が待つ家に帰る。そして夜中に子が寝付いたころ、隣の下の子を喰ってしまう。気づいた上の子三人は庭の木の上に逃げるのだが、鬼は姿が木の下の水溜りに写っているのを見て、水を全て飲もうとする。挙句、鬼は腹が破裂して死ぬ。

ひどい話だが、島尾ミホは、母に化けた鬼の声をも優しく語るのである。

『島ノ唄』から30年近く前、島尾ミホは、敏雄の『東北と奄美の昔ばなし』(創樹社)の付録レコードに、「鬼と四人の子ら」を吹き込んでいる。改めて聴いても、声の優しさは変わっていない。生きるもの、生きないもの、そして世界に対する溢れ出るような愛情から出てくる声なのだろうかと思わせた。

夫が生前カセット・テープにおさめてあった「中国詩詞吟唱」をかけたとたん、胸が激しく波立ち、身も激しく震えた。すぐにテープを止めたが、涙が溢れて止まず、遂に発狂に至ったと思った。嘗て夫が手を触れ、耳にした「中国詩詞吟唱」を思うと、悲しみは募り込み上げ、カセット・テープを抱いていつ迄も声をあげて泣いた。
(島尾ミホ『日日の移ろいの中で』)

1994年発表のエッセイだから、夫の死(1986年)から8年位が過ぎたころである。

ミホ 私は強く子供たちを愛した。私の愛は・・・
ミホ ・・・境界もなく激しく強い。

(『ドルチェ-優しく』採録台本、ソクーロフ監督)

絶えず湧き出てくる愛情の流れ。全くの他人である我々にとっても、このような文字、音声、映像が残されていることはしあわせなことだと思う。

 


イマジン・ザ・サウンド

2007-04-01 02:04:59 | アヴァンギャルド・ジャズ


なんと日本盤で『イマジン・ザ・サウンド』のDVDが出る。

これまで世に出ていた媒体は、フィルムの他には、おそらく、米国でVHS化されたもののみ。私もそれを保有しているので、改めて観た。

製作は1981年。ここでフィーチャーされる4人の音楽家、セシル・テイラー、アーチー・シェップ、ポール・ブレイ、ビル・ディクソンに対し、監督のロン・マンは、60年代の話題を執拗に仕向ける。バードやコルトレーンのことを繰り返し語るシェップや、60年代の怒れる社会的存在を熱く語るビル・ディクソンを含め、彼らの回答は常にリアルタイムの自分についてである。そしてブレイは、ジャズ・ミュージシャンが自分の音楽に利己的であり、新しいことを求め続けているのだとソフトに語る。

収録されている演奏は、何れも他の映像作品と比べてもかなり素晴らしいものである。驚くべきことだが、いまだ全員が現役ばりばりなのだ。その意味で、副題「60年代フリー・ジャズのパイオニアたち」は、嘘ではないが、視野を狭めているということができる。

アーチー・シェップ。来日に狂喜して2度聴きに行ったのは99年だった。野太くダイナミックレンジの広いテナーサックスの音は、昔の録音もいまも変わっていない。かぶりつきだったが、マウスピースの横から涎がこちらに飛んできて、妙に感激した。ここでの「ママ・ローズ」は必見である。テナーだけでなくソプラノもヴォーカルも聴くことができる。

ポール・ブレイ。最近の来日は2001年だったと思う。新宿ピットインで、横の席のオジさんが、ブレイのピアノに感じ入り「美しい・・・」とつぶやいた。実際に、「ビリーズ・バウンス」のようなバップ曲でも耽美的で異空間に飛ばされるものだったと記憶している。この映像でも、ロマンチシズムを遺憾なく発揮している。

セシル・テイラー。今年2007年の来日は忙しくて行けなかったが、2004年秋にベルギーで観た。なぜか我がサックスの師匠・松風鉱一さんとブリュッセルのバーで昼からビールを飲み、その後ひとり電車でアントワープまで移動したのだった。バスの終点から結構夜道を歩いた場所だった。このあたりは英語を喋れない人も多く、バスのなかでブリュッセルのカップルが「シソー・テイラー」の話をしていなかったらきっとたどり着けなかったに違いない。トニー・オクスレーとのデュオ、繊細かつパワフルだった。

この映像で最も面白いのはテイラーだろう。真白なスタジオで、スウェット姿のテイラーは詩を朗読し、猿のようなダンスをし(爆笑)、そしてピアノを弾きまくる。鍵盤を恐ろしいほどの速度で叩く姿からは、誰もが眼を離せなくなるだろうと思う。テイラーの映像作品には『Burning Poles』(1991年)もあり、これも素晴らしいが、ソロでアブストラクトなパフォーマンスを堪能するにはこの映像が良い。

映像が良くなり、インタビューの字幕が出るわけで、(回し者ではないが)このDVD発売は「事件」だと思う。

ところで、フリー・ジャズ、アヴァンギャルドの映像としては、『Rising Tones Cross』の存在がある。ちょっと前に海外DVDで出たはずだが(VHSしか持っていない)、これも日本盤を出して欲しい。『イマジン・ザ・サウンド』の4人の英語と比べ、チャールズ・ゲイルの長話はわかりにくいので・・・。










セシル・テイラーとトニー・オクスレー、アントワープ Leica M3, Summitar 50mm/f2.0, スペリア1600