先日、島尾ミホさんが亡くなった。
島尾敏雄の妻、『死の棘』に描かれた凄絶な夫との諍いとその果ての狂乱、故郷奄美での快復、夫亡き後の生活。
幻視者でもあった。
第一艇隊第一番壕(島尾の乗る隊長艇が格納されていた壕)の前に立つと、過ぎ来し方を壕が語りかけているようで、涙が止め処なく零れてきました。暗い壕の奥に続く夜見(よみ)の国からの亡き夫の声のようにも思えました。すると空気の中の太陽熱が冷たい霧と入れ替わったかと思えるしっとりと皮膚に滲む寒気が全身を包み、私はいつものあの青黒く冷たい世界へと沈んで行く目眩き(めくるめき)に襲われました。夫の没後私は時折奇妙な状態に陥るようになりました。脳の機能に変調が兆し始めたのか、視覚神経の一過性異常なのか何れにしろ真昼の太陽が突然明るさを失い、あたりが深い青味を帯びた薄闇に暮れて、眼に写るものはすべて暮色に染まり、庭の樹木や、濃緑の照り葉を覆い隠す程に咲き誇る深紅の椿の花々でさえ薄墨色に色褪せ、物音も消え果てた深々の静寂の底に引き込まれる心地で立ち尽くすことを繰り返すようになったのです。
(島尾ミホ『島尾敏雄の戦争文学について』)
2006年、詩人・吉増剛造が奄美・沖縄を歩く映画、『島ノ唄』(伊藤憲)が公開された。「僕は島尾ミホさんの追っかけ(笑)をしていて、生と死の、海と陸の境を覗き込むような眼を盗みたいと思って奄美大島に行っています」と語る吉増剛造(『燃えあがる映画小屋』)にとっては、アレクサンドル・ソクーロフの映画『ドルチェ-優しく』以来の島尾ミホとのコラボレーションであり、『島ノ唄』での出演は必然的だったのだろう。
『島ノ唄』では、島尾ミホが、ガジュマルの木の下で、奄美の昔話「鬼と四人の子ら」を朗読する。その声は高いが底知れず優しいものに聞え、表情は穏やかだった。奄美の言葉―――お母さんのことをアンマーと言い、その頻発が何とも言えない語りのアクセントになっていた。
アンマー・アンマー。
(母上さま。奄美のとおーく呼びかける甘い声。ミホさんのお母さまは、汐路に、立ったまゝ亡くなられた、―――
(吉増剛造『序章 光の扉』(部分))
畑に出ていた母を鬼が喰らい、その頭と顔の皮をかぶり、母になりすまして四人の子が待つ家に帰る。そして夜中に子が寝付いたころ、隣の下の子を喰ってしまう。気づいた上の子三人は庭の木の上に逃げるのだが、鬼は姿が木の下の水溜りに写っているのを見て、水を全て飲もうとする。挙句、鬼は腹が破裂して死ぬ。
ひどい話だが、島尾ミホは、母に化けた鬼の声をも優しく語るのである。
『島ノ唄』から30年近く前、島尾ミホは、敏雄の『東北と奄美の昔ばなし』(創樹社)の付録レコードに、「鬼と四人の子ら」を吹き込んでいる。改めて聴いても、声の優しさは変わっていない。生きるもの、生きないもの、そして世界に対する溢れ出るような愛情から出てくる声なのだろうかと思わせた。
夫が生前カセット・テープにおさめてあった「中国詩詞吟唱」をかけたとたん、胸が激しく波立ち、身も激しく震えた。すぐにテープを止めたが、涙が溢れて止まず、遂に発狂に至ったと思った。嘗て夫が手を触れ、耳にした「中国詩詞吟唱」を思うと、悲しみは募り込み上げ、カセット・テープを抱いていつ迄も声をあげて泣いた。
(島尾ミホ『日日の移ろいの中で』)
1994年発表のエッセイだから、夫の死(1986年)から8年位が過ぎたころである。
ミホ 私は強く子供たちを愛した。私の愛は・・・
ミホ ・・・境界もなく激しく強い。
(『ドルチェ-優しく』採録台本、ソクーロフ監督)
絶えず湧き出てくる愛情の流れ。全くの他人である我々にとっても、このような文字、音声、映像が残されていることはしあわせなことだと思う。